わが愛する地域に
後継の陣列を築こう!
「地涌の同志よ 出でよ」
との深き祈りを重ね
徹して一人を大切に!
忘持経事 P977
『我が頭は父母の頭我が足は父母の足我が十指は父母の十指我が口は父母の口なり』
【通解】
我が頭は父母の頭、我が足は父母の足、我が十指は父母の十指、我が口は父母の口である。
〈寸鉄〉 2018年9月30日
会長の著作は平和実現の力を我らに与える—識者青年よ学べ。前進の糧に
仏法は「現当二世」。常に今できることを全力で。勝利開く一歩をここから
仏が病気や経済苦に負けるわけがないではないか—恩師。確信の題目貫け
大型の台風24号、列島を縦断する恐れ。無冠の友よ!無理せず安全第一で
「報告・連絡・相談」こそ組織の命。的確に素早く。幹部は同志の声に応えよ
☆歌声高く 第20回=完 母の曲
◇わが家と地域を"幸の城"に
歌詞と旋律に、無数の人々の思い出が結び付いている。歌うたび、聴くたびに遠い記憶が鮮やかによみがえる。そんな歌が、学会には数多くある。
本年4月、東京牧口記念会館で行われた本部幹部会の席上、婦人部・白ゆり合唱団が響かせた「母の曲」の歌声に、全国から感動の声が続々と本紙の「声」の欄に寄せられた。
ある婦人は、若き日の池田先生が指揮を執った「大阪の戦い」の前年、1955年(昭和30年)に大阪で入会した母親の、在りし日の様子をつづった。「『母の曲』が発表された時は涙を流し、『ほんま、池田先生は全部分かってくれてはる。そやから何があっても負けられへん』と、全力で活動に励みました」
婦人部の歌「母の曲」の歌詞が発表されたのは、40年前の78年(同53年)10月21日、東京・板橋文化会館で開かれた本部幹部会の席上だった。
スピーチに臨んだ池田先生は、この年、激務の合間を縫って数々の学会歌を制作してきたことを振り返りながら、語り始めた。
「各方面や県、また各部から強い要望があり、歌を作ってまいりました。同志の皆さんは、来る日も来る日も、苦労に苦労を重ねて学会活動に励んでくださっている。そうした方々に、心からいたわりの言葉をかけ、御礼、感謝申し上げたいというのが、私の思いでありました」
歌を贈ることで、皆の喜びとなり、同志へのせめてもの励ましとなり、希望になるのであれば——これが先生の真情であった。
そして茨城の歌「凱歌の人生」と共に、新婦人部歌として発表されたのが「母の曲」だったのである。
1番から4番までの歌詞が紹介されていく。終わるやいなや、婦人部の友から歓声と拍手が起こり、しばらく鳴りやまなかった。
拍手が収まるのを待ってから、先生は言った。
「婦人部の皆さん方の日夜のご活躍に、心から敬意を表して作らせていただきました」
♪ ♭ ♪
先生が「母の曲」の作詞に取り掛かったのは、本部幹部会の前日(10月20日)のこと。
その日、先生は、東京・信濃町の創価婦人会館(後の信濃文化会館)で婦人部の方面幹部らと懇談し、友の話に耳を傾けた。
功徳の体験が広がり、喜びに満ちる組織のこと。宗門の僧による理不尽な学会批判の中で、友の激励に走る同志のこと——報告は尽きることがない。その中で新しい婦人部歌を発表したいという要望があった。
婦人部の代表が作成した歌詞の原案は、この年の6月に完成した創価婦人会館を、「母の城」と詠っていた。
しかし先生は、一人一人の家庭をこそ「母の城」と捉えるべきではないかと訴えた。「自分の今いる場所で、崩れることのない幸せを築き、わが家を寂光土へと転じていくんです。婦人部の皆さんには、それぞれのご家庭を『幸の城』『母の城』にしていく使命があるんです」と。
友の熱意を受け止めた先生は、この日、帰宅してから、作詞に取り掛かることにした。時計の針は午後10時半をさしている。
「さあ、婦人部の歌を作るよ。言うから書き留めてくれないか」と先生が言うと、香峯子夫人が、急いでメモ帳を手にして来た。
先生の口から、言葉が奔流のようにあふれ出す。
幼子抱きて 汗流し……
尊い使命に目覚めた一人の婦人が、あらゆる悲哀を乗り越えて、太陽のように家族を友を照らしつつ、幸の曲を奏でていく——そんな人生の広布旅を、先生は歌詞を通して描きだそうとした。
時折、香峯子夫人に意見を求めながら言葉を練り直す。「婦人部には、ご主人を亡くされ、働きながら懸命にお子さんを育てている方や、結婚なさらずに頑張っている方もおります」との夫人の意見を受け、先生は「城の人々 笑顔あり」との一節を紡いだ。
婦人部は皆、創価家族の"母"である。家庭の城、地域の城の人々に笑顔を広げゆく"太陽"である。
池田先生ご夫妻の共同作業によって、新婦人部歌の歌詞は生まれた。
翌日の本部幹部会終了後には曲も完成。"婦人部は一人も残らず幸せになってもらいたい"との、師の祈りにも似た思いを乗せて、「母の曲」の歌声は全国に広がっていった。
♪ ♭ ♪
かつて池田先生は、婦人部の友に詠み贈った。
母の曲
涙と勇気の
励ましに
母の曲
皆が歌えば
勝利かな
「母の曲」発表40周年の本年、各地の集いでこの歌の合唱が披露されている。
学会活動に走りながら、いつも口ずさんでいるという友は語る。「私にとって『母の曲』は応援歌。曲を心に響かせると、不思議と温かい気持ちで人に会うことができ、喜びに満たされます。どなたとでも、対話が弾むんです」と。
幸福へ、勝利へ——創価の女性の行進の足音は高まる。朗らかに、歌声も高らかに。
MEMO
婦人部歌「母の曲」の誕生の経緯は、小説『新・人間革命』第29巻「常楽」の章に描かれている。また本年の5・3「創価学会母の日」制定30周年を記念して発刊された池田先生の指導集『幸福の花束�』には、「母の曲」のほか「母」「今日も元気で」「永遠の青春」の歌詞・楽譜を収録。QRコードを読み込むと、それぞれの曲を聴くことができる(通信料は必要)。
一、幼子抱きて 汗流し
尊き元初の 使いをば
果たせし日々の 晴れ姿
誰か讃えむ この母を
二、名も無き城を 守りつつ
小さな太陽 変わりなく
あの人照らせ この人も
やがて大きな 幸の母
三、ああ悲しみも いざ越えて
母の祈りは けなげにも
嘆きの坂の 彼方には
城の人々 笑顔あり
四、母はやさしく また強く
胸に白ゆり いざ咲きぬ
老いゆく歳も 忘れ去り
諸天も護れ この舞を
誉れの調べ 母の曲
1978年(昭和53年)に池田先生が手掛けた学会歌
女子部歌「青春桜」
学生部歌「広布に走れ」
男子部歌「友よ起て」
白蓮グループ歌「星は光りて」
壮年部歌「人生の旅」
東京・練馬区の北町地域の支部歌「北町広布」
関西の歌「常勝の空」
千葉の歌「旭日遙かに」
中国方面の歌「地涌の讃歌」
九州の歌「火の国の歌」
四国の歌「我等の天地」
中部の歌「この道の歌」
未来部歌「正義の走者」
東京の歌「ああ感激の同志あり」
東北の歌「青葉の誓い」
神奈川の歌「ああ陽は昇る」
北陸の歌「ああ誓願の歌」
北海道の歌「ああ共戦の歌」(現在の「三代城の歌」)
長野の歌「信濃の歌」
婦人部歌「母の曲」
茨城の歌「凱歌の人生」
埼玉の歌「広布の旗」
東京・世田谷の歌「地涌の旗」
新潟の歌「雪山の道」
栃木の歌「誓いの友」
指導部の歌「永遠の青春」
山梨の歌「文化と薫れ」
大阪・泉州の歌「歓喜の城光れ」
群馬の歌「広布の鐘」
静岡の歌「静岡健児の歌」
連載を終えて
40年前の本紙にくまなく目を通すと、連日のように合唱の写真が掲載されていることに気付く。
胸を張って口を縦に大きく開き、瞳を輝かせて歌う友の姿の、何と誇らしげなことか。にぎやかな歌声まで聞こえてきそうだ。
当時、学会が第1次宗門事件の渦中にあったからこそ、負けずに、明るく乗り越えていこうとする同志の決意が胸に迫ってくる。
1978年4月、池田先生は友にこう呼び掛けた。
「歌声運動を通しておおいに心を開き、おおいに心を弾ませていこう。そこに信心の功徳と歓喜が増幅することを確信して晴れがましく前進してください」
歌声運動に爆発的な勢いをもたらしたものこそ、先生が同年に手掛けた学会歌にほかならない。その数、実に30曲。多くが、夏から秋にかけた数カ月の間に誕生している。
ゆっくりと机に向かって作る余裕など、ほとんどなかったといってよい。先生は、北海道から九州まで列島を同志の激励に駆けた。9月には第4次訪中へ。激務の合間を縫うように、時に移動の車中で詩想を巡らし、時に深夜まで推敲し、翌日も何度も手直ししながら、次々と"魂の歌"を生み出していったのだ。
「一つの歌を作るにも生命を通わせなくてはいけない」「何事によらず"労作業"でなければ、人々の心を打つものはできないものだ」と——。
本連載に、読者から多くの声が寄せられた。先生が作った歌が40年の時を経てもなお、同志の心に深く刻まれ、世代から世代へと歌い継がれていることをあらためて実感した。
いかに学会歌を歌うべきか——。先生は訴える。
「学会歌は、力強い歌声で、力強い生命で歌っていくことだ。それが学会歌の精神である。こういう基本から、もう一度、男子部も、女子部も、新たな『革命』を起こしていただきたい。
新入会のメンバーも増えている。歌を歌うことで、皆の心を一つにし、前進の歩調を合わせていくこともできる」
広宣流布大誓堂完成5周年の「11・18」が近づいてきた。学会の永遠性を確立する時は、"今"である。皆で学会歌を心一つに歌いながら、前進しよう。
2018年9月30日日曜日
2018年9月29日土曜日
2018.09.29 わが友に贈る
「なにの兵法よりも
法華経の兵法」だ。
諦めの心を打ち破り
逆境から勝機を生むのが
日蓮仏法の醍醐味だ!
一念三千法門 P413
『譬えば人十人あらんずるが面面に蔵蔵に宝をつみ我が蔵に宝のある事を知らずかつへ死しこごへ死す、或は一人此の中にかしこき人ありて悟り出すが如し九人は終に知らず、然るに或は教えられて食し或はくくめられて食するが如し』
【通解】
譬えば、人が十人いるとして、各自が蔵々に宝を積んでいるのに、我が蔵に宝があることを知らず、飢え死にして凍え死ぬ。
あるいは一人、このなかに賢い人がいて、蔵の中の食物に気づくようなものである。他の九人はついに知らない。しかし、あるいは教えられて食べ、あるいは口の中に含められて食べるようなものである。
〈寸鉄〉 2018年9月29日
「日中国交正常化」46年。先人達の死闘忘れまじ。民衆交流の大河を未来へ
埼玉青年部の日。広布の旗持つ若人よ。鉄桶の団結で新しき時代の扉開け
難に負けぬ信心こそ永遠の幸福の城築く力—戸田先生。人間革命の劇綴れ
週末は台風の進路や大雨情報に注視を。「自分は大丈夫」との過信は禁物
自転車の「ながらスマホ」視界は95%減と。一瞬の隙が命取り。慣れ排して
☆地域を歩く 徳島歓喜圏 2018年9月20日
◇感謝を届ける"敬老の9月"
日本全国どこにでも、その土地の人々を育み、伝統を築き、守り抜いてきた人たちがいる。
そんな人生の先達に感謝する「敬老の日」を、今年も迎えた(今月17日)。
この日を前に、総務省が発表した人口推計によれば、65歳以上の高齢者が総人口に占める割合は28・1%。一方、厚生労働省が発表した100歳以上の人口は、6万9785人。48年連続で過去最多を更新した。
「老いを敬う日」——それは、生きることの尊さを確かめ合う日でもあろう。人生の幾山河を越えてきた人の知恵と経験こそ、地域で継承すべき"宝"にほかならない。
徳島県は、特に高齢化が進む県の一つ。徳島市西部の鮎喰町と名東町、国府町、そして名西郡の石井町と神山町を広布の舞台とするのが、徳島歓喜圏だ。
谷健夫さん(副圏長)が信心を始めたのは、1966年。当時患っていた病気の全快、クリーニング店としての独立、母と妹3人の家族全員の入会——三つの祈りが全て100日以内にかなったことで、信心への確信を深めた。
学会活動に励む谷さんを支えたのは、地域の壮年部だった。仏法対話も同志への訪問・激励も、常に一緒に行動し、背中で模範を示してくれた。
「先輩たちが、手取り足取り教えてくれたことが、私の信心の基礎になりました」
入会10年後、谷さんは好条件の立地に新たなクリーニング店を開業。地域密着の会社として、店舗は三つに拡大した。
数年前から、経営の中心は長男の正博さん(壮年部員)が担っている。
◇わが町に継承しゆく先輩たちの郷土愛
正博さんと結婚し、家業を支える谷由美さん(支部副婦人部長、地区婦人部長兼任)は、大阪出身の"学会2世"。
心優しい両親も、信心に対しては厳格だった。親子で勤行するのが日課で、「どんな会合も、参加させてもらいなさい」と教えられて育った。
女子部の時、母の故郷である徳島に家族で移住。女子部時代も、婦人部になってからも、悩んだ時はそばに寄り添い、励ましてくれる先輩に恵まれた。故郷を離れた寂しさも、吹き飛んでしまった。
「どこに行っても、学会の温かさは変わりません。そのことを、今度は私が、たくさんの人に伝えていきたい」
人間味あふれる地区の同志の人柄に学び、笑顔の訪問・激励を心掛ける由美さん。3人の子も、広布の庭で育つ。
徳島市国府町に建築設計事務所を構える榎本透さん(副県長)の一家にも、清水のような信心が流れ通う。
1956年に両親が入会。榎本さんも同年、生後間もなくして入会した。
幼い頃の記憶では、当時、国府町に学会員は、ほとんどいなかった。両親は、会う人ごとに仏法を語った。無理解による偏見もあったが、病を克服した父と、それを支えた母の信心は揺るがなかった。
榎本さんはよく、親の自転車の後ろに乗せられ、座談会に連れて行かれた。両親は多くを語らなくとも、背中で信心を教えてくれた。
「学会活動に励む両親は、いつも楽しそうでした。だからこそ、幼心に"すごい信心なんだ"と感じたんです」
23歳で、父が創業した設計事務所で働き始め、10年後には代表取締役に就任。学会活動に行く先では、「お父さんにお世話になったんだよ」と語ってくれる人に多く出会った。仕事も信心も、"2世"として父の志を継ぎ、地域へ貢献しようと誓った。
榎本さんの家は長年、広布の会場だった。娘の敬子さん(圏女子部主任部長)は、自宅で未来部の会合が行われていたのをよく覚えている。遊びに来ていた地域の友達が、そのまま参加することも多かった。
「学会に対する地域の安心と信頼を勝ち取ってきたのが、祖父母や両親の戦いだったのだと思います。当時の話を聞くたびに、草創を開いた人たちへの感謝を深くします」
敬子さんにとって父は"題目の人"。経机の前の畳は、父が座る場所だけ、へこんでいた。地道でひたむきな信心を、敬子さんも継ぐ。
大学卒業後、工務店勤務を経て文化財の保存・修復の仕事に従事。昨年実家に戻り、設計事務所を手伝う傍ら、祖父母の代からの花卉園芸にも汗を流している。
女子部本部長の重長千明さんは、徳島市内で生まれ育った。祖母の代からの信心だ。
中学生の時、病で入退院を繰り返していた父が亡くなった。闘病中、重長さん一家が寂しい思いをしていないか、地域の同志が気にしては、よく自宅を訪問してくれた。
父がいなくなった後、その励ましは、より温かく感じられた。震える母の肩を抱き、痛みを共にしてくれた人も、「負けずに頑張ろう」と鼓舞してくれた人もいた。
大きな慈愛に包まれながら、重長さんは信心に励んだ。高校卒業後は、病院での事務職に就いた。
女子部では先月、本部長に就任した。「先輩にお世話になってばかりですが」とほほ笑む重長さん。人の幸せに尽くす同志の体験に勇気をもらい、その勇気を職場で発揮しようと決意する。
苦難を越えて躍動する彼女の姿に、周囲の人たちも、勇気と希望をもらっている。
◇
石井町生まれの明石佳奈子さん(女子部部長)は、本年3月に創価大学を卒業し、Uターンで帰郷。地元の銀行に勤める社会人1年生だ。
子どもの頃、心待ちにしていたのが、未来部の集いだった。迎えに来てくれる女子部のお姉さんとの会話や、会合で学ぶ「ライオンキング御書」は、楽しい思い出となって心に刻まれている。
創大進学後も、故郷に帰省して会合に顔を出すたびに、"お帰り""帰ってきてるんだね"と、地区の人たちが喜んでくれた。それを見て、自分も笑顔になれた。
就職で地元に戻ろうと決めたのは、"大好きな徳島に尽くしたい"という思いを大切にしたから。
「女子部が一人いるだけで、明るくなるね」。昔からよく知る壮年・婦人部の人たちが、明石さんに言う。
「地域や職場を、明るく変えていく。これが、先輩たちの信心を受け継ぐ青年部の使命だと実感しています」
大小の山々に囲まれる名西郡神山町は、高齢化率が50%に迫る地域だ。大阪出身の山本恭平さん(男子部ニュー・リーダー)は"Iターン"でこの町に住み、農業に従事して7年目である。
以前は学会活動に積極的だったが、徳島に来てからは環境の変化や仕事の悩みなどから、時折、座談会や本部幹部会の中継行事に参加するのがやっとだった。
仕事の悩みは、上司との人間関係からくるものだった。一生懸命働いても評価されず、気持ちが空回りし、心身のバランスを崩した。
そんなある日、地域の個人会場で中継行事に参加した。そこで出会ったのが、南正純さん(副本部長)だった。徳島市に住む南さんはその日、たまたま、実家のある神山を訪れていたのだ。
山本さんは、仕事でつらい思いをしていることを打ち明けた。南さんは渾身の激励を送った。「山本君の使命は大きいよ。必ず乗り越えられるから、一緒に頑張ろう」と。
これを機に、山本さんは再び学会活動に励むように。多忙の合間を縫って、男子部の会合にも参加した。
創価班大学校(当時)に入校した山本さんの育成責任者に就いたのが、榎本裕明さん(男子部副部長)。榎本さんもかつて、壮年部、男子部の激励の中で発心し、大学校で信心の基盤を築いた。
自宅のある石井町から神山町まで、山本さんの励ましに通った。共に信行学の実践に励む中、山本さんの悩みだった職場環境は改善した。
その姿を見て、榎本さん自身も信心への確信を深めた。新しいことに挑戦する積極性が増し、それが営業職にも生きたと実感している。
◇
「青年のためなら、何でも力になりたいんです」。南さんはそう語る。なぜか——。
南さん自身も高校卒業後、就職を機に高知県に住んだ経験があるからだ。故郷の徳島を初めて離れた南さんを、家族のように迎えてくれたのが地域の学会員だった。「遠いところから、よく来たね」と語り、生活の相談に乗ってくれた。同じ会合に行く時は、よく車に乗せてくれた。
その人たちの存在があったからこそ、信心を貫くことができたのだと、南さんは今も感謝を深くする。
だからこそ、徳島の地で信心の旗を掲げる若人の一人一人が、昔の自分と重なる。
71歳の南さんが、青年に伝えたいことがある。
それは、信仰に生き抜く青春こそ、無上の幸福であるということ。
そして、こうも語る。
「青年たちを育成するためには、私たち年長者も一緒に成長しなくてはなりません」
向上するエネルギーを持ち続ける限り、皆が若々しい青年だ。そして、先輩のそうした姿があってこそ、地域を愛する心は、次の世代へ脈々と受け継がれていく。
老若男女が、成長への決意と郷土愛をともどもに深め合う"敬老の9月"である。
法華経の兵法」だ。
諦めの心を打ち破り
逆境から勝機を生むのが
日蓮仏法の醍醐味だ!
一念三千法門 P413
『譬えば人十人あらんずるが面面に蔵蔵に宝をつみ我が蔵に宝のある事を知らずかつへ死しこごへ死す、或は一人此の中にかしこき人ありて悟り出すが如し九人は終に知らず、然るに或は教えられて食し或はくくめられて食するが如し』
【通解】
譬えば、人が十人いるとして、各自が蔵々に宝を積んでいるのに、我が蔵に宝があることを知らず、飢え死にして凍え死ぬ。
あるいは一人、このなかに賢い人がいて、蔵の中の食物に気づくようなものである。他の九人はついに知らない。しかし、あるいは教えられて食べ、あるいは口の中に含められて食べるようなものである。
〈寸鉄〉 2018年9月29日
「日中国交正常化」46年。先人達の死闘忘れまじ。民衆交流の大河を未来へ
埼玉青年部の日。広布の旗持つ若人よ。鉄桶の団結で新しき時代の扉開け
難に負けぬ信心こそ永遠の幸福の城築く力—戸田先生。人間革命の劇綴れ
週末は台風の進路や大雨情報に注視を。「自分は大丈夫」との過信は禁物
自転車の「ながらスマホ」視界は95%減と。一瞬の隙が命取り。慣れ排して
☆地域を歩く 徳島歓喜圏 2018年9月20日
◇感謝を届ける"敬老の9月"
日本全国どこにでも、その土地の人々を育み、伝統を築き、守り抜いてきた人たちがいる。
そんな人生の先達に感謝する「敬老の日」を、今年も迎えた(今月17日)。
この日を前に、総務省が発表した人口推計によれば、65歳以上の高齢者が総人口に占める割合は28・1%。一方、厚生労働省が発表した100歳以上の人口は、6万9785人。48年連続で過去最多を更新した。
「老いを敬う日」——それは、生きることの尊さを確かめ合う日でもあろう。人生の幾山河を越えてきた人の知恵と経験こそ、地域で継承すべき"宝"にほかならない。
徳島県は、特に高齢化が進む県の一つ。徳島市西部の鮎喰町と名東町、国府町、そして名西郡の石井町と神山町を広布の舞台とするのが、徳島歓喜圏だ。
谷健夫さん(副圏長)が信心を始めたのは、1966年。当時患っていた病気の全快、クリーニング店としての独立、母と妹3人の家族全員の入会——三つの祈りが全て100日以内にかなったことで、信心への確信を深めた。
学会活動に励む谷さんを支えたのは、地域の壮年部だった。仏法対話も同志への訪問・激励も、常に一緒に行動し、背中で模範を示してくれた。
「先輩たちが、手取り足取り教えてくれたことが、私の信心の基礎になりました」
入会10年後、谷さんは好条件の立地に新たなクリーニング店を開業。地域密着の会社として、店舗は三つに拡大した。
数年前から、経営の中心は長男の正博さん(壮年部員)が担っている。
◇わが町に継承しゆく先輩たちの郷土愛
正博さんと結婚し、家業を支える谷由美さん(支部副婦人部長、地区婦人部長兼任)は、大阪出身の"学会2世"。
心優しい両親も、信心に対しては厳格だった。親子で勤行するのが日課で、「どんな会合も、参加させてもらいなさい」と教えられて育った。
女子部の時、母の故郷である徳島に家族で移住。女子部時代も、婦人部になってからも、悩んだ時はそばに寄り添い、励ましてくれる先輩に恵まれた。故郷を離れた寂しさも、吹き飛んでしまった。
「どこに行っても、学会の温かさは変わりません。そのことを、今度は私が、たくさんの人に伝えていきたい」
人間味あふれる地区の同志の人柄に学び、笑顔の訪問・激励を心掛ける由美さん。3人の子も、広布の庭で育つ。
徳島市国府町に建築設計事務所を構える榎本透さん(副県長)の一家にも、清水のような信心が流れ通う。
1956年に両親が入会。榎本さんも同年、生後間もなくして入会した。
幼い頃の記憶では、当時、国府町に学会員は、ほとんどいなかった。両親は、会う人ごとに仏法を語った。無理解による偏見もあったが、病を克服した父と、それを支えた母の信心は揺るがなかった。
榎本さんはよく、親の自転車の後ろに乗せられ、座談会に連れて行かれた。両親は多くを語らなくとも、背中で信心を教えてくれた。
「学会活動に励む両親は、いつも楽しそうでした。だからこそ、幼心に"すごい信心なんだ"と感じたんです」
23歳で、父が創業した設計事務所で働き始め、10年後には代表取締役に就任。学会活動に行く先では、「お父さんにお世話になったんだよ」と語ってくれる人に多く出会った。仕事も信心も、"2世"として父の志を継ぎ、地域へ貢献しようと誓った。
榎本さんの家は長年、広布の会場だった。娘の敬子さん(圏女子部主任部長)は、自宅で未来部の会合が行われていたのをよく覚えている。遊びに来ていた地域の友達が、そのまま参加することも多かった。
「学会に対する地域の安心と信頼を勝ち取ってきたのが、祖父母や両親の戦いだったのだと思います。当時の話を聞くたびに、草創を開いた人たちへの感謝を深くします」
敬子さんにとって父は"題目の人"。経机の前の畳は、父が座る場所だけ、へこんでいた。地道でひたむきな信心を、敬子さんも継ぐ。
大学卒業後、工務店勤務を経て文化財の保存・修復の仕事に従事。昨年実家に戻り、設計事務所を手伝う傍ら、祖父母の代からの花卉園芸にも汗を流している。
女子部本部長の重長千明さんは、徳島市内で生まれ育った。祖母の代からの信心だ。
中学生の時、病で入退院を繰り返していた父が亡くなった。闘病中、重長さん一家が寂しい思いをしていないか、地域の同志が気にしては、よく自宅を訪問してくれた。
父がいなくなった後、その励ましは、より温かく感じられた。震える母の肩を抱き、痛みを共にしてくれた人も、「負けずに頑張ろう」と鼓舞してくれた人もいた。
大きな慈愛に包まれながら、重長さんは信心に励んだ。高校卒業後は、病院での事務職に就いた。
女子部では先月、本部長に就任した。「先輩にお世話になってばかりですが」とほほ笑む重長さん。人の幸せに尽くす同志の体験に勇気をもらい、その勇気を職場で発揮しようと決意する。
苦難を越えて躍動する彼女の姿に、周囲の人たちも、勇気と希望をもらっている。
◇
石井町生まれの明石佳奈子さん(女子部部長)は、本年3月に創価大学を卒業し、Uターンで帰郷。地元の銀行に勤める社会人1年生だ。
子どもの頃、心待ちにしていたのが、未来部の集いだった。迎えに来てくれる女子部のお姉さんとの会話や、会合で学ぶ「ライオンキング御書」は、楽しい思い出となって心に刻まれている。
創大進学後も、故郷に帰省して会合に顔を出すたびに、"お帰り""帰ってきてるんだね"と、地区の人たちが喜んでくれた。それを見て、自分も笑顔になれた。
就職で地元に戻ろうと決めたのは、"大好きな徳島に尽くしたい"という思いを大切にしたから。
「女子部が一人いるだけで、明るくなるね」。昔からよく知る壮年・婦人部の人たちが、明石さんに言う。
「地域や職場を、明るく変えていく。これが、先輩たちの信心を受け継ぐ青年部の使命だと実感しています」
大小の山々に囲まれる名西郡神山町は、高齢化率が50%に迫る地域だ。大阪出身の山本恭平さん(男子部ニュー・リーダー)は"Iターン"でこの町に住み、農業に従事して7年目である。
以前は学会活動に積極的だったが、徳島に来てからは環境の変化や仕事の悩みなどから、時折、座談会や本部幹部会の中継行事に参加するのがやっとだった。
仕事の悩みは、上司との人間関係からくるものだった。一生懸命働いても評価されず、気持ちが空回りし、心身のバランスを崩した。
そんなある日、地域の個人会場で中継行事に参加した。そこで出会ったのが、南正純さん(副本部長)だった。徳島市に住む南さんはその日、たまたま、実家のある神山を訪れていたのだ。
山本さんは、仕事でつらい思いをしていることを打ち明けた。南さんは渾身の激励を送った。「山本君の使命は大きいよ。必ず乗り越えられるから、一緒に頑張ろう」と。
これを機に、山本さんは再び学会活動に励むように。多忙の合間を縫って、男子部の会合にも参加した。
創価班大学校(当時)に入校した山本さんの育成責任者に就いたのが、榎本裕明さん(男子部副部長)。榎本さんもかつて、壮年部、男子部の激励の中で発心し、大学校で信心の基盤を築いた。
自宅のある石井町から神山町まで、山本さんの励ましに通った。共に信行学の実践に励む中、山本さんの悩みだった職場環境は改善した。
その姿を見て、榎本さん自身も信心への確信を深めた。新しいことに挑戦する積極性が増し、それが営業職にも生きたと実感している。
◇
「青年のためなら、何でも力になりたいんです」。南さんはそう語る。なぜか——。
南さん自身も高校卒業後、就職を機に高知県に住んだ経験があるからだ。故郷の徳島を初めて離れた南さんを、家族のように迎えてくれたのが地域の学会員だった。「遠いところから、よく来たね」と語り、生活の相談に乗ってくれた。同じ会合に行く時は、よく車に乗せてくれた。
その人たちの存在があったからこそ、信心を貫くことができたのだと、南さんは今も感謝を深くする。
だからこそ、徳島の地で信心の旗を掲げる若人の一人一人が、昔の自分と重なる。
71歳の南さんが、青年に伝えたいことがある。
それは、信仰に生き抜く青春こそ、無上の幸福であるということ。
そして、こうも語る。
「青年たちを育成するためには、私たち年長者も一緒に成長しなくてはなりません」
向上するエネルギーを持ち続ける限り、皆が若々しい青年だ。そして、先輩のそうした姿があってこそ、地域を愛する心は、次の世代へ脈々と受け継がれていく。
老若男女が、成長への決意と郷土愛をともどもに深め合う"敬老の9月"である。
2018年9月28日金曜日
2018.09.28 わが友に贈る
「法華経の信心を・
とをし給え」御聖訓。
どこまでも題目根本に
「必ず勝つ」と祈ろう!
その一念が人生を開く!
孝子御書 P1100
『其の上貴辺の御事は心の内に感じをもう事候、此の法門経のごとくひろまり候わば御悦び申すべし』
【通解】
その上、貴殿(池上宗長殿)の御事は、心の内に感じて思うことがあります。この法門が、法華経に仰せの如く弘まった際には、共に御悦びを申し上げましょう。
〈寸鉄〉 2018年9月28日
崇高な理念掲げる青年を学会は多く輩出—教授。皆が平和世紀の主人公と
「例には他を引くべからず」御書。体験をどしどし語ろう!歓喜は連鎖する
群馬県婦人部の日。人材王国に光る母の大連帯。弾む心で希望対話を拡大
自己の改善により初めて社会は改善できる—文豪昨日より今日!日々前進
"つながり"の種類・量が多い人ほど健康と。心開く爽やかな挨拶が第一歩
☆友のもとへ 第8回 炎の九州縦断指導
◇師子の如く先駆の道を
「先駆は常に嵐」
「先駆は常に激戦」
「先駆は常に労苦」
池田先生が九州の友に示した指針である。
「先駆」——その使命に燃え、九州の友は熾烈な障魔の嵐を勝ち越え、新たな広布の歴史を切り開いてきた。
池田先生の九州訪問の中でも、1990年(平成2年)9月22日からの激励行は、"嵐の九州縦断指導"として、友の不滅の原点と輝く。
韓国初訪問の帰途、先生は空路で九州入りした。福岡、佐賀、熊本と南下し、鹿児島へ。この時、台風が接近していた。嵐が迫る中、先生は鹿児島行きを断行した。
折しも第2次宗門事件が表面化する直前。"嵐"を前に刻まれた11日間の九州縦断指導は、激務の合間を縫って、一人また一人に勇気の炎をともす励ましの連続であった。
◆◇◆
韓国をたった先生が福岡に到着したのは、90年9月22日の夜。23日には修学旅行中の関西創価中学生と記念撮影を行い、九州最高会議に出席。翌24日、佐賀を訪問した。
「来たよ!」「13年ぶりだったね」——先生は懐かしそうに語り、草創の同志の出迎えに応えた。
その一人が中本民夫さん(故人)。長年、県長として佐賀広布に力を尽くし、5人の子を創価の学びやに送り出してきた。
先生は、家族の様子を報告する中本さんの話にじっくり耳を傾け、「子どもが後継の人材としてしっかり育っていることは、すごい財産だ。生々世々、功徳は大きいよ」とたたえた。
さらに、「佐賀は『栄えの国』だ」「これからどんどん良くなるよ。日本一、世界一の都になる」と万感の期待を語った。
炭鉱が盛んだった北波多村(現・唐津市)に生まれた中本さん。両親共に家計を支えるため、幼い頃から働き、十分な教育を受けることができなかった。
わが子に同じ苦労をさせまいと奮闘する両親のおかげで、中本さんは東京大学に進学。化学繊維会社に就職した後、地元に戻って家業を手伝った。
77年(昭和52年)5月、佐賀を訪問した先生が中本さんの両親を会館に招き、広布の労をねぎらった。中本さんは一人を大切にする師の姿を心に焼き付け、弘教に駆けてきた。
長女の登坂妙子さん(九州総合婦人部長)は、そうした"先生一筋"に生きる父の背中を見て育った。
創価大学に学んだ後、東京で働き始めていた登坂さんにとって、忘れられない師との原点がある。社会人1年目の時、地元・佐賀への転勤の話が来た。その折、女子部の代表として、東京・立川文化会館で池田先生と懇談する機会があった。
先生は語った。「どこにあっても同じだよ。私と一緒に広宣流布の大道を歩むのだから」
師の一言に、心がぱっと晴れた。佐賀に戻った登坂さんは、女子部のリーダーとして、友の激励に奔走。"今、ここが池田先生との共戦の舞台"と定め、自分を奮い立たせてきた。
登坂さんは佐賀県女子部長等を歴任し、結婚して福岡へ。先生の90年9月の佐賀訪問では、父の中本さんと佐賀文化会館に駆け付けている。
会館のロビーで、「佐賀に来てくださり、ありがとうございます!」と感謝を述べると、先生は、九州の地で元気に活躍する登坂さんとの再会を喜び、心から祝福した。
その後、登坂さんは九州婦人部長として友の激励に奔走。2人の子も広布後継の道を歩む。
祖父母、両親、登坂さん、子どもたち——。4代にわたって、師の励ましの光が注がれている。
◆◇◆
佐賀訪問の翌日(9月25日)、学会創立60周年を記念する九州総会が福岡の九州池田講堂で開催され、全九州から友が喜び集った。
先生は同講堂で、アルゼンチンのブエノスアイレス大学総長と会談等を行う傍ら、集った友を次々に激励している。
9月27日、講堂周辺に駆け付けた友の中に、樋口博さん・暢子さん夫妻(ともに故人)と長女の鰐淵典子さん(総福岡、区婦人部主事)の姿があった。
先生は博さんの姿を見つけると、「やあ」と片手を上げ、敬礼を。博さんも、手を上げて返礼した。
博さんは戦時中、軍医として中国・満州へ。9年にわたって従軍した。
戦後は、戦争で命を失った友らの分まで社会に貢献したいと、内科・小児科の病院を開業し、地域に尽くした。貧しい家庭から診療代を取らなかったことも、1度や2度ではない。
3市2町からなる筑紫医師会の会長を務め、「筑紫の赤ひげ先生」と呼ばれた。
信心を始めたのは55歳の時。医院の開業から20年の節目だった。その後、結成された創価学会ドクター部では、医師のいない地域で住民の無料健康相談を行う「黎明医療団」の派遣が始まった。博さんもその一員として奔走した。
87年(昭和62年)10月、先生は九州文化会館(現・福岡中央文化会館)で、博さんの広布功労をたたえつつ、周囲の友に語った。「この方は、ずっと陰で学会を守ってくれたんだ。こういう方を大事にしていくのが学会なんだ」
陰で奮闘する同志と共に、その家族にも温かな励ましを送り、見守り続ける。それが先生であることを、長女の典子さんは心から実感する。
夫の敏文さん(同、副本部長)が、仕事先の奄美で倒れたことがあった。頭部を硬い床に打ち付け、両耳の鼓膜を損傷。首の骨を折る重傷だった。
奄美の病院に駆け付けた典子さん。敏文さんの回復に望みがないかのような発言を繰り返す医師に、「夫は頑張ります」と返すのが精いっぱいだった。
その直後、池田先生から温かな激励が。どこまでも一人を思う師の真心に、感謝の涙があふれた。"絶対に夫を救ってみせる"。夫のそばで無我夢中で祈った。1週間で敏文さんは奇跡的に回復。再び、仕事に復帰することができた。
その典子さん夫妻に、池田先生は「ふたりして 父はは つつみて 広布旅」との句を贈っている。
後年、典子さんはがんを患った。2回の手術は無事に成功。その後も、"私には信心がある。師匠がいる。同志がいる"と懸命に祈り、病と闘い続け、寛解を勝ち取った。
3人の娘も使命の道を進む。典子さん夫妻は、師の励ましを胸に、友のもとへと充実の日々を送る。
◆◇◆
コスモス満開の熊本池田平和会館を初訪問した先生は9月28日、熊本・大分合同の記念の会合へ。月刊誌のインタビュー等にも応じた。
また、大分、長崎の友への伝言を託し、29日には鹿児島・霧島の九州研修道場(当時)に向かった。
熊本から研修道場までは約150キロ。台風の影響で、猛烈な風雨が吹き荒れていた。それでも先生は、"青年たちが待っている"と鹿児島へと向かった。
道場に到着した頃、風雨はピークに達していた。無事到着を祈り待っていた友に、先生は「嵐の霧島もいいものだね」。香峯子夫人も「歴史になりますね」と。さらに、先生は同志の無事安穏を祈念した。
夕方には雨が上がり、空はあかね色に染まっていた。
「あんなにきれいに、オレンジ色に輝く空を見たのは初めてでした」——役員を務めた水尻則久さん(宮崎総県、副県長)が回想する。
先生の研修道場滞在は4日間。世界広布30周年を記念する勤行会などの行事が続く中、多くの友が先生との原点を築いている。
この時、水尻さんら宮崎の同志は、友に喜んでもらいたいと、即席の"喫茶店"を準備した。
店名は「キルギス」。同年7月、先生はソ連(当時)を訪問し、キルギス共和国の作家・アイトマートフ氏と語らいを。翌月には、日本で再会し、本部幹部会のスピーチ等でキルギスについて触れていた。
店内には、キルギスに関する写真などが飾られていた。先生はたびたび同店へ。民族衣装をまとったスタッフと談笑した。
スタッフを務める壮年は全員が自営業。先生は一人一人の状況を尋ね、力強く励ました。
設計会社勤務を経て、自身の事務所を構えていた水尻さん。なかなか生活は安定しなかったが、妻の美千子さん(同、県副婦人部長)と活動に励む中で経済革命を成し遂げた。文化班(当時)の一員として県内を走り、宮崎の全国模範の弘教拡大にも貢献した。
10年前、再び経済苦が襲った。水尻さんは再起を期し、派遣社員に。大阪、福岡、熊本に単身赴任した。
"九州の男が負けてなるものか"と、諦めず、腐らず、唱題を続けた。約4年後、思ってもみない好条件で建設会社への再就職が決まり、師に勝利の報告を届けることができた。
2010年から付け始めた唱題表は、8年連続で150万遍を突破した。その祈りの根幹は、師への報恩である。
◆◇◆
1990年9月30日、台風一過の九州研修道場で行われた全国男子青年部幹部会で、先生は厳愛の指導を送った。
「弟子を思う師の心は、弟子が考えるよりはるかに深いものである。その心がわからないということは、弟子にとってこれ以上の不幸はない」
九州縦断指導のさなか、先生は友に詠み贈った。
偉大なる
連続勝利の
九州は
先駆の道をば
師子の如くに
心に師を抱き、師と対話し、師への誓いを果たさんと懸命に行動する。
その実践によってのみ、広布の連続勝利の金字塔が打ち立てられることを、九州の友は深く知っている。
とをし給え」御聖訓。
どこまでも題目根本に
「必ず勝つ」と祈ろう!
その一念が人生を開く!
孝子御書 P1100
『其の上貴辺の御事は心の内に感じをもう事候、此の法門経のごとくひろまり候わば御悦び申すべし』
【通解】
その上、貴殿(池上宗長殿)の御事は、心の内に感じて思うことがあります。この法門が、法華経に仰せの如く弘まった際には、共に御悦びを申し上げましょう。
〈寸鉄〉 2018年9月28日
崇高な理念掲げる青年を学会は多く輩出—教授。皆が平和世紀の主人公と
「例には他を引くべからず」御書。体験をどしどし語ろう!歓喜は連鎖する
群馬県婦人部の日。人材王国に光る母の大連帯。弾む心で希望対話を拡大
自己の改善により初めて社会は改善できる—文豪昨日より今日!日々前進
"つながり"の種類・量が多い人ほど健康と。心開く爽やかな挨拶が第一歩
☆友のもとへ 第8回 炎の九州縦断指導
◇師子の如く先駆の道を
「先駆は常に嵐」
「先駆は常に激戦」
「先駆は常に労苦」
池田先生が九州の友に示した指針である。
「先駆」——その使命に燃え、九州の友は熾烈な障魔の嵐を勝ち越え、新たな広布の歴史を切り開いてきた。
池田先生の九州訪問の中でも、1990年(平成2年)9月22日からの激励行は、"嵐の九州縦断指導"として、友の不滅の原点と輝く。
韓国初訪問の帰途、先生は空路で九州入りした。福岡、佐賀、熊本と南下し、鹿児島へ。この時、台風が接近していた。嵐が迫る中、先生は鹿児島行きを断行した。
折しも第2次宗門事件が表面化する直前。"嵐"を前に刻まれた11日間の九州縦断指導は、激務の合間を縫って、一人また一人に勇気の炎をともす励ましの連続であった。
◆◇◆
韓国をたった先生が福岡に到着したのは、90年9月22日の夜。23日には修学旅行中の関西創価中学生と記念撮影を行い、九州最高会議に出席。翌24日、佐賀を訪問した。
「来たよ!」「13年ぶりだったね」——先生は懐かしそうに語り、草創の同志の出迎えに応えた。
その一人が中本民夫さん(故人)。長年、県長として佐賀広布に力を尽くし、5人の子を創価の学びやに送り出してきた。
先生は、家族の様子を報告する中本さんの話にじっくり耳を傾け、「子どもが後継の人材としてしっかり育っていることは、すごい財産だ。生々世々、功徳は大きいよ」とたたえた。
さらに、「佐賀は『栄えの国』だ」「これからどんどん良くなるよ。日本一、世界一の都になる」と万感の期待を語った。
炭鉱が盛んだった北波多村(現・唐津市)に生まれた中本さん。両親共に家計を支えるため、幼い頃から働き、十分な教育を受けることができなかった。
わが子に同じ苦労をさせまいと奮闘する両親のおかげで、中本さんは東京大学に進学。化学繊維会社に就職した後、地元に戻って家業を手伝った。
77年(昭和52年)5月、佐賀を訪問した先生が中本さんの両親を会館に招き、広布の労をねぎらった。中本さんは一人を大切にする師の姿を心に焼き付け、弘教に駆けてきた。
長女の登坂妙子さん(九州総合婦人部長)は、そうした"先生一筋"に生きる父の背中を見て育った。
創価大学に学んだ後、東京で働き始めていた登坂さんにとって、忘れられない師との原点がある。社会人1年目の時、地元・佐賀への転勤の話が来た。その折、女子部の代表として、東京・立川文化会館で池田先生と懇談する機会があった。
先生は語った。「どこにあっても同じだよ。私と一緒に広宣流布の大道を歩むのだから」
師の一言に、心がぱっと晴れた。佐賀に戻った登坂さんは、女子部のリーダーとして、友の激励に奔走。"今、ここが池田先生との共戦の舞台"と定め、自分を奮い立たせてきた。
登坂さんは佐賀県女子部長等を歴任し、結婚して福岡へ。先生の90年9月の佐賀訪問では、父の中本さんと佐賀文化会館に駆け付けている。
会館のロビーで、「佐賀に来てくださり、ありがとうございます!」と感謝を述べると、先生は、九州の地で元気に活躍する登坂さんとの再会を喜び、心から祝福した。
その後、登坂さんは九州婦人部長として友の激励に奔走。2人の子も広布後継の道を歩む。
祖父母、両親、登坂さん、子どもたち——。4代にわたって、師の励ましの光が注がれている。
◆◇◆
佐賀訪問の翌日(9月25日)、学会創立60周年を記念する九州総会が福岡の九州池田講堂で開催され、全九州から友が喜び集った。
先生は同講堂で、アルゼンチンのブエノスアイレス大学総長と会談等を行う傍ら、集った友を次々に激励している。
9月27日、講堂周辺に駆け付けた友の中に、樋口博さん・暢子さん夫妻(ともに故人)と長女の鰐淵典子さん(総福岡、区婦人部主事)の姿があった。
先生は博さんの姿を見つけると、「やあ」と片手を上げ、敬礼を。博さんも、手を上げて返礼した。
博さんは戦時中、軍医として中国・満州へ。9年にわたって従軍した。
戦後は、戦争で命を失った友らの分まで社会に貢献したいと、内科・小児科の病院を開業し、地域に尽くした。貧しい家庭から診療代を取らなかったことも、1度や2度ではない。
3市2町からなる筑紫医師会の会長を務め、「筑紫の赤ひげ先生」と呼ばれた。
信心を始めたのは55歳の時。医院の開業から20年の節目だった。その後、結成された創価学会ドクター部では、医師のいない地域で住民の無料健康相談を行う「黎明医療団」の派遣が始まった。博さんもその一員として奔走した。
87年(昭和62年)10月、先生は九州文化会館(現・福岡中央文化会館)で、博さんの広布功労をたたえつつ、周囲の友に語った。「この方は、ずっと陰で学会を守ってくれたんだ。こういう方を大事にしていくのが学会なんだ」
陰で奮闘する同志と共に、その家族にも温かな励ましを送り、見守り続ける。それが先生であることを、長女の典子さんは心から実感する。
夫の敏文さん(同、副本部長)が、仕事先の奄美で倒れたことがあった。頭部を硬い床に打ち付け、両耳の鼓膜を損傷。首の骨を折る重傷だった。
奄美の病院に駆け付けた典子さん。敏文さんの回復に望みがないかのような発言を繰り返す医師に、「夫は頑張ります」と返すのが精いっぱいだった。
その直後、池田先生から温かな激励が。どこまでも一人を思う師の真心に、感謝の涙があふれた。"絶対に夫を救ってみせる"。夫のそばで無我夢中で祈った。1週間で敏文さんは奇跡的に回復。再び、仕事に復帰することができた。
その典子さん夫妻に、池田先生は「ふたりして 父はは つつみて 広布旅」との句を贈っている。
後年、典子さんはがんを患った。2回の手術は無事に成功。その後も、"私には信心がある。師匠がいる。同志がいる"と懸命に祈り、病と闘い続け、寛解を勝ち取った。
3人の娘も使命の道を進む。典子さん夫妻は、師の励ましを胸に、友のもとへと充実の日々を送る。
◆◇◆
コスモス満開の熊本池田平和会館を初訪問した先生は9月28日、熊本・大分合同の記念の会合へ。月刊誌のインタビュー等にも応じた。
また、大分、長崎の友への伝言を託し、29日には鹿児島・霧島の九州研修道場(当時)に向かった。
熊本から研修道場までは約150キロ。台風の影響で、猛烈な風雨が吹き荒れていた。それでも先生は、"青年たちが待っている"と鹿児島へと向かった。
道場に到着した頃、風雨はピークに達していた。無事到着を祈り待っていた友に、先生は「嵐の霧島もいいものだね」。香峯子夫人も「歴史になりますね」と。さらに、先生は同志の無事安穏を祈念した。
夕方には雨が上がり、空はあかね色に染まっていた。
「あんなにきれいに、オレンジ色に輝く空を見たのは初めてでした」——役員を務めた水尻則久さん(宮崎総県、副県長)が回想する。
先生の研修道場滞在は4日間。世界広布30周年を記念する勤行会などの行事が続く中、多くの友が先生との原点を築いている。
この時、水尻さんら宮崎の同志は、友に喜んでもらいたいと、即席の"喫茶店"を準備した。
店名は「キルギス」。同年7月、先生はソ連(当時)を訪問し、キルギス共和国の作家・アイトマートフ氏と語らいを。翌月には、日本で再会し、本部幹部会のスピーチ等でキルギスについて触れていた。
店内には、キルギスに関する写真などが飾られていた。先生はたびたび同店へ。民族衣装をまとったスタッフと談笑した。
スタッフを務める壮年は全員が自営業。先生は一人一人の状況を尋ね、力強く励ました。
設計会社勤務を経て、自身の事務所を構えていた水尻さん。なかなか生活は安定しなかったが、妻の美千子さん(同、県副婦人部長)と活動に励む中で経済革命を成し遂げた。文化班(当時)の一員として県内を走り、宮崎の全国模範の弘教拡大にも貢献した。
10年前、再び経済苦が襲った。水尻さんは再起を期し、派遣社員に。大阪、福岡、熊本に単身赴任した。
"九州の男が負けてなるものか"と、諦めず、腐らず、唱題を続けた。約4年後、思ってもみない好条件で建設会社への再就職が決まり、師に勝利の報告を届けることができた。
2010年から付け始めた唱題表は、8年連続で150万遍を突破した。その祈りの根幹は、師への報恩である。
◆◇◆
1990年9月30日、台風一過の九州研修道場で行われた全国男子青年部幹部会で、先生は厳愛の指導を送った。
「弟子を思う師の心は、弟子が考えるよりはるかに深いものである。その心がわからないということは、弟子にとってこれ以上の不幸はない」
九州縦断指導のさなか、先生は友に詠み贈った。
偉大なる
連続勝利の
九州は
先駆の道をば
師子の如くに
心に師を抱き、師と対話し、師への誓いを果たさんと懸命に行動する。
その実践によってのみ、広布の連続勝利の金字塔が打ち立てられることを、九州の友は深く知っている。
2018年9月27日木曜日
2018.09.27 わが友に贈る
寒暖差が大きい時季。
食事や睡眠など
聡明に体調管理を!
尊き使命の日々を
健康第一で進もう!
四条金吾殿御返事 P1186
『貴辺も又かくのごとく敵はねらふらめども法華経の御信心強盛なれば大難もかねて消え候か、是につけても能く能く御信心あるべし』
【通解】
あなたもまた、この故事のように、敵は狙っているのだろうが、法華経の信心が強盛であるので、大難も、事の起こる前に消えたのであろうか。これにつけても、よくよく信心に励んでいきなさい。
〈寸鉄〉 2018年9月27日
戦う精神なくして信心はない—戸田先生。青年よ臆さず語れ。歴史を残せ
熊本女性の日。婦女一体のスクラム強く。地域に友情と幸福の花を爛漫と
偉い人間ほど気取らない—作家。仏法は振る舞い。リーダーは大誠実で光れ
傘差しての自転車運転は違法行為だ。事故も多し。天候不順な今こそ戒めて
よく褒める—これ勉強ができる子を育むコツと。未来の宝に励ましの風を
☆新時代を進む 第31回 人間革命の「旭日」と光れ!
実りの秋。地震、台風、豪雨等の相次ぐ被災で、農漁光部の宝友のご苦労が偲ばれる。
御書に「食を有情に施すものは長寿の報をまねき」(1296ページ)と仰せのように、わが尊き同志の健康長寿、大福徳を強盛に祈る日々である。
— ◇ —
25年前、小説『新・人間革命』の第1章を、「旭日」と掲げた。完結を迎えた今、日本も世界も、新たな地涌の人材群が、まさしく「旭日」の如く輝きを放ち始めた。先輩方の真心の育成ありて、新任のリーダーも、いよいよ陸続と力強く誕生している。
思えば、地域社会に根差した組織の強化を願われた戸田先生から任命を受け、私が東京・葛飾区の初代・総ブロック長として立ったのは、「原水爆禁止宣言」の直後、1957年の9月25日であった。
その折、心通う下町の友と約し合ったことがある。
�勤行・唱題こそ幸福勝利の源泉。白馬が天空を駆け、大宇宙をも動かしゆくような強盛な祈りで前進を。
�学会は麗しい同志愛の世界。歓喜と功徳に満ちた、温かな人間の交流を。
�師弟共戦とは、わが戦野で師に応え、最高の歴史を創り上げること。自分らしく力の限り弟子の戦いを。
�信心とは、勇気の異名。勇気の二字で全てに勝利を。
私自身、新天地で、徹底して家庭指導に回った。会えない友には、激励の手紙を書き送った。一人一人が宿命に打ち勝って「こんなに幸せだ」と言える境涯を開けるようにと祈り抜き、動き抜いたのである。
「自分が動いた分、広宣流布が前進する」
この学会精神を、各地のリーダーたちも生き生きと実践してくれている。新しい息吹で、人間革命の波動が広がっている。男子部大学校の誉れの1期生たちの挑戦も、頼もしい限りだ。
— ◇ —
全国で、青年部教学試験1級に向け、尊き研鑽が重ねられている。
学ぶ青春は幸福だ。
行動する青春は勝利だ。
教材の「兄弟抄」には、「石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる」(御書1083ページ)と仰せである。
わが後継の若人たちよ、いかなる試練も勝ち越えて、真金の生命を鍛えゆけ! 人間革命の「旭日」と光れ!
食事や睡眠など
聡明に体調管理を!
尊き使命の日々を
健康第一で進もう!
四条金吾殿御返事 P1186
『貴辺も又かくのごとく敵はねらふらめども法華経の御信心強盛なれば大難もかねて消え候か、是につけても能く能く御信心あるべし』
【通解】
あなたもまた、この故事のように、敵は狙っているのだろうが、法華経の信心が強盛であるので、大難も、事の起こる前に消えたのであろうか。これにつけても、よくよく信心に励んでいきなさい。
〈寸鉄〉 2018年9月27日
戦う精神なくして信心はない—戸田先生。青年よ臆さず語れ。歴史を残せ
熊本女性の日。婦女一体のスクラム強く。地域に友情と幸福の花を爛漫と
偉い人間ほど気取らない—作家。仏法は振る舞い。リーダーは大誠実で光れ
傘差しての自転車運転は違法行為だ。事故も多し。天候不順な今こそ戒めて
よく褒める—これ勉強ができる子を育むコツと。未来の宝に励ましの風を
☆新時代を進む 第31回 人間革命の「旭日」と光れ!
実りの秋。地震、台風、豪雨等の相次ぐ被災で、農漁光部の宝友のご苦労が偲ばれる。
御書に「食を有情に施すものは長寿の報をまねき」(1296ページ)と仰せのように、わが尊き同志の健康長寿、大福徳を強盛に祈る日々である。
— ◇ —
25年前、小説『新・人間革命』の第1章を、「旭日」と掲げた。完結を迎えた今、日本も世界も、新たな地涌の人材群が、まさしく「旭日」の如く輝きを放ち始めた。先輩方の真心の育成ありて、新任のリーダーも、いよいよ陸続と力強く誕生している。
思えば、地域社会に根差した組織の強化を願われた戸田先生から任命を受け、私が東京・葛飾区の初代・総ブロック長として立ったのは、「原水爆禁止宣言」の直後、1957年の9月25日であった。
その折、心通う下町の友と約し合ったことがある。
�勤行・唱題こそ幸福勝利の源泉。白馬が天空を駆け、大宇宙をも動かしゆくような強盛な祈りで前進を。
�学会は麗しい同志愛の世界。歓喜と功徳に満ちた、温かな人間の交流を。
�師弟共戦とは、わが戦野で師に応え、最高の歴史を創り上げること。自分らしく力の限り弟子の戦いを。
�信心とは、勇気の異名。勇気の二字で全てに勝利を。
私自身、新天地で、徹底して家庭指導に回った。会えない友には、激励の手紙を書き送った。一人一人が宿命に打ち勝って「こんなに幸せだ」と言える境涯を開けるようにと祈り抜き、動き抜いたのである。
「自分が動いた分、広宣流布が前進する」
この学会精神を、各地のリーダーたちも生き生きと実践してくれている。新しい息吹で、人間革命の波動が広がっている。男子部大学校の誉れの1期生たちの挑戦も、頼もしい限りだ。
— ◇ —
全国で、青年部教学試験1級に向け、尊き研鑽が重ねられている。
学ぶ青春は幸福だ。
行動する青春は勝利だ。
教材の「兄弟抄」には、「石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる」(御書1083ページ)と仰せである。
わが後継の若人たちよ、いかなる試練も勝ち越えて、真金の生命を鍛えゆけ! 人間革命の「旭日」と光れ!
2018年9月26日水曜日
2018.09.26 わが友に贈る
自分に負けない人が
最後に栄冠をつかむ。
「いよいよ強盛の
恩志あるべし」
今こそ信心で立とう!
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 P241
『瞋るは地獄貪るは餓鬼癡は畜生諂曲なるは修羅喜ぶは天平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し』
【通解】
瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人界である。このように他人の相には六道がすべて具わっているのであり、四聖は冥伏していて日常に現われないけれども委しく探し求めるならばかならず具わっている。
〈寸鉄〉 2018年9月26日
「法華経は師子吼の第一なり」御書。強気の祈りで栄光の峰へ!勇敢に語れ
大変な所でうんと戦え。広布の勝利を開け—恩師鍛えこそ最高の青春の宝
未入会のご家族に感謝と配慮を。日々の振舞こそ和楽の土台。誠実第一で
国の調査装った詐欺が横行。口座、暗証番号等を騙し取ると。声掛けで撃退
2050年、海のプラごみが魚の総重量上回る—予測。国境越えた対策を
☆御書と歩む� 第35回 三世永遠に福徳の旅路を
『今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみの御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり』(新池殿御消息、1435ページ)
◇通解
(お送りいただいた白米を)さっそく一乗妙法蓮華経(御本尊)の御宝前に供えて、南無妙法蓮華経と、ただ一遍唱えました。亡くなられた最愛のお子さんを、「成仏は決定して疑いない」との経文通りに、霊山浄土へとお送りするためである。
◇同志への指針
題目の力は計り知れない。ただ一遍でも縁する生命を成仏へ導く大功徳があると、御本仏は示されている。
最愛の家族との別れは悲しい。しかし、生死を超えて妙法で結ばれている。霊山浄土はいずこにあるか。唱題し、広布に励む家族の胸の中にある。常に一緒である。
三世永遠に「生も歓喜、死も歓喜」の境涯で、常楽我浄の旅路を共に歩みゆくのだ。
☆御書に学ぶ「彼岸」の意義
今月23日を中心に全国で「秋季彼岸勤行法要」
学会員の題目こそ最高の追善回向
創価学会では今月、「秋分の日(23日)」を中心に、全国の主要会館、墓地公園、納骨堂で「秋季彼岸勤行法要」を営み、故人への追善の勤行・唱題、焼香を厳粛に行います。ここでは日蓮仏法における「彼岸」の意義について、御書を拝しながら確認していきます。
◇日本独特の風習が定着
日本では年2回、「春分の日」や「秋分の日」を挟むそれぞれ前後1週間を「彼岸」と呼び、墓参や先祖供養を行っています。しかし、これは仏教本来の伝統ではなく、日本独特の風習です。
「春分の日」や「秋分の日」は、太陽がほぼ真東から昇り、真西に沈みます。それが、古くからの先祖供養や農耕の儀式と結び付き、「彼岸会」として定着していったともいわれています。
特に、彼岸に合わせて墓参りする習慣は、江戸時代以降、いわゆる"葬式仏教"のもとで根付いたと考えられています。彼岸の本義に立ち返るならば、今日、用いられている先祖供養の意味とは、無関係なものなのです。
そもそも「彼岸」とは、「向こう側の岸」の意味で、「こちら側の岸」を意味する「此岸」との対比で用いられます。
此岸とは煩悩の迷いの世界を譬えたもの、彼岸とは成仏の覚りの境涯を譬えたものです。
また、彼岸には成仏の境涯とともに「到彼岸」、すなわち、そこに到る「修行」「実践」の意義も含んでいます。
法華経以前の教えでは、生まれ変わるたびに仏道修行を繰り返すという「歴劫修行」によって彼岸を目指すことを説いていますが、私たちが実践する日蓮大聖人の仏法はそうではありません。
大聖人は、法華経の肝心であり、成仏の根本法である「南無妙法蓮華経」を唱えることで、この一生のうちに成仏の境涯を開く(=彼岸に到る)ことができると示されています。
◇仏法の随方毘尼の観点
御書にも、「生死の大海には爾前の経は或は筏或は小船なり、生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとづきがたし」(1501ページ)など、「彼岸」という言葉が使われています。しかし、大聖人が「先祖供養」の意義で用いられている箇所は一つもありません。
むしろ、「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(御書1448ページ)と仰せのように、南無妙法蓮華経を唱え、広布に生き抜くことで、誰もがこの一生のうちに生死の大海を越えて、覚りの境涯に到達することができるのです。
そもそも大聖人の仏法では、毎日の勤行・唱題が、先祖への追善回向となっています。毎日が彼岸であり、いわば「常彼岸」とも言えるのです。
その上で、学会は「随方毘尼」(仏法の本義にたがわない限り、地域の習俗や時代の風俗に従うべきであるという考え)の観点から、春と秋の彼岸を一つの節目に、信心を深め、仏縁を広げる機会として、追善の法要を行っています。
法要には、信心をしていない方々も多数参加して、真心から故人を追悼しており、共感の輪が広がっています。
◇他者に「回らし向ける」
学会の「勤行要典」の御祈念文には、「先祖代々並びに亡くなられた会員・友人の追善供養のために」とあり、学会員は日々、勤行の際に回向を行っています。
御書には、「南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり」(712ページ)と仰せです。
「回向」とは本来、自身の積んだ仏道修行の善根を他者に「回らし向ける」ことです。御書にも「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし」(1429ページ)とあるように、私たち自身が今世での成仏を目指して修行することこそ、仏教正統の実践であり、その功徳を故人に回らし向けることが追善回向の意義です。
大聖人の御遺命である広布にまい進する学会員の日々の勤行・唱題こそ、故人への最高の追善回向にほかなりません。
そうした点を踏まえれば、日顕宗の「僧侶に拝んでもらわなければ回向にならない」等の主張が、いかに的外れなものかが分かります。
そもそも、「僧は葬送儀礼に関わらない」というのが釈尊の遺言であり、仏教の伝統でした。回向は僧侶に拝んでもらうことで決まるのではなく、あくまでも自分自身の信心によるものです。
創価の同志が会館等に集って勤行・唱題し、信心の継承者として広宣流布への決意を深める——。この学会の法要こそ、日蓮大聖人のお心にのっとったものなのです。
〈コラム〉 謗法への布施
●悪への供養は悪道に堕ちる
日顕宗は、"坊主を呼んで追善しなければ、先祖は成仏しない"などと主張していますが、これは御書とは関係のない全くの邪義です。
日蓮大聖人は堕落した僧侶を、「食法がき」(御書1111ページ)と痛烈に破折されています。
日顕宗の坊主は「お経回り」と称して檀家を回り、僧侶の読経をありがたいものだと思わせては供養を稼いでいます。また、塔婆や戒名を"金もうけの道具"にするなど、大聖人を利用して供養集めをしています。そうした姿こそ「食法餓鬼」そのものです。
大聖人は「真心からの供養であっても、悪への供養であれば功徳とならず、かえって悪道に堕ちてしまうことになる」(同1486ページ、趣意)と仰せです。
日顕宗は広布を破壊し、大聖人に違背する大謗法の輩です。日顕宗に塔婆供養などを頼めば、謗法の与同罪で功徳どころか罰を受けてしまいます。日顕宗への供養は、全て「謗法への布施」となり、かえって自身が悪業を積むことになるのです。
★池田先生の指導から
日蓮大聖人は、御義口伝で明快に仰せになられている。
「今、日蓮と、その弟子たちが、亡くなられた聖霊を追善し、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、題目の光が無間地獄にまで至って、即身成仏させる」(御書712ページ、通解)
この末法濁悪の現代世界にあって、大聖人の仰せ通りに、難を乗り越え、不惜身命で広宣流布に励んでいるのは、ただ創価学会の私たちだけである。
この私たちの唱える題目には、計り知れない大功力がある。それは、生きている人々はもちろん、亡くなった方々の生命にも厳然と通ずる。
その題目の光は、たとえ言語に絶する地獄の苦しみの生命であっても、赫々と照らして、必ず必ず即身成仏させることができると御断言なのである。
私たちの題目の響きには、それほどの力が込められているのだ。
御本仏の仰せは、絶対であられる。
この一点を大確信していくならば、いかに悲しい生死の別れがあろうとも、嘆きに沈むことはない。
生命は永遠である。三世にわたって、心を通わせていける。苦しみから救っていける。悲観や感傷をも超克しながら、「常楽我浄」の生命の旅を、ともに励まし、ともどもに歩んでまいりたい。
戸田先生は、よく語られた。「広宣流布のために、日夜活躍している子どもの信心の功徳によって、必ず親も成仏していけるのである」
"坊主に拝んでもらわなければ成仏できない"などとは、御書のどこにも記されていない。
大聖人は、親孝行の真心を尽くした女性の弟子に対して、"亡くなった、優しかったお父さまは、娘のあなたの題目の声を聞かれて仏になられるのです"と励ましておられる(同1424ページ)。
さらに、信心に励む女性門下に、「この功徳は、あなたの父母や祖父母、さらに無量無辺の衆生にも及んでいくでしょう」(同1231ページ、通解)と教えられている。
大聖人の仏法においては、自分自身が仏道修行に励んで成仏することが根本であり、その功徳を故人に回らし向けることが、真の追善回向になる。
それは、大聖人の御心に寸分も違わぬ、創価学会の広宣流布の和合僧の中でこそ、実現できるのだ。
(2008・9・26付、秋季彼岸勤行法要でのスピーチ〈上〉)
最後に栄冠をつかむ。
「いよいよ強盛の
恩志あるべし」
今こそ信心で立とう!
如来滅後五五百歳始観心本尊抄 P241
『瞋るは地獄貪るは餓鬼癡は畜生諂曲なるは修羅喜ぶは天平かなるは人なり他面の色法に於ては六道共に之れ有り四聖は冥伏して現われざれども委細に之を尋ねば之れ有る可し』
【通解】
瞋るは地獄・貪るは餓鬼・癡は畜生・諂曲なるは修羅・喜ぶは天・平かなるは人界である。このように他人の相には六道がすべて具わっているのであり、四聖は冥伏していて日常に現われないけれども委しく探し求めるならばかならず具わっている。
〈寸鉄〉 2018年9月26日
「法華経は師子吼の第一なり」御書。強気の祈りで栄光の峰へ!勇敢に語れ
大変な所でうんと戦え。広布の勝利を開け—恩師鍛えこそ最高の青春の宝
未入会のご家族に感謝と配慮を。日々の振舞こそ和楽の土台。誠実第一で
国の調査装った詐欺が横行。口座、暗証番号等を騙し取ると。声掛けで撃退
2050年、海のプラごみが魚の総重量上回る—予測。国境越えた対策を
☆御書と歩む� 第35回 三世永遠に福徳の旅路を
『今一乗妙法蓮華経の御宝前に備へ奉りて南無妙法蓮華経と只一遍唱えまいらせ候い畢んぬ、いとをしみの御子を霊山浄土へ決定無有疑と送りまいらせんがためなり』(新池殿御消息、1435ページ)
◇通解
(お送りいただいた白米を)さっそく一乗妙法蓮華経(御本尊)の御宝前に供えて、南無妙法蓮華経と、ただ一遍唱えました。亡くなられた最愛のお子さんを、「成仏は決定して疑いない」との経文通りに、霊山浄土へとお送りするためである。
◇同志への指針
題目の力は計り知れない。ただ一遍でも縁する生命を成仏へ導く大功徳があると、御本仏は示されている。
最愛の家族との別れは悲しい。しかし、生死を超えて妙法で結ばれている。霊山浄土はいずこにあるか。唱題し、広布に励む家族の胸の中にある。常に一緒である。
三世永遠に「生も歓喜、死も歓喜」の境涯で、常楽我浄の旅路を共に歩みゆくのだ。
☆御書に学ぶ「彼岸」の意義
今月23日を中心に全国で「秋季彼岸勤行法要」
学会員の題目こそ最高の追善回向
創価学会では今月、「秋分の日(23日)」を中心に、全国の主要会館、墓地公園、納骨堂で「秋季彼岸勤行法要」を営み、故人への追善の勤行・唱題、焼香を厳粛に行います。ここでは日蓮仏法における「彼岸」の意義について、御書を拝しながら確認していきます。
◇日本独特の風習が定着
日本では年2回、「春分の日」や「秋分の日」を挟むそれぞれ前後1週間を「彼岸」と呼び、墓参や先祖供養を行っています。しかし、これは仏教本来の伝統ではなく、日本独特の風習です。
「春分の日」や「秋分の日」は、太陽がほぼ真東から昇り、真西に沈みます。それが、古くからの先祖供養や農耕の儀式と結び付き、「彼岸会」として定着していったともいわれています。
特に、彼岸に合わせて墓参りする習慣は、江戸時代以降、いわゆる"葬式仏教"のもとで根付いたと考えられています。彼岸の本義に立ち返るならば、今日、用いられている先祖供養の意味とは、無関係なものなのです。
そもそも「彼岸」とは、「向こう側の岸」の意味で、「こちら側の岸」を意味する「此岸」との対比で用いられます。
此岸とは煩悩の迷いの世界を譬えたもの、彼岸とは成仏の覚りの境涯を譬えたものです。
また、彼岸には成仏の境涯とともに「到彼岸」、すなわち、そこに到る「修行」「実践」の意義も含んでいます。
法華経以前の教えでは、生まれ変わるたびに仏道修行を繰り返すという「歴劫修行」によって彼岸を目指すことを説いていますが、私たちが実践する日蓮大聖人の仏法はそうではありません。
大聖人は、法華経の肝心であり、成仏の根本法である「南無妙法蓮華経」を唱えることで、この一生のうちに成仏の境涯を開く(=彼岸に到る)ことができると示されています。
◇仏法の随方毘尼の観点
御書にも、「生死の大海には爾前の経は或は筏或は小船なり、生死の此岸より生死の彼岸には付くと雖も生死の大海を渡り極楽の彼岸にはとづきがたし」(1501ページ)など、「彼岸」という言葉が使われています。しかし、大聖人が「先祖供養」の意義で用いられている箇所は一つもありません。
むしろ、「生死の大海を渡らんことは妙法蓮華経の船にあらずんば・かなふべからず」(御書1448ページ)と仰せのように、南無妙法蓮華経を唱え、広布に生き抜くことで、誰もがこの一生のうちに生死の大海を越えて、覚りの境涯に到達することができるのです。
そもそも大聖人の仏法では、毎日の勤行・唱題が、先祖への追善回向となっています。毎日が彼岸であり、いわば「常彼岸」とも言えるのです。
その上で、学会は「随方毘尼」(仏法の本義にたがわない限り、地域の習俗や時代の風俗に従うべきであるという考え)の観点から、春と秋の彼岸を一つの節目に、信心を深め、仏縁を広げる機会として、追善の法要を行っています。
法要には、信心をしていない方々も多数参加して、真心から故人を追悼しており、共感の輪が広がっています。
◇他者に「回らし向ける」
学会の「勤行要典」の御祈念文には、「先祖代々並びに亡くなられた会員・友人の追善供養のために」とあり、学会員は日々、勤行の際に回向を行っています。
御書には、「南無妙法蓮華経と唱え奉る時・題目の光無間に至りて即身成仏せしむ、廻向の文此れより事起るなり」(712ページ)と仰せです。
「回向」とは本来、自身の積んだ仏道修行の善根を他者に「回らし向ける」ことです。御書にも「自身仏にならずしては父母をだにもすくいがたし」(1429ページ)とあるように、私たち自身が今世での成仏を目指して修行することこそ、仏教正統の実践であり、その功徳を故人に回らし向けることが追善回向の意義です。
大聖人の御遺命である広布にまい進する学会員の日々の勤行・唱題こそ、故人への最高の追善回向にほかなりません。
そうした点を踏まえれば、日顕宗の「僧侶に拝んでもらわなければ回向にならない」等の主張が、いかに的外れなものかが分かります。
そもそも、「僧は葬送儀礼に関わらない」というのが釈尊の遺言であり、仏教の伝統でした。回向は僧侶に拝んでもらうことで決まるのではなく、あくまでも自分自身の信心によるものです。
創価の同志が会館等に集って勤行・唱題し、信心の継承者として広宣流布への決意を深める——。この学会の法要こそ、日蓮大聖人のお心にのっとったものなのです。
〈コラム〉 謗法への布施
●悪への供養は悪道に堕ちる
日顕宗は、"坊主を呼んで追善しなければ、先祖は成仏しない"などと主張していますが、これは御書とは関係のない全くの邪義です。
日蓮大聖人は堕落した僧侶を、「食法がき」(御書1111ページ)と痛烈に破折されています。
日顕宗の坊主は「お経回り」と称して檀家を回り、僧侶の読経をありがたいものだと思わせては供養を稼いでいます。また、塔婆や戒名を"金もうけの道具"にするなど、大聖人を利用して供養集めをしています。そうした姿こそ「食法餓鬼」そのものです。
大聖人は「真心からの供養であっても、悪への供養であれば功徳とならず、かえって悪道に堕ちてしまうことになる」(同1486ページ、趣意)と仰せです。
日顕宗は広布を破壊し、大聖人に違背する大謗法の輩です。日顕宗に塔婆供養などを頼めば、謗法の与同罪で功徳どころか罰を受けてしまいます。日顕宗への供養は、全て「謗法への布施」となり、かえって自身が悪業を積むことになるのです。
★池田先生の指導から
日蓮大聖人は、御義口伝で明快に仰せになられている。
「今、日蓮と、その弟子たちが、亡くなられた聖霊を追善し、法華経を読誦し、南無妙法蓮華経と唱えるとき、題目の光が無間地獄にまで至って、即身成仏させる」(御書712ページ、通解)
この末法濁悪の現代世界にあって、大聖人の仰せ通りに、難を乗り越え、不惜身命で広宣流布に励んでいるのは、ただ創価学会の私たちだけである。
この私たちの唱える題目には、計り知れない大功力がある。それは、生きている人々はもちろん、亡くなった方々の生命にも厳然と通ずる。
その題目の光は、たとえ言語に絶する地獄の苦しみの生命であっても、赫々と照らして、必ず必ず即身成仏させることができると御断言なのである。
私たちの題目の響きには、それほどの力が込められているのだ。
御本仏の仰せは、絶対であられる。
この一点を大確信していくならば、いかに悲しい生死の別れがあろうとも、嘆きに沈むことはない。
生命は永遠である。三世にわたって、心を通わせていける。苦しみから救っていける。悲観や感傷をも超克しながら、「常楽我浄」の生命の旅を、ともに励まし、ともどもに歩んでまいりたい。
戸田先生は、よく語られた。「広宣流布のために、日夜活躍している子どもの信心の功徳によって、必ず親も成仏していけるのである」
"坊主に拝んでもらわなければ成仏できない"などとは、御書のどこにも記されていない。
大聖人は、親孝行の真心を尽くした女性の弟子に対して、"亡くなった、優しかったお父さまは、娘のあなたの題目の声を聞かれて仏になられるのです"と励ましておられる(同1424ページ)。
さらに、信心に励む女性門下に、「この功徳は、あなたの父母や祖父母、さらに無量無辺の衆生にも及んでいくでしょう」(同1231ページ、通解)と教えられている。
大聖人の仏法においては、自分自身が仏道修行に励んで成仏することが根本であり、その功徳を故人に回らし向けることが、真の追善回向になる。
それは、大聖人の御心に寸分も違わぬ、創価学会の広宣流布の和合僧の中でこそ、実現できるのだ。
(2008・9・26付、秋季彼岸勤行法要でのスピーチ〈上〉)
2018年9月25日火曜日
2018.09.25 わが友に贈る
何事も生き生きと
前向きに取り組もう!
今いる場所こそ
自らを成長させる
人間革命の道場だ!
立正安国論 P31
『悦しきかな汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る』
【通解】
悦ばしいことに、あなたが蘭室の友(蘭の香りのように人徳の薫り高い人)に交わって感化を受け、蓬のように曲がっていた「邪信」が、麻のように素直な「正信」になることができた。
〈寸鉄〉 2018年9月25日
米国に師子5万の連帯!青年こそ未来。共に肩組み平和の潮流をここから
自分がどれだけ偉大な存在か皆忘れている—恩師地涌の使命に生きる誉れ
哲学するとは活気を与え蘇生させること—詩人。学会活動にはその実像が
探査ロボ、小惑星に着陸。太陽系の起源に迫る浪漫我らも宇宙大の心で悠々
酒が原因で毎年300万人が死亡。暴力や交通事故が多く—WHO。断固撲滅
☆第37回本部幹部会で紹介された池田先生の指針 師弟は不二であれ! 師の真実に生きよ
恩師の魂大切な仏子を一人残らず幸福に
広布の一切の責任を担い立て
愚人にほめられたるは第一の恥
大聖にほめらるるは一生の名誉
「世界広布新時代第37回本部幹部会」(1日、横浜市鶴見区の神奈川池田記念講堂)の席上、1991年10月の関西総会での池田先生のスピーチ映像が上映された。師弟共戦の心で、新たな人間革命の歴史を刻みゆく友の指針として掲載する。
一、大変にご苦労さま! また、祝賀の集い、本当におめでとう!
一、私が『人間革命』の執筆を決意したのは、戸田先生の「真実」を、正しく後世に伝えたい、残しておかねばならないとの思いからであった。
戸田先生の弟子と名乗る人は多かった。また、戸田先生にお世話になり、直接、指導を受けた人も数多くいた。
にもかかわらず、戸田先生の死後、師敵対して、学会に反逆する者も出ている。
それは、戸田先生の「真実」を知る人が極めて少なかったことを物語っている。
事実と真実——これほど判別の難しいものもない。人間の目に映った「事実」が、必ずしも「真実」を表しているとは限らないからである。
「事実」は、ある意味で、だれにでも見える。しかし「真実」は、それを見極める目を磨かなくては、決して見抜くことはできない。
悠然たる心
一、こんなエピソードがある。
戦前のことだが、初代会長の牧口先生が一生懸命に講義をされているのに、理事長の戸田先生は、よく将棋をさしていたというのである。
周囲の人は、それを見て、「会長は講義、理事長は将棋」と陰口を言い、「不遜極まりない、傍若無人な振る舞いである」と非難した。
しかし、そこには、戸田先生の深いお考えがあった。
当時、厳しく罰論を説く牧口先生についていけず、一部に離れていこうとする人々もいた。
そこで戸田先生は、悠々と将棋をすることで、学会の自由さを示しながら、雰囲気をなごませ、励まし、退転への防波堤となっておられたのである。
そうした戸田先生の「真実」を、牧口先生だけはご存じであった。
だからこそ、あの厳格な牧口先生が、そうした振る舞いを、決して咎めようとはされなかったのである。
境涯で決まる
一、また、戦後、戸田先生の事業が暗礁に乗り上げた時のことである。莫大な負債。会社は倒産。給料も、もらえない。人々も去っていった。
しかし、そのさなかで、先生は私に言われた。「大作、大学をつくろう、創価大学をつくろうよ。いつごろつくろうか」と——。
他の人が聞いたら、何を"ほら話"をと思ったであろう。
苦境という「事実」はどうあれ、この悠然たる心に、先生の「真実」があった。その壮大なる希望、闘争の一念、絶対の確信——私は知っていた。私は忘れない。
だが、その先生を、「ペテン師」「詐欺師」と非難する者は多かった。一時の姿のみで、先生を悪人と決めつけたのである。
先生は、まったく弁解されなかった。そうした人々とは、あまりにも「次元」が違っていた。「境涯」が、人間としての「格」が違っていた。
一、「事実」といっても、一断面のみ見れば、「真実」とまったく違った様相を呈する場合もある。
また、同じ「事実」を前にしても、そのとらえ方、見方は、人によって異なる。歪んだ鏡には、すべてが歪んで映る。歪んだ心の人には、一切が歪んで見えてしまう。物事を見極める眼力——それは、自らの「境涯」で決まる。
御書に「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(237ページ)と。また戸田先生も、この御聖訓を拝して、「大聖にほめらるるは一生の名誉なり」と言われていた。
使命の生涯を
一、戸田先生の「真実」とは何か。
結論して言えば、「広宣流布あるのみ」——ただそれしかなかった。そして、「広宣流布」を進めゆくための「創価学会」を築き、守りぬいていく以外にない——ここにこそ、先生の「真実」があった。
そして「大切な仏子を、一人残らず幸福にさせたい」との一念——先生のお考え、行動の一切は、そこに発し、そこに尽きていた。もとより、相手の地位や名声、財産など、まったく眼中になかった。
ある時は、阿修羅のごとく悪を砕き、ある時は、大海のごとき慈愛で同志を包んでくださった——ただ一人、広布の前進を担われた先生であられた。
一、私は、19歳の夏、先生とお会いした。1年数カ月後、21歳からは直接、先生のおそばで働いた。365日、朝から夜中まで、懸命にお仕えした。
——「真実」を知るためには、多面的に「事実」を多く知ることも、その一つの前提となろう。
なかでも、その人物が、「最悪の事態のなかで、何をなしたか」を見極めることが肝要であろう。
人物の真価は窮地にあってこそ、明らかとなる。
その意味で私は、先生を、あらゆる面で、つぶさに見てきた。先生の「真実」を、魂の奥底に刻んできた。
一、私は「先生の行くところ、どこまでも行く。先生とともに生き、先生の目的のために死のう」と決めた。弟子として先生の志を受け継ぎ、広宣流布の一切の責任を担いゆかんと決めた。
その時から、先生のお気持ち、お考えが、鮮明に心に映じはじめた。師の真の偉大さ、すばらしさを、胸中深く焼き付けることができた。
また打つ手、打つ手が、師のリズムに合致しゆく自身を確信した。
私が言っていること、やっていることは、すべて先生の心を受けての言動のつもりである。師弟の心は、どこまでも「不二」でなければ、仏法の生命はない。
最後に、尊き使命の生涯を、ともどもに、見事に「満足」で飾っていただきたい、と申し上げ、本日のスピーチとします。
ありがとう! お元気で!
前向きに取り組もう!
今いる場所こそ
自らを成長させる
人間革命の道場だ!
立正安国論 P31
『悦しきかな汝蘭室の友に交りて麻畝の性と成る』
【通解】
悦ばしいことに、あなたが蘭室の友(蘭の香りのように人徳の薫り高い人)に交わって感化を受け、蓬のように曲がっていた「邪信」が、麻のように素直な「正信」になることができた。
〈寸鉄〉 2018年9月25日
米国に師子5万の連帯!青年こそ未来。共に肩組み平和の潮流をここから
自分がどれだけ偉大な存在か皆忘れている—恩師地涌の使命に生きる誉れ
哲学するとは活気を与え蘇生させること—詩人。学会活動にはその実像が
探査ロボ、小惑星に着陸。太陽系の起源に迫る浪漫我らも宇宙大の心で悠々
酒が原因で毎年300万人が死亡。暴力や交通事故が多く—WHO。断固撲滅
☆第37回本部幹部会で紹介された池田先生の指針 師弟は不二であれ! 師の真実に生きよ
恩師の魂大切な仏子を一人残らず幸福に
広布の一切の責任を担い立て
愚人にほめられたるは第一の恥
大聖にほめらるるは一生の名誉
「世界広布新時代第37回本部幹部会」(1日、横浜市鶴見区の神奈川池田記念講堂)の席上、1991年10月の関西総会での池田先生のスピーチ映像が上映された。師弟共戦の心で、新たな人間革命の歴史を刻みゆく友の指針として掲載する。
一、大変にご苦労さま! また、祝賀の集い、本当におめでとう!
一、私が『人間革命』の執筆を決意したのは、戸田先生の「真実」を、正しく後世に伝えたい、残しておかねばならないとの思いからであった。
戸田先生の弟子と名乗る人は多かった。また、戸田先生にお世話になり、直接、指導を受けた人も数多くいた。
にもかかわらず、戸田先生の死後、師敵対して、学会に反逆する者も出ている。
それは、戸田先生の「真実」を知る人が極めて少なかったことを物語っている。
事実と真実——これほど判別の難しいものもない。人間の目に映った「事実」が、必ずしも「真実」を表しているとは限らないからである。
「事実」は、ある意味で、だれにでも見える。しかし「真実」は、それを見極める目を磨かなくては、決して見抜くことはできない。
悠然たる心
一、こんなエピソードがある。
戦前のことだが、初代会長の牧口先生が一生懸命に講義をされているのに、理事長の戸田先生は、よく将棋をさしていたというのである。
周囲の人は、それを見て、「会長は講義、理事長は将棋」と陰口を言い、「不遜極まりない、傍若無人な振る舞いである」と非難した。
しかし、そこには、戸田先生の深いお考えがあった。
当時、厳しく罰論を説く牧口先生についていけず、一部に離れていこうとする人々もいた。
そこで戸田先生は、悠々と将棋をすることで、学会の自由さを示しながら、雰囲気をなごませ、励まし、退転への防波堤となっておられたのである。
そうした戸田先生の「真実」を、牧口先生だけはご存じであった。
だからこそ、あの厳格な牧口先生が、そうした振る舞いを、決して咎めようとはされなかったのである。
境涯で決まる
一、また、戦後、戸田先生の事業が暗礁に乗り上げた時のことである。莫大な負債。会社は倒産。給料も、もらえない。人々も去っていった。
しかし、そのさなかで、先生は私に言われた。「大作、大学をつくろう、創価大学をつくろうよ。いつごろつくろうか」と——。
他の人が聞いたら、何を"ほら話"をと思ったであろう。
苦境という「事実」はどうあれ、この悠然たる心に、先生の「真実」があった。その壮大なる希望、闘争の一念、絶対の確信——私は知っていた。私は忘れない。
だが、その先生を、「ペテン師」「詐欺師」と非難する者は多かった。一時の姿のみで、先生を悪人と決めつけたのである。
先生は、まったく弁解されなかった。そうした人々とは、あまりにも「次元」が違っていた。「境涯」が、人間としての「格」が違っていた。
一、「事実」といっても、一断面のみ見れば、「真実」とまったく違った様相を呈する場合もある。
また、同じ「事実」を前にしても、そのとらえ方、見方は、人によって異なる。歪んだ鏡には、すべてが歪んで映る。歪んだ心の人には、一切が歪んで見えてしまう。物事を見極める眼力——それは、自らの「境涯」で決まる。
御書に「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(237ページ)と。また戸田先生も、この御聖訓を拝して、「大聖にほめらるるは一生の名誉なり」と言われていた。
使命の生涯を
一、戸田先生の「真実」とは何か。
結論して言えば、「広宣流布あるのみ」——ただそれしかなかった。そして、「広宣流布」を進めゆくための「創価学会」を築き、守りぬいていく以外にない——ここにこそ、先生の「真実」があった。
そして「大切な仏子を、一人残らず幸福にさせたい」との一念——先生のお考え、行動の一切は、そこに発し、そこに尽きていた。もとより、相手の地位や名声、財産など、まったく眼中になかった。
ある時は、阿修羅のごとく悪を砕き、ある時は、大海のごとき慈愛で同志を包んでくださった——ただ一人、広布の前進を担われた先生であられた。
一、私は、19歳の夏、先生とお会いした。1年数カ月後、21歳からは直接、先生のおそばで働いた。365日、朝から夜中まで、懸命にお仕えした。
——「真実」を知るためには、多面的に「事実」を多く知ることも、その一つの前提となろう。
なかでも、その人物が、「最悪の事態のなかで、何をなしたか」を見極めることが肝要であろう。
人物の真価は窮地にあってこそ、明らかとなる。
その意味で私は、先生を、あらゆる面で、つぶさに見てきた。先生の「真実」を、魂の奥底に刻んできた。
一、私は「先生の行くところ、どこまでも行く。先生とともに生き、先生の目的のために死のう」と決めた。弟子として先生の志を受け継ぎ、広宣流布の一切の責任を担いゆかんと決めた。
その時から、先生のお気持ち、お考えが、鮮明に心に映じはじめた。師の真の偉大さ、すばらしさを、胸中深く焼き付けることができた。
また打つ手、打つ手が、師のリズムに合致しゆく自身を確信した。
私が言っていること、やっていることは、すべて先生の心を受けての言動のつもりである。師弟の心は、どこまでも「不二」でなければ、仏法の生命はない。
最後に、尊き使命の生涯を、ともどもに、見事に「満足」で飾っていただきたい、と申し上げ、本日のスピーチとします。
ありがとう! お元気で!
2018年9月24日月曜日
2018.09.24 わが友に贈る
「行学の二道を
はげみ候べし」
世界中で学ばれる
太陽の大仏法だ。
求道の挑戦に勇み立て!
安国論御勘由来 P35
『但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず』
【通解】
ただひとえに国のため、法のため、人のためであって、自分の身のために言うのではない。
〈寸鉄〉 2018年9月24日
会長は人と人を結び文明間の対話を推進—教授。一対一の人間外交こそ柱
「日蓮一度もしりぞく心なし」御書。信心は絶対勝利の利剣なり。祈り勝て
一番重要な人とは今この瞬間に目の前にいる人—文豪。真心の激励を友へ
環境衛生週間が開始。ごみ削減等、身近な一歩が地球守る。まず自分から
心不全での入院が毎年増加。高血圧も要因の一つと。生活習慣改善で予防
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(中) 各部リーダーの声
◇長谷川理事長 誓願を胸に報恩の戦いを
「私のこの世に生まれた使命は、また君の使命なんだよ。(中略)私と君とが、使命に生きるならば、きっと大聖人様の御遺命も達成する時が来るだろう。誰がなんと言おうと、強く、強く、一緒に前へ進むのだ!」(第24巻「厳護」の章)
半世紀を超える池田先生の大偉業に対し、ただただ感謝を申し上げるほかありません。
1977年(昭和52年)から学会本部の庶務室で、先生の戦いを間近で見てきました。
世界192カ国・地域に同志がいる。世界が相手である。いわば24時間365日。寝る間も惜しんで、先生は戦ってこられました。
悪しき弟子の反逆、邪宗門の狂乱、会長辞任……嵐が吹き荒れる中で、恩師の構想実現のために、先生はただお一人、命を削る思いで戦い続けられました。
同志を守るために日本中、世界中を駆け巡る先生に、私も随行させていただきました。国家指導者であれ、庶民であれ、行く先々で出会いの劇が生まれました。
93年の北南米指導。ブラジル・リオデジャネイロの国際空港での忘れられない光景があります。南米最高峰の知性の殿堂ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁との出会いです。
総裁は2時間も前から空港の貴賓室で池田先生の到着を待っておられた。高齢の総裁の体調を気遣う周囲に、総裁は「私は、94年間も池田会長を待っていた。待ち続けていたんです。それを思えば、1時間や2時間は、なんでもありません」と。先生と出会われた時の総裁の感激が、居合わせた私にも伝わってきました。
世界には、会員であるなしを問わず、池田先生を慕い、先生の期待に応えようと奮闘している人がたくさんいます。
「在在諸仏土 常与師倶生」の法華経の一節の通りに、私たちは師と共に、この時を選んで、広宣流布のために生まれてきたのだと思えてなりません。
「君にしか果たせない使命がある!」。男子部の頃、まだ信心の浅かった私を、先輩がそう励ましてくれました。
地涌の使命を自覚することができたのは、先輩と共に小説『人間革命』を学んだからです。
恩師に仕える山本伸一の姿に、峻厳な師弟の在り方を教わりました。偉大な師匠を持てることの幸せを知りました。
"使命を見失うな""魔に負けるな、悪に負けるな""学会を、同志を守れ""戦いは断じて勝て""君よ立て、君よ戦え!"——どの巻を読んでも、どのページを開いても、池田先生の、弟子を思う慈愛の声が胸に響いてきます。生命が燃え上がります。池田門下の弟子として、報恩感謝の戦いを、永遠に実践しゆくことを誓います。
◇谷川壮年部長 "人間のための宗教"への大言論戦
「御本仏・日蓮大聖人の御遺命は、広宣流布です。それを忘れたならば、もはや、日蓮仏法の意義はなくなってしまう」(第24巻「厳護」の章)
広宣流布は、断じて成し遂げなければならない。それができるのは、創価学会だけである。そのためには、青年を信じ、全力で育成するしかない——小説『新・人間革命』は、この池田先生の透徹した信念と責任感に貫かれています。
なかでも1976、77年(昭和51、52年)当時の歴史がつづられた第24巻「厳護」の章には、四半世紀後に到来する21世紀を見据えた、青年部の人材育成組織の整備と、「宗教のための人間」から「人間のための宗教」への転換を目指した、日蓮仏法の思想的展開の歴史が描かれています。
特に、本山の輸送班に代わり、「創価班」として新出発した第1回創価班総会の中で先生は、「いかに日蓮大聖人の門流を名乗り、権威を振り回そうが、広宣流布への実践がなければ、そこには、大聖人の御精神はない。それは、儀式化した"死せる宗教"に等しい」と断言され、広布大願に生き抜く人こそ大聖人の真の弟子であると訴えています。
そうした使命を現実社会で果たしゆく激闘の中、学会は第1次・第2次宗門事件を勝ち越え、今、人間主義の哲理を掲げる世界広布の基盤の上に、新たな建設の時代を迎えることができたのです。
私自身、青年部の責任者を務めていた1990年代、池田先生から幾度も直接、ご指導を賜り、訓練していただきました。人生の無上の誉れです。
男子部長を拝命した直後の90年4月、先生が出席された会合で、私が青年部の未曽有の結集を打ち出した時のこと。先生が青年部に語られたご指導は、今も鮮明によみがえってきます。
"人から言われてやるような戦いは、本当の戦いではない。自分たちで決めて、自分たちの責任で勝利を成し遂げる。それが本当の戦いではないか"
"私は師匠・戸田先生の前で、ひとたび口にしたことを、ただの一つもできなかったことはなかった"
広布の全責任を自覚して、全てを祈り、立案し、一切を切り開く——この池田門下の魂を胸に、広布の誓願を断じて果たす人生を全うする覚悟です。
◇永石婦人部長 生命を慈しむ女性の世紀の指標
「わが子を愛し、慈しむ母の心には、敵も味方もない。それは、人間愛と平和の原点である。(中略)伸一は、母から、気づかぬうちに、人間そのものに眼を向けて、平和を考える視点を教えられていたのかもしれない」(第24巻「母の詩」の章)
山本伸一の母・幸が戦時中、若い米兵が連行されたと聞いた時、真っ先に口をついて出たのは「かわいそうに! 怪我をしていなければいいけど。その人のお母さんは、どんなに心配していることだろう……」との言葉でした。敵国への憎悪をあおり立てられる中、その慈愛の深さに涙があふれました。
先生は、この章でつづられたお母さまの姿を通し、女性が本然的に有する"生命を慈しむ心"、そして、女性の世紀の指標を示されたと思えてなりません。
人間愛に満ちた生命尊厳の時代を開くのは女性の力です。ゆえに、先生が描かれた女性の特質は一段と光を放っていくに違いありません。なかんずく、創価の女性が広布の使命を遺憾なく発揮していくことで、誰もが生き生きと輝く平和社会は、必ず築いていけると確信します。
私が学会本部職員にしていただき、創価国際友好会館に勤務していた頃、先生から「まっしぐらに戦わなかったら、宿命転換できないよ」と厳愛の指導を受けました。以来、どんな時もこの言葉を抱き締め、悩みや課題と向き合い前進してきました。そうした経験や、同志の皆さまと触れ合う中で実感するのは、学会活動こそ、人間革命、宿命転換の直道だということです。だからこそ、師と共に無限の福運の道を歩む創価の女性の連帯を、さらに強く、大きく広げていきたいと深く決意しています。
生涯の原点となった同会館で勤務した期間は第30巻「誓願」の章で描かれた第2次宗門事件と重なります。
宗門から破門通告書なるものが届いた翌日(1991年11月30日)、同会館で行われた「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」。この会合に急きょ池田先生が出席されました。
入場された先生が開口一番、「本日は、緊急に"祝賀の集い"があるというので」とユーモアを込めて語り掛けると、場内に笑顔が広がり、雰囲気は一変しました。同志を励まし、邪悪を砕く先生の師子吼は、今も耳朶を離れません。今、「誓願」の章を拝読し、あらためて、先生の真情を学び、命懸けで築き上げてこられた学会を、断じて守り抜くとの破邪顕正の祈りと誓いを強くしました。
先生は幾度も"婦人部がいれば広宣流布は盤石"と励ましてくださいます。これからも私たち婦人部は、先生・奥さまと共に"人間革命の劇"をつづりながら、一家に、地域・社会に、万代に光り輝く広宣流布の基盤を築くことを誓います。
◇竹岡青年部長 五体に刻むべき不滅の精神
「直接、会う機会はなくとも、互いの心は通い合う。唱題によってこそ、魂の絆が織り成され、結ばれていくのだ」(第29巻「源流」の章)
「執筆は、限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない」——『新・人間革命』第1巻「はじめに」の一節を読み、全身に衝撃が走ったことを、今でも鮮明に覚えています。
執筆を開始された1993年、私は高校1年。当時は"完結の日"を想像すらできませんでした。
世界広布の指揮を執られる激闘の中で、一文字一文字に心血を注がれてきた池田先生に、ただただ感謝の思いでいっぱいです。
先生は「会えない全国の会員と対話する思いで書いている」と、執筆の心境を述べられています。そのお心に応えようと、青年部一人一人がそうであるように、私自身も毎朝、師匠と"対話"する思いで拝してきました。
高等部、学生部、男子部——。筆を執り続けられた25年という歳月が、そのまま自分自身の青年部時代と重なることに、意義を感じずにはいられません。『新・人間革命』と歩んだ青春の格闘の日々は、この上ない黄金の歴史です。
特に、なかなか折伏が決まらず悩んだ時、自身や家族の宿命との闘争の渦中……。"苦境を打開しよう"と真剣に祈り、戦っている時ほど、師が紡がれる言々句々が心に染みました。
2016年10月、「源流」の章のこの言葉が聖教新聞に掲載されました。男子部長を3年間務めた後、青年部長の任を受け、出発した直後のことです。
翌11月、ありがたくも、広宣流布大誓堂で池田先生とお会いする機会に恵まれました。苦楽を分かち合った全国の男子部の同志と共に師の励ましのおかげで成就した「3万世帯の弘教」の御礼を込めて、ごあいさつさせていただきました。
先生は私の顔をじっと見つめ、「ありがとう」「ありがとう」と何度も繰り返し言われました。それは、悪戦苦闘を突き抜けて、広布拡大の金字塔を打ち立てた、全国の青年部員に対する励ましの言葉であったと確信します。
「直接、会う機会はなくとも、互いの心は通い合う」——"先生は全てをご存知なんだ!"。師の慈愛の深さに、感動が五体を貫きました。
『人間革命』『新・人間革命』をひもとくことは、"池田先生と対話すること"です。その原理は未来永遠に変わることはありません。
これからも、師弟共戦の「誓願」という主題を貫徹しながら、自他共の生命に栄光凱歌の"日記文書"を厳然とつづってまいります。
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(下) 方面長・婦人部長の声
小説『新・人間革命』執筆の眼目について、池田先生は「精神の継承にこそある」と述べた。この小説に、栄光凱歌の人生を進む勝利の方程式が記されている。『新・人間革命』完結特集(下)では、「誉れの舞台と我らの使命」と題して、『新・人間革命』の一節とともに、方面長・婦人部長の決意を紹介する。
◇総東京・萩本直樹/本陣から勝利の光を
「首都・東京は、学会本部を擁する本陣である。広宣流布の決定打を放つのも、学会の未来を決するのも東京である。東京が強くなった分だけ創価学会は堅固になり、東京が前進した分だけ広宣流布は進むといっても過言ではない。(中略)感激——それは、人と人との触れ合いのなかにある。勇んで行動するなかに生まれる。そして、感激こそが、前進の活力となる」(第28巻「大道」の章)
1978年(昭和53年)8月、東京の歌「ああ感激の同志あり」発表の様子が描かれた場面です。
池田先生は「感激」の二文字を通して、教えてくださいました。偉大な使命をもって、広布の本陣に生まれあわせたこと。久遠の誓いのままに、新たな歴史の幕を開く戦いに連なっていること。これらは感激以外の何ものでもない、と。
この先生の指針を胸に、現実の課題に悪戦苦闘しながら、勇んで人の輪に飛び込み、自他共の幸福を勝ち開いている「感激の同志」と日々、お会いしています。師匠に勝利の結果でお応えしたい——この誓いが前進の原動力であることを、私自身が学ぶ日々です。
創立90周年へ、世界が仰ぎ見る栄光の大広布城を築き、本陣の地から、勝利の光を放ちます。
◇第2総東京・橋口美雪/師弟の道を一筋に
「先師・牧口常三郎と、恩師・戸田城聖の構想を実現し、人類の恒久平和の道を開くために、何から手を打つべきかを考え、学校の創立へ、第一歩を踏み出したのである」
(第12巻「栄光」の章)
池田先生は第3代会長就任の直前の1960年(昭和35年)4月、創価学園の建設用地の視察で、東京・小平市を奥さまと共に訪問。その7年後に学園は創立されました。
学園や創価大学がある「創価教育原点の地」、先生手作りの人材の天地——これが第2総東京の誇りです。
第1次宗門事件の渦中には、立川文化会館を"正義の砦"として、反転攻勢の指揮を執り、一人一人と師弟の絆を強く結んでくださいました。
会長辞任直後の本部総会(79年〈同54年〉5月3日、創価大学)の時、「先生!」と何度も叫んだ婦人の姿の中に、"何があっても師弟の道を一筋に進む"との、私たちが刻むべき魂があります。
「第二東京は広宣流布の新舞台だ。ここも未来が楽しみだ。皆で力を合わせて、新しい歴史を創ってほしいね」——この先生の期待を胸に、婦人部・女子部の「コスモス平和大学校」などで小説『新・人間革命』を学びながら、先生の真実を語り広げていきます。
◇東海道・畑佳伸/"正義の旗"を高く掲げて
「いよいよ本当の勝負だ! いかなる立場になろうが、私は断じて戦う。たった一人になっても。師弟不二の心で断固として勝利してみせる。正義とは、どこまでも広宣流布の大道を進み抜くことだ!」
(第30巻〈上〉「大山」の章)
時は、激動の1979年(昭和54年)。
池田先生は第3代会長を辞任後、東海道の地で、ただ一人、"正義の旗"を掲げ、反転攻勢の指揮を厳然と執られました。
「正義」「共戦」と揮毫された神奈川文化会館。後継への万感の期待をピアノ演奏に託された静岡研修道場。「大山」の章には、その模様が描かれています。
同年5月5日、私は「正義」の書を拝見しました。"どのような立場になられても、私の師匠は池田先生だ!"と奮い立ちました。
最も困難な時に、目の前の一人に勇気の火をともし、渾身の励ましを送ってくださった先生。一人立つ「正義」の心で、真実の同志である「共戦」の友の連帯を広げていく——それが、われら東海道の誓願です。
小説が完結した9月8日は、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を師子吼された日。"創価の平和運動"の源流・東海道が、新たな連続勝利の歴史と師弟の大叙事詩をつづります。
◇関東・大高陽子/「敢闘精神」で勝ち進む
「どうか皆さんもまた、『あそこまで皆のために真心を尽くすのか!』『あれほど情熱をもって行動し抜くのか!』『あの人から、本当の信心を学んだ!』と、後々までも語り継がれる、見事な自身の歴史を築いていただきたい。ひとたび戦いを起こすならば、大情熱を燃やし、敢闘しようではありませんか!」
(第29巻「力走」の章)
この一節は、山本伸一が1978年(昭和53年)11月の第1回「関東支部長会」の席上、支部長・婦人部長の人生の勝利を祈りながら語ったスピーチの内容です。
「真心を尽くす」「情熱をもって行動し抜く」「信心の触発を」——私自身、この指針を生命に刻み、挑戦しています。
同年、先生は埼玉、千葉、茨城、群馬、栃木の関東5県全てに県歌を贈られました。支部長会に先立ち、各県の同志が県歌を歌い、先生と共に出発したことが関東の誇りです。
それから40周年の本年。関東総会を大勝利で終えた直後の6・6「関東婦人部の日」に、先生・奥さまが千葉の浦安平和会館を訪問。関東広布に、さらなる師弟共戦の歴史を刻んでくださいました。
報恩感謝の心で、大関東の魂である「敢闘精神」を燃やし、勝ち進んでいきます。
◇関西・山内洋一/永遠に「常勝の都であれ」
「愛する、愛する関西の同志よ! 未来永劫に関西は、正義の旗が高らかに翻る常勝の都であれ! 民衆を守り抜く人間讃歌の都であれ! 関西がある限り、学会は盤石だ!」
(第28巻「広宣譜」の章)
社会人1年目だった1978年(昭和53年)7月17日、「常勝の空」が発表された幹部会に参加。「君と我とは 久遠より」との師匠の魂こもる歌詞に、感動が全身を貫きました。
翌79年(同54年)の会長辞任の折、「われらの師匠は、永遠に池田先生である」と拳を突き上げた関西の同志。「関西がある限り、学会は盤石だ!」——「常勝の空」に込められた、この先生の深き思いに応え、勇み前進していきました。
迎えた反転攻勢の時代。第1回関西青年平和文化祭が行われた82年(同57年)には、全国をリードする折伏を推進。翌年以降も立正安国の連続闘争を勝ち越えていったのです。
本年、関西は先駆の弘教拡大で、「常勝の空」40周年を荘厳。今再び、「拡大から、さらなる連続勝利へ」という"常勝の方程式"を満天下に示そうと、誓願の炎を燃やしています。一人一人への励ましに徹し、関西魂みなぎる"戦う陣列"を倍増させ、広布史に輝く新たな金字塔を打ち立てる決意です。
◇北海道・日下巌/三代城に輝く希望の指標
「牧口先生、戸田先生が青春時代を過ごされ、飛翔の舞台となったのが北海道だ。ここには、両先生の魂が刻まれている。そして、私も青春の全精魂を傾け、北海道広布の開拓の鍬を振るってきた。北海道は、この北斗七星のように、広宣流布の永遠なる希望の指標であらねばならぬ」(第13巻「北斗」の章)
1968年(昭和43年)9月14日、池田先生が日本最北の都市・稚内を初訪問されてから、本年で50周年。これは山本伸一が稚内市で満天の星を見上げ、述懐した一節です。
「広宣流布の永遠なる希望の指標」——ここに、北海道広布の使命が凝縮されています。
苦労なくして広宣流布はできません。できない理由を数えるよりも、"どうしたらできるか"と必死に祈り、行動し、道を開いていく。これが、北海天地に刻まれた三代会長の精神です。
目指すは、何があろうと師匠を求め、「師弟共戦」に徹し抜く北海道。師匠の誓願に合一して、いかなる悪条件でも「幸福の陣列の拡大」に突き進む北海道。麗しき団結と励まし合いの「創価家族」の模範・北海道です。
師と共に築き上げてきた「三代城」を、さらに盤石ならしめるため、率先して限界突破の戦いに挑戦します。
◇信越・五十嵐真理子/起稿の天地に誇りあり
「長野研修道場がオープンしたのは、一年前の一九七八年(昭和五十三年)八月である。山本伸一にとっては今回が初訪問となる。彼は、戸田が最後の夏に滞在した地を、世界広宣流布への新たな幕を開く最初の夏に訪れたのである。この宿縁の地から、家庭訪問、個人指導の流れを起こし、新しい創価学会の建設に着手しようと心に決めていたのだ。
世界広布といっても、一人への励ましから、身近な一歩から始まるからだ」
(第30巻〈上〉「雌伏」の章)
1979年(昭和54年)8月、長野研修道場を初訪問されて以来、毎年のように信越を訪れ、世界広布の指揮を執ってくださる池田先生。長野研修道場を「新しき前進と創造の電源の地」と位置付け、伝統の夏季研修会から、躍進と勝利の歴史を築いてくださいました。この地で語ってくださった、珠玉のご指導の一つ一つが私たちの永遠の指針です。
報恩の志に燃え、本年5月の信越総会をブロック1以上の弘教拡大で勝ち飾り、今夏も聖教新聞の購読推進の大拡大で、信越の地に師匠をお迎えすることができました。
信越には、小説『新・人間革命』起稿の天地という誇りと原点があります。どこまでも師の心を求め抜き、不二の弟子の陣列を拡大していきます。
◇中部・松波利子/新たな堅塁の歴史を築く
「どうか、皆さんは『まことの時』に、敢然と立ち上がり、私とともに、学会とともに戦い、広宣流布の勇者として、自身の誉れの歴史を築いていってください」
(第14巻「烈風」の章)
1969年(昭和44年)12月、中部を訪問した山本伸一が、三重・松阪会館で「開目抄」の御文を通して指導した一節です。
当時、中部には「言論問題」の嵐が吹き荒れていました。
このとき、最もつらく、悔しい思いをした中部の母たちは、今こそ"まことの時"と決め、池田先生と共に、学会と共に、懸命に戦いました。
先生は、76年(同51年)1月16日、名古屋市南区の婦人部総会に出席。特に理不尽な弾圧に耐え抜いてきた母たちに、「一番尊くて、一番偉いのは、庶民のお母さんです!」と励ましてくださったのです。
婦人部の先輩から、当時の様子を幾度となく伺い、庶民の母に脈打つ不屈の魂を命に刻んできました。
障魔の烈風から同志を守り抜いてくださった先生。その大闘争を命懸けで書きつづってくださった先生への尽きせぬ感謝を胸に、後継の青年部を育成し、堅塁・中部の新たな勝利の歴史を築いていきます。
◇北陸・本郷弘/「誓願」受け継ぐ闘将と
「広宣流布の大誓願に生きる時に、歓喜あふれる地涌の菩薩の大生命がみなぎる。何ものをも恐れず、いかなる困難も乗り越えていける、無限の勇気と智慧と力が脈動します。大誓願に生きることが、最も人生を輝かせていける道なんです」(第28巻「大道」の章)
「この歌が聞きたかったんだよ」——1984年(昭和59年)8月、10回目の北陸指導となる北陸平和文化祭で5万人が北陸の歌「ああ誓願の歌」を大合唱。池田先生は、誓いの歌声を響かせた出演者を「二百点満点の文化祭だった」とたたえてくださいました。
先生が北陸の歌を作られたのは78年(同53年)8月。今年で40年を迎えました。
当時、学生部員だった私は、何としても同志を励ましたいとの先生の真心に胸を熱くしました。
北陸は旧習が根強い土地柄です。その中で、北陸の同志は懸命に妙法の旗を掲げ、地域に蘇生と幸福のドラマを幾重にも広げてきました。
先生は小説に「北陸は、"広布の誓願"に生き抜かれた戸田先生の、ご生誕の地です。どうか、恩師の、その精神を受け継ぐ闘将の皆さんであってください」とつづられました。闘将の誓願の志を果たし、師恩に報いてまいります。
◇東北・盛島明彦/不撓不屈のみちのく魂
「私は、東北の皆さんを尊敬しております。それは、どんな困難にも負けない粘り強さ、不屈の"負けじ魂"があるからです。皆さんには、大難、大苦に、打ちひしがれることなく、広宣流布のために、敢然と立ち上がる真性の強さがある。(中略)私は、かつて広宣流布の総仕上げを東北の皆さんに託しました。いよいよ"負けじ魂"を燃やし、総仕上げの旗頭として、威風堂々と立ち上がってください。時は"今"です」
(第25巻「福光」の章)
東日本大震災から半年となる2011年(平成23年)9月。小説『新・人間革命』「福光」の章の連載が開始されました。当時、不撓不屈の「みちのく魂」で厳しい現実に立ち向かっている東北同志に、先生は最大の励ましを送ってくださいました。
東北に寄せる師匠の深い真心を胸に、広布の尊き使命を託された私たち東北健児は、師恩にお応えする戦いをしなければならない。この一節は、その時が"今"であるとの指針であると拝します。
本年の掉尾を飾る全国男子部幹部会が、12月に東北の地で行われます。
私たちは、その後に行われる中継行事を「東北家族・青葉の誓い総会」として盛大に開催します。青年を先頭に、圧倒的な弘教拡大で荘厳します。
◇中国・篠原康司/開拓の伝統胸に模範の拡大
「彼は、広布の新しき飛翔のために、中国地方を極めて重要視していた。
中国は、西日本の大動脈である。中国が大前進を開始すれば、関西にも、四国にも、そして、九州にも、その波動は伝わっていく。まさに、中国こそ、西日本の前進の要であると、伸一は考えていた」
(第11巻「躍進」の章)
池田先生は、1956年(昭和31年)10月8日に岡山県に中国広布の第一歩をしるされ、翌9日、下関から「山口開拓指導」を開始されました。先生は「人と会う」ことに徹し、一人一人の悩みに耳を傾け、御書を拝しながら励ましを送られました。10倍の拡大で、中国の礎を築いてくださいました。今の私たちがあるのは先生のおかげであると、感謝は尽きません。
本年は方面歌「地涌の讃歌」誕生40周年です。創価の師弟の絆を断ち切ろうとする悪侶らが蠢動する中、中国はこの歌と共に反転攻勢ののろしを上げました。全国模範の拡大で師弟の正義を証明してきました。
中国の友は、10月の中国総会に向け、大前進を開始しました。5県の団結固く、総会を、人材育成と対話拡大で大勝利し、世界広布新時代の新たな歴史を切り開きます。
◇四国・中川京子/志国に脈打つ熱き求道心
「今、この時に、求道の炎を燃やし、波浪を越えて、横浜の地までやって来た四国の同志の果敢な行動は、広宣流布の歴史に燦然と輝き、永遠に語り継がれるにちがいない。大事なことは、学会が苦境に立った時に、いかに行動し、新しい突破口を開くかだ」
(第30巻〈上〉「雌伏」の章)
1980年(昭和55年)、悪侶らが学会攻撃に狂奔する中、四国の同志は「さんふらわあ7」号で3度、神奈川文化会館にいる師のもとへ。
私も5月、白蓮グループの一員として参加。力強いピアノの音色、同志を包み込むように励ましてくださる池田先生の慈愛の声、王者のごとき悠然たる姿は忘れられません。
これまで四国婦人部は、1・14「部の日」を中心に、後継の友に求道の歴史を語り継いできました。
私たちの師匠は永遠に池田先生——それが"志国"の心です。その心を継ぐ青年たちと共に地域に友情を大きく広げる「SOKA YOUTH VOICE」を今秋、四国全土で開催します。
師への尽きせぬ感謝を胸に、"正義の四国"から、今再び熱き求道の心で、共戦の大航海を開始します。
◇九州・平井秀昭/燃え立つ「先駆」の志
「最も苦しんだ同志のところへ駆けつけよう! 一人ひとりと固い握手を交わす思いで、全精魂を込めて、生命の底から励まそう!」(第30巻〈下〉「勝ち鬨」の章)
1981年(昭和56年)12月、九州で刻まれた反転攻勢の歴史を、本年1月9日付で、大分指導から書き起こしていただきました。その後、小説の舞台は、長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」の発表へ。
誉れの歴史をつづっていただいた九州の同志は"今こそ師と共に"との一念を燃え上がらせ、弘教拡大へ驀進を開始しました。
九州長就任の会合の際、先生から「あの大分空港に降り立った時と同じように、火の国・九州の愛弟子たちと、壮大なる栄光のドラマをと心に期しています」との万感こもるメッセージが。先生のお心を、わが心とし、同志のもとへ飛び込んできました。
同志の皆さまと出会うたび、九州の津々浦々に刻まれた、79回におよぶ先生の足跡と共戦の絆を痛感します。私自身が命懸けで師を求め、師に直結し、師を語り抜いていく——この実践によってのみ、大九州の新時代が開かれると確信します。
「永遠に先駆の大九州たれ」との指針を胸に、きょうも同志のもとへ駆け付けます。
◇沖縄・照屋清子/世界初の広布の地帯を
「"私がいる限り、この沖縄を平和の楽土にしてみせる"との強い決意で信心に励み、社会の建設に立ち上がっていくならば、必ずや、沖縄を変えていくことができます。
依正は不二です。自分自身の生命の変革から、すべては変わっていくんです」
(第13巻「楽土」の章)
"戦争の地を平和の楽土に""一番苦しんだ人こそ一番幸せに"——池田先生は、これまで17度、沖縄を訪問され、私たちの深い使命を教えてくださいました。
その師に応えようと、足が鉄板のようになるまで広布に歩いた草創の先輩の闘争によって、"東洋のハワイ"と輝く沖縄は築かれたのです。
沖縄の歴史に学びながら、私自身も"まずは自分が立ち上がろう"と、行動し続けてきました。これまで、子どもの非行や病気、自身の乳がん等、宿命の嵐に幾度となく襲われました。
しかし、希望をともし続けてくれた池田先生と同志のおかげで、全て乗り越えることができました。
この大恩には、沖縄広布に尽くすことでお応えしようと固く決意しています。
師に誓った"世界で最初の広宣流布の地帯"建設へ、沖縄の創価家族の皆さまと共に、「人間革命」の大潮流を起こしてまいります。
はげみ候べし」
世界中で学ばれる
太陽の大仏法だ。
求道の挑戦に勇み立て!
安国論御勘由来 P35
『但偏に国の為法の為人の為にして身の為に之を申さず』
【通解】
ただひとえに国のため、法のため、人のためであって、自分の身のために言うのではない。
〈寸鉄〉 2018年9月24日
会長は人と人を結び文明間の対話を推進—教授。一対一の人間外交こそ柱
「日蓮一度もしりぞく心なし」御書。信心は絶対勝利の利剣なり。祈り勝て
一番重要な人とは今この瞬間に目の前にいる人—文豪。真心の激励を友へ
環境衛生週間が開始。ごみ削減等、身近な一歩が地球守る。まず自分から
心不全での入院が毎年増加。高血圧も要因の一つと。生活習慣改善で予防
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(中) 各部リーダーの声
◇長谷川理事長 誓願を胸に報恩の戦いを
「私のこの世に生まれた使命は、また君の使命なんだよ。(中略)私と君とが、使命に生きるならば、きっと大聖人様の御遺命も達成する時が来るだろう。誰がなんと言おうと、強く、強く、一緒に前へ進むのだ!」(第24巻「厳護」の章)
半世紀を超える池田先生の大偉業に対し、ただただ感謝を申し上げるほかありません。
1977年(昭和52年)から学会本部の庶務室で、先生の戦いを間近で見てきました。
世界192カ国・地域に同志がいる。世界が相手である。いわば24時間365日。寝る間も惜しんで、先生は戦ってこられました。
悪しき弟子の反逆、邪宗門の狂乱、会長辞任……嵐が吹き荒れる中で、恩師の構想実現のために、先生はただお一人、命を削る思いで戦い続けられました。
同志を守るために日本中、世界中を駆け巡る先生に、私も随行させていただきました。国家指導者であれ、庶民であれ、行く先々で出会いの劇が生まれました。
93年の北南米指導。ブラジル・リオデジャネイロの国際空港での忘れられない光景があります。南米最高峰の知性の殿堂ブラジル文学アカデミーのアタイデ総裁との出会いです。
総裁は2時間も前から空港の貴賓室で池田先生の到着を待っておられた。高齢の総裁の体調を気遣う周囲に、総裁は「私は、94年間も池田会長を待っていた。待ち続けていたんです。それを思えば、1時間や2時間は、なんでもありません」と。先生と出会われた時の総裁の感激が、居合わせた私にも伝わってきました。
世界には、会員であるなしを問わず、池田先生を慕い、先生の期待に応えようと奮闘している人がたくさんいます。
「在在諸仏土 常与師倶生」の法華経の一節の通りに、私たちは師と共に、この時を選んで、広宣流布のために生まれてきたのだと思えてなりません。
「君にしか果たせない使命がある!」。男子部の頃、まだ信心の浅かった私を、先輩がそう励ましてくれました。
地涌の使命を自覚することができたのは、先輩と共に小説『人間革命』を学んだからです。
恩師に仕える山本伸一の姿に、峻厳な師弟の在り方を教わりました。偉大な師匠を持てることの幸せを知りました。
"使命を見失うな""魔に負けるな、悪に負けるな""学会を、同志を守れ""戦いは断じて勝て""君よ立て、君よ戦え!"——どの巻を読んでも、どのページを開いても、池田先生の、弟子を思う慈愛の声が胸に響いてきます。生命が燃え上がります。池田門下の弟子として、報恩感謝の戦いを、永遠に実践しゆくことを誓います。
◇谷川壮年部長 "人間のための宗教"への大言論戦
「御本仏・日蓮大聖人の御遺命は、広宣流布です。それを忘れたならば、もはや、日蓮仏法の意義はなくなってしまう」(第24巻「厳護」の章)
広宣流布は、断じて成し遂げなければならない。それができるのは、創価学会だけである。そのためには、青年を信じ、全力で育成するしかない——小説『新・人間革命』は、この池田先生の透徹した信念と責任感に貫かれています。
なかでも1976、77年(昭和51、52年)当時の歴史がつづられた第24巻「厳護」の章には、四半世紀後に到来する21世紀を見据えた、青年部の人材育成組織の整備と、「宗教のための人間」から「人間のための宗教」への転換を目指した、日蓮仏法の思想的展開の歴史が描かれています。
特に、本山の輸送班に代わり、「創価班」として新出発した第1回創価班総会の中で先生は、「いかに日蓮大聖人の門流を名乗り、権威を振り回そうが、広宣流布への実践がなければ、そこには、大聖人の御精神はない。それは、儀式化した"死せる宗教"に等しい」と断言され、広布大願に生き抜く人こそ大聖人の真の弟子であると訴えています。
そうした使命を現実社会で果たしゆく激闘の中、学会は第1次・第2次宗門事件を勝ち越え、今、人間主義の哲理を掲げる世界広布の基盤の上に、新たな建設の時代を迎えることができたのです。
私自身、青年部の責任者を務めていた1990年代、池田先生から幾度も直接、ご指導を賜り、訓練していただきました。人生の無上の誉れです。
男子部長を拝命した直後の90年4月、先生が出席された会合で、私が青年部の未曽有の結集を打ち出した時のこと。先生が青年部に語られたご指導は、今も鮮明によみがえってきます。
"人から言われてやるような戦いは、本当の戦いではない。自分たちで決めて、自分たちの責任で勝利を成し遂げる。それが本当の戦いではないか"
"私は師匠・戸田先生の前で、ひとたび口にしたことを、ただの一つもできなかったことはなかった"
広布の全責任を自覚して、全てを祈り、立案し、一切を切り開く——この池田門下の魂を胸に、広布の誓願を断じて果たす人生を全うする覚悟です。
◇永石婦人部長 生命を慈しむ女性の世紀の指標
「わが子を愛し、慈しむ母の心には、敵も味方もない。それは、人間愛と平和の原点である。(中略)伸一は、母から、気づかぬうちに、人間そのものに眼を向けて、平和を考える視点を教えられていたのかもしれない」(第24巻「母の詩」の章)
山本伸一の母・幸が戦時中、若い米兵が連行されたと聞いた時、真っ先に口をついて出たのは「かわいそうに! 怪我をしていなければいいけど。その人のお母さんは、どんなに心配していることだろう……」との言葉でした。敵国への憎悪をあおり立てられる中、その慈愛の深さに涙があふれました。
先生は、この章でつづられたお母さまの姿を通し、女性が本然的に有する"生命を慈しむ心"、そして、女性の世紀の指標を示されたと思えてなりません。
人間愛に満ちた生命尊厳の時代を開くのは女性の力です。ゆえに、先生が描かれた女性の特質は一段と光を放っていくに違いありません。なかんずく、創価の女性が広布の使命を遺憾なく発揮していくことで、誰もが生き生きと輝く平和社会は、必ず築いていけると確信します。
私が学会本部職員にしていただき、創価国際友好会館に勤務していた頃、先生から「まっしぐらに戦わなかったら、宿命転換できないよ」と厳愛の指導を受けました。以来、どんな時もこの言葉を抱き締め、悩みや課題と向き合い前進してきました。そうした経験や、同志の皆さまと触れ合う中で実感するのは、学会活動こそ、人間革命、宿命転換の直道だということです。だからこそ、師と共に無限の福運の道を歩む創価の女性の連帯を、さらに強く、大きく広げていきたいと深く決意しています。
生涯の原点となった同会館で勤務した期間は第30巻「誓願」の章で描かれた第2次宗門事件と重なります。
宗門から破門通告書なるものが届いた翌日(1991年11月30日)、同会館で行われた「創価ルネサンス大勝利記念幹部会」。この会合に急きょ池田先生が出席されました。
入場された先生が開口一番、「本日は、緊急に"祝賀の集い"があるというので」とユーモアを込めて語り掛けると、場内に笑顔が広がり、雰囲気は一変しました。同志を励まし、邪悪を砕く先生の師子吼は、今も耳朶を離れません。今、「誓願」の章を拝読し、あらためて、先生の真情を学び、命懸けで築き上げてこられた学会を、断じて守り抜くとの破邪顕正の祈りと誓いを強くしました。
先生は幾度も"婦人部がいれば広宣流布は盤石"と励ましてくださいます。これからも私たち婦人部は、先生・奥さまと共に"人間革命の劇"をつづりながら、一家に、地域・社会に、万代に光り輝く広宣流布の基盤を築くことを誓います。
◇竹岡青年部長 五体に刻むべき不滅の精神
「直接、会う機会はなくとも、互いの心は通い合う。唱題によってこそ、魂の絆が織り成され、結ばれていくのだ」(第29巻「源流」の章)
「執筆は、限りある命の時間との、壮絶な闘争となるにちがいない」——『新・人間革命』第1巻「はじめに」の一節を読み、全身に衝撃が走ったことを、今でも鮮明に覚えています。
執筆を開始された1993年、私は高校1年。当時は"完結の日"を想像すらできませんでした。
世界広布の指揮を執られる激闘の中で、一文字一文字に心血を注がれてきた池田先生に、ただただ感謝の思いでいっぱいです。
先生は「会えない全国の会員と対話する思いで書いている」と、執筆の心境を述べられています。そのお心に応えようと、青年部一人一人がそうであるように、私自身も毎朝、師匠と"対話"する思いで拝してきました。
高等部、学生部、男子部——。筆を執り続けられた25年という歳月が、そのまま自分自身の青年部時代と重なることに、意義を感じずにはいられません。『新・人間革命』と歩んだ青春の格闘の日々は、この上ない黄金の歴史です。
特に、なかなか折伏が決まらず悩んだ時、自身や家族の宿命との闘争の渦中……。"苦境を打開しよう"と真剣に祈り、戦っている時ほど、師が紡がれる言々句々が心に染みました。
2016年10月、「源流」の章のこの言葉が聖教新聞に掲載されました。男子部長を3年間務めた後、青年部長の任を受け、出発した直後のことです。
翌11月、ありがたくも、広宣流布大誓堂で池田先生とお会いする機会に恵まれました。苦楽を分かち合った全国の男子部の同志と共に師の励ましのおかげで成就した「3万世帯の弘教」の御礼を込めて、ごあいさつさせていただきました。
先生は私の顔をじっと見つめ、「ありがとう」「ありがとう」と何度も繰り返し言われました。それは、悪戦苦闘を突き抜けて、広布拡大の金字塔を打ち立てた、全国の青年部員に対する励ましの言葉であったと確信します。
「直接、会う機会はなくとも、互いの心は通い合う」——"先生は全てをご存知なんだ!"。師の慈愛の深さに、感動が五体を貫きました。
『人間革命』『新・人間革命』をひもとくことは、"池田先生と対話すること"です。その原理は未来永遠に変わることはありません。
これからも、師弟共戦の「誓願」という主題を貫徹しながら、自他共の生命に栄光凱歌の"日記文書"を厳然とつづってまいります。
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(下) 方面長・婦人部長の声
小説『新・人間革命』執筆の眼目について、池田先生は「精神の継承にこそある」と述べた。この小説に、栄光凱歌の人生を進む勝利の方程式が記されている。『新・人間革命』完結特集(下)では、「誉れの舞台と我らの使命」と題して、『新・人間革命』の一節とともに、方面長・婦人部長の決意を紹介する。
◇総東京・萩本直樹/本陣から勝利の光を
「首都・東京は、学会本部を擁する本陣である。広宣流布の決定打を放つのも、学会の未来を決するのも東京である。東京が強くなった分だけ創価学会は堅固になり、東京が前進した分だけ広宣流布は進むといっても過言ではない。(中略)感激——それは、人と人との触れ合いのなかにある。勇んで行動するなかに生まれる。そして、感激こそが、前進の活力となる」(第28巻「大道」の章)
1978年(昭和53年)8月、東京の歌「ああ感激の同志あり」発表の様子が描かれた場面です。
池田先生は「感激」の二文字を通して、教えてくださいました。偉大な使命をもって、広布の本陣に生まれあわせたこと。久遠の誓いのままに、新たな歴史の幕を開く戦いに連なっていること。これらは感激以外の何ものでもない、と。
この先生の指針を胸に、現実の課題に悪戦苦闘しながら、勇んで人の輪に飛び込み、自他共の幸福を勝ち開いている「感激の同志」と日々、お会いしています。師匠に勝利の結果でお応えしたい——この誓いが前進の原動力であることを、私自身が学ぶ日々です。
創立90周年へ、世界が仰ぎ見る栄光の大広布城を築き、本陣の地から、勝利の光を放ちます。
◇第2総東京・橋口美雪/師弟の道を一筋に
「先師・牧口常三郎と、恩師・戸田城聖の構想を実現し、人類の恒久平和の道を開くために、何から手を打つべきかを考え、学校の創立へ、第一歩を踏み出したのである」
(第12巻「栄光」の章)
池田先生は第3代会長就任の直前の1960年(昭和35年)4月、創価学園の建設用地の視察で、東京・小平市を奥さまと共に訪問。その7年後に学園は創立されました。
学園や創価大学がある「創価教育原点の地」、先生手作りの人材の天地——これが第2総東京の誇りです。
第1次宗門事件の渦中には、立川文化会館を"正義の砦"として、反転攻勢の指揮を執り、一人一人と師弟の絆を強く結んでくださいました。
会長辞任直後の本部総会(79年〈同54年〉5月3日、創価大学)の時、「先生!」と何度も叫んだ婦人の姿の中に、"何があっても師弟の道を一筋に進む"との、私たちが刻むべき魂があります。
「第二東京は広宣流布の新舞台だ。ここも未来が楽しみだ。皆で力を合わせて、新しい歴史を創ってほしいね」——この先生の期待を胸に、婦人部・女子部の「コスモス平和大学校」などで小説『新・人間革命』を学びながら、先生の真実を語り広げていきます。
◇東海道・畑佳伸/"正義の旗"を高く掲げて
「いよいよ本当の勝負だ! いかなる立場になろうが、私は断じて戦う。たった一人になっても。師弟不二の心で断固として勝利してみせる。正義とは、どこまでも広宣流布の大道を進み抜くことだ!」
(第30巻〈上〉「大山」の章)
時は、激動の1979年(昭和54年)。
池田先生は第3代会長を辞任後、東海道の地で、ただ一人、"正義の旗"を掲げ、反転攻勢の指揮を厳然と執られました。
「正義」「共戦」と揮毫された神奈川文化会館。後継への万感の期待をピアノ演奏に託された静岡研修道場。「大山」の章には、その模様が描かれています。
同年5月5日、私は「正義」の書を拝見しました。"どのような立場になられても、私の師匠は池田先生だ!"と奮い立ちました。
最も困難な時に、目の前の一人に勇気の火をともし、渾身の励ましを送ってくださった先生。一人立つ「正義」の心で、真実の同志である「共戦」の友の連帯を広げていく——それが、われら東海道の誓願です。
小説が完結した9月8日は、戸田先生が「原水爆禁止宣言」を師子吼された日。"創価の平和運動"の源流・東海道が、新たな連続勝利の歴史と師弟の大叙事詩をつづります。
◇関東・大高陽子/「敢闘精神」で勝ち進む
「どうか皆さんもまた、『あそこまで皆のために真心を尽くすのか!』『あれほど情熱をもって行動し抜くのか!』『あの人から、本当の信心を学んだ!』と、後々までも語り継がれる、見事な自身の歴史を築いていただきたい。ひとたび戦いを起こすならば、大情熱を燃やし、敢闘しようではありませんか!」
(第29巻「力走」の章)
この一節は、山本伸一が1978年(昭和53年)11月の第1回「関東支部長会」の席上、支部長・婦人部長の人生の勝利を祈りながら語ったスピーチの内容です。
「真心を尽くす」「情熱をもって行動し抜く」「信心の触発を」——私自身、この指針を生命に刻み、挑戦しています。
同年、先生は埼玉、千葉、茨城、群馬、栃木の関東5県全てに県歌を贈られました。支部長会に先立ち、各県の同志が県歌を歌い、先生と共に出発したことが関東の誇りです。
それから40周年の本年。関東総会を大勝利で終えた直後の6・6「関東婦人部の日」に、先生・奥さまが千葉の浦安平和会館を訪問。関東広布に、さらなる師弟共戦の歴史を刻んでくださいました。
報恩感謝の心で、大関東の魂である「敢闘精神」を燃やし、勝ち進んでいきます。
◇関西・山内洋一/永遠に「常勝の都であれ」
「愛する、愛する関西の同志よ! 未来永劫に関西は、正義の旗が高らかに翻る常勝の都であれ! 民衆を守り抜く人間讃歌の都であれ! 関西がある限り、学会は盤石だ!」
(第28巻「広宣譜」の章)
社会人1年目だった1978年(昭和53年)7月17日、「常勝の空」が発表された幹部会に参加。「君と我とは 久遠より」との師匠の魂こもる歌詞に、感動が全身を貫きました。
翌79年(同54年)の会長辞任の折、「われらの師匠は、永遠に池田先生である」と拳を突き上げた関西の同志。「関西がある限り、学会は盤石だ!」——「常勝の空」に込められた、この先生の深き思いに応え、勇み前進していきました。
迎えた反転攻勢の時代。第1回関西青年平和文化祭が行われた82年(同57年)には、全国をリードする折伏を推進。翌年以降も立正安国の連続闘争を勝ち越えていったのです。
本年、関西は先駆の弘教拡大で、「常勝の空」40周年を荘厳。今再び、「拡大から、さらなる連続勝利へ」という"常勝の方程式"を満天下に示そうと、誓願の炎を燃やしています。一人一人への励ましに徹し、関西魂みなぎる"戦う陣列"を倍増させ、広布史に輝く新たな金字塔を打ち立てる決意です。
◇北海道・日下巌/三代城に輝く希望の指標
「牧口先生、戸田先生が青春時代を過ごされ、飛翔の舞台となったのが北海道だ。ここには、両先生の魂が刻まれている。そして、私も青春の全精魂を傾け、北海道広布の開拓の鍬を振るってきた。北海道は、この北斗七星のように、広宣流布の永遠なる希望の指標であらねばならぬ」(第13巻「北斗」の章)
1968年(昭和43年)9月14日、池田先生が日本最北の都市・稚内を初訪問されてから、本年で50周年。これは山本伸一が稚内市で満天の星を見上げ、述懐した一節です。
「広宣流布の永遠なる希望の指標」——ここに、北海道広布の使命が凝縮されています。
苦労なくして広宣流布はできません。できない理由を数えるよりも、"どうしたらできるか"と必死に祈り、行動し、道を開いていく。これが、北海天地に刻まれた三代会長の精神です。
目指すは、何があろうと師匠を求め、「師弟共戦」に徹し抜く北海道。師匠の誓願に合一して、いかなる悪条件でも「幸福の陣列の拡大」に突き進む北海道。麗しき団結と励まし合いの「創価家族」の模範・北海道です。
師と共に築き上げてきた「三代城」を、さらに盤石ならしめるため、率先して限界突破の戦いに挑戦します。
◇信越・五十嵐真理子/起稿の天地に誇りあり
「長野研修道場がオープンしたのは、一年前の一九七八年(昭和五十三年)八月である。山本伸一にとっては今回が初訪問となる。彼は、戸田が最後の夏に滞在した地を、世界広宣流布への新たな幕を開く最初の夏に訪れたのである。この宿縁の地から、家庭訪問、個人指導の流れを起こし、新しい創価学会の建設に着手しようと心に決めていたのだ。
世界広布といっても、一人への励ましから、身近な一歩から始まるからだ」
(第30巻〈上〉「雌伏」の章)
1979年(昭和54年)8月、長野研修道場を初訪問されて以来、毎年のように信越を訪れ、世界広布の指揮を執ってくださる池田先生。長野研修道場を「新しき前進と創造の電源の地」と位置付け、伝統の夏季研修会から、躍進と勝利の歴史を築いてくださいました。この地で語ってくださった、珠玉のご指導の一つ一つが私たちの永遠の指針です。
報恩の志に燃え、本年5月の信越総会をブロック1以上の弘教拡大で勝ち飾り、今夏も聖教新聞の購読推進の大拡大で、信越の地に師匠をお迎えすることができました。
信越には、小説『新・人間革命』起稿の天地という誇りと原点があります。どこまでも師の心を求め抜き、不二の弟子の陣列を拡大していきます。
◇中部・松波利子/新たな堅塁の歴史を築く
「どうか、皆さんは『まことの時』に、敢然と立ち上がり、私とともに、学会とともに戦い、広宣流布の勇者として、自身の誉れの歴史を築いていってください」
(第14巻「烈風」の章)
1969年(昭和44年)12月、中部を訪問した山本伸一が、三重・松阪会館で「開目抄」の御文を通して指導した一節です。
当時、中部には「言論問題」の嵐が吹き荒れていました。
このとき、最もつらく、悔しい思いをした中部の母たちは、今こそ"まことの時"と決め、池田先生と共に、学会と共に、懸命に戦いました。
先生は、76年(同51年)1月16日、名古屋市南区の婦人部総会に出席。特に理不尽な弾圧に耐え抜いてきた母たちに、「一番尊くて、一番偉いのは、庶民のお母さんです!」と励ましてくださったのです。
婦人部の先輩から、当時の様子を幾度となく伺い、庶民の母に脈打つ不屈の魂を命に刻んできました。
障魔の烈風から同志を守り抜いてくださった先生。その大闘争を命懸けで書きつづってくださった先生への尽きせぬ感謝を胸に、後継の青年部を育成し、堅塁・中部の新たな勝利の歴史を築いていきます。
◇北陸・本郷弘/「誓願」受け継ぐ闘将と
「広宣流布の大誓願に生きる時に、歓喜あふれる地涌の菩薩の大生命がみなぎる。何ものをも恐れず、いかなる困難も乗り越えていける、無限の勇気と智慧と力が脈動します。大誓願に生きることが、最も人生を輝かせていける道なんです」(第28巻「大道」の章)
「この歌が聞きたかったんだよ」——1984年(昭和59年)8月、10回目の北陸指導となる北陸平和文化祭で5万人が北陸の歌「ああ誓願の歌」を大合唱。池田先生は、誓いの歌声を響かせた出演者を「二百点満点の文化祭だった」とたたえてくださいました。
先生が北陸の歌を作られたのは78年(同53年)8月。今年で40年を迎えました。
当時、学生部員だった私は、何としても同志を励ましたいとの先生の真心に胸を熱くしました。
北陸は旧習が根強い土地柄です。その中で、北陸の同志は懸命に妙法の旗を掲げ、地域に蘇生と幸福のドラマを幾重にも広げてきました。
先生は小説に「北陸は、"広布の誓願"に生き抜かれた戸田先生の、ご生誕の地です。どうか、恩師の、その精神を受け継ぐ闘将の皆さんであってください」とつづられました。闘将の誓願の志を果たし、師恩に報いてまいります。
◇東北・盛島明彦/不撓不屈のみちのく魂
「私は、東北の皆さんを尊敬しております。それは、どんな困難にも負けない粘り強さ、不屈の"負けじ魂"があるからです。皆さんには、大難、大苦に、打ちひしがれることなく、広宣流布のために、敢然と立ち上がる真性の強さがある。(中略)私は、かつて広宣流布の総仕上げを東北の皆さんに託しました。いよいよ"負けじ魂"を燃やし、総仕上げの旗頭として、威風堂々と立ち上がってください。時は"今"です」
(第25巻「福光」の章)
東日本大震災から半年となる2011年(平成23年)9月。小説『新・人間革命』「福光」の章の連載が開始されました。当時、不撓不屈の「みちのく魂」で厳しい現実に立ち向かっている東北同志に、先生は最大の励ましを送ってくださいました。
東北に寄せる師匠の深い真心を胸に、広布の尊き使命を託された私たち東北健児は、師恩にお応えする戦いをしなければならない。この一節は、その時が"今"であるとの指針であると拝します。
本年の掉尾を飾る全国男子部幹部会が、12月に東北の地で行われます。
私たちは、その後に行われる中継行事を「東北家族・青葉の誓い総会」として盛大に開催します。青年を先頭に、圧倒的な弘教拡大で荘厳します。
◇中国・篠原康司/開拓の伝統胸に模範の拡大
「彼は、広布の新しき飛翔のために、中国地方を極めて重要視していた。
中国は、西日本の大動脈である。中国が大前進を開始すれば、関西にも、四国にも、そして、九州にも、その波動は伝わっていく。まさに、中国こそ、西日本の前進の要であると、伸一は考えていた」
(第11巻「躍進」の章)
池田先生は、1956年(昭和31年)10月8日に岡山県に中国広布の第一歩をしるされ、翌9日、下関から「山口開拓指導」を開始されました。先生は「人と会う」ことに徹し、一人一人の悩みに耳を傾け、御書を拝しながら励ましを送られました。10倍の拡大で、中国の礎を築いてくださいました。今の私たちがあるのは先生のおかげであると、感謝は尽きません。
本年は方面歌「地涌の讃歌」誕生40周年です。創価の師弟の絆を断ち切ろうとする悪侶らが蠢動する中、中国はこの歌と共に反転攻勢ののろしを上げました。全国模範の拡大で師弟の正義を証明してきました。
中国の友は、10月の中国総会に向け、大前進を開始しました。5県の団結固く、総会を、人材育成と対話拡大で大勝利し、世界広布新時代の新たな歴史を切り開きます。
◇四国・中川京子/志国に脈打つ熱き求道心
「今、この時に、求道の炎を燃やし、波浪を越えて、横浜の地までやって来た四国の同志の果敢な行動は、広宣流布の歴史に燦然と輝き、永遠に語り継がれるにちがいない。大事なことは、学会が苦境に立った時に、いかに行動し、新しい突破口を開くかだ」
(第30巻〈上〉「雌伏」の章)
1980年(昭和55年)、悪侶らが学会攻撃に狂奔する中、四国の同志は「さんふらわあ7」号で3度、神奈川文化会館にいる師のもとへ。
私も5月、白蓮グループの一員として参加。力強いピアノの音色、同志を包み込むように励ましてくださる池田先生の慈愛の声、王者のごとき悠然たる姿は忘れられません。
これまで四国婦人部は、1・14「部の日」を中心に、後継の友に求道の歴史を語り継いできました。
私たちの師匠は永遠に池田先生——それが"志国"の心です。その心を継ぐ青年たちと共に地域に友情を大きく広げる「SOKA YOUTH VOICE」を今秋、四国全土で開催します。
師への尽きせぬ感謝を胸に、"正義の四国"から、今再び熱き求道の心で、共戦の大航海を開始します。
◇九州・平井秀昭/燃え立つ「先駆」の志
「最も苦しんだ同志のところへ駆けつけよう! 一人ひとりと固い握手を交わす思いで、全精魂を込めて、生命の底から励まそう!」(第30巻〈下〉「勝ち鬨」の章)
1981年(昭和56年)12月、九州で刻まれた反転攻勢の歴史を、本年1月9日付で、大分指導から書き起こしていただきました。その後、小説の舞台は、長編詩「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」の発表へ。
誉れの歴史をつづっていただいた九州の同志は"今こそ師と共に"との一念を燃え上がらせ、弘教拡大へ驀進を開始しました。
九州長就任の会合の際、先生から「あの大分空港に降り立った時と同じように、火の国・九州の愛弟子たちと、壮大なる栄光のドラマをと心に期しています」との万感こもるメッセージが。先生のお心を、わが心とし、同志のもとへ飛び込んできました。
同志の皆さまと出会うたび、九州の津々浦々に刻まれた、79回におよぶ先生の足跡と共戦の絆を痛感します。私自身が命懸けで師を求め、師に直結し、師を語り抜いていく——この実践によってのみ、大九州の新時代が開かれると確信します。
「永遠に先駆の大九州たれ」との指針を胸に、きょうも同志のもとへ駆け付けます。
◇沖縄・照屋清子/世界初の広布の地帯を
「"私がいる限り、この沖縄を平和の楽土にしてみせる"との強い決意で信心に励み、社会の建設に立ち上がっていくならば、必ずや、沖縄を変えていくことができます。
依正は不二です。自分自身の生命の変革から、すべては変わっていくんです」
(第13巻「楽土」の章)
"戦争の地を平和の楽土に""一番苦しんだ人こそ一番幸せに"——池田先生は、これまで17度、沖縄を訪問され、私たちの深い使命を教えてくださいました。
その師に応えようと、足が鉄板のようになるまで広布に歩いた草創の先輩の闘争によって、"東洋のハワイ"と輝く沖縄は築かれたのです。
沖縄の歴史に学びながら、私自身も"まずは自分が立ち上がろう"と、行動し続けてきました。これまで、子どもの非行や病気、自身の乳がん等、宿命の嵐に幾度となく襲われました。
しかし、希望をともし続けてくれた池田先生と同志のおかげで、全て乗り越えることができました。
この大恩には、沖縄広布に尽くすことでお応えしようと固く決意しています。
師に誓った"世界で最初の広宣流布の地帯"建設へ、沖縄の創価家族の皆さまと共に、「人間革命」の大潮流を起こしてまいります。
2018年9月23日日曜日
2018.09.23 わが友に贈る
「自分らしさ」とは
悩み、祈り、努力した先に
輝き現れるものだ。
私の人生劇の主役は私!
そう決めれば力が湧く!
白米一俵御書 P1597
『法華経はしからず月こそ心よ花こそ心よと申す法門なり』
【通解】
法華経はそうではなく、「月がそのまま心、花がそのまま心」という法門なのである。
〈寸鉄〉 2018年9月23日
「一眼の亀の浮木に値うなるべし」御書。偉大な師と共に。ここに凱歌の道
きょう少年少女部の結成記念日。可能性は無限大。周囲の祈りと激励で育成
小さな仕事をできぬ人は大きな仕事はできない—恩師。まずは今日を全力
未来を担うのは若い君達なのだ—歴史家。青年よ語りまくれ!勝利を開け
高齢運転者の死亡事故、誤操作・不注意が多しと。焦りは禁物。安全意識を
☆世界宗教の仏法を学ぶ 第9回 心の財——信心で生命を磨き鍛える
連載「世界宗教の仏法を学ぶ」では、池田先生の指導や励ましを教学のテーマ別に掲載。併せて、それらに関する仏法用語や日蓮大聖人の御書などを紹介します。第9回のテーマは「心の財」です。
◇小説「新・人間革命」第25巻「福光」の章
【あらすじ】1977年(昭和52年)3月12日、壮年、婦人の代表が参加して、第2回となる福島文化会館の開館記念勤行会が行われた。終了後、山本伸一会長は、20人ほどの代表幹部と懇談。壮年幹部からの"炭鉱が閉山となり、職探しをしているメンバーを、どのように激励すればよいか?"との質問に対して、全力で答えていく。
◇
「炭鉱に勤めていた人だけでなく、関連会社の人や、商店街など、多くの方々が、転職などを余儀なくされ、大変な思いをされたことでしょう。
大変な人生の試練の時であればこそ、強盛な祈りが大事なんです。大聖人が『湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり』(御書1132ページ)と言われているように、魂を込めて、必死に唱題し抜くんです。
祈れば、福運を積めます。大生命力が涌現し、智慧が湧きます。そして、その智慧を絞り抜き、考えに考えて、果敢に行動を起こしていくんです。ただ祈ってさえいれば、どこからか、いい仕事が降って湧くように思っているのは間違いです。
何か仕事を始めるにしても、アイデアが大事です。また、人脈等を駆使しなければならない場合もあるでしょう。ともかく、『強盛な祈り』と『懸命な思索』と『果敢な行動』で、事態を開いていくんです」
「はい!」
質問した壮年は、伸一の指導を、全身で受け止めるように、大きな声で答えた。
伸一は、気迫にあふれた声で言った。
「学会員ならば、師子ならば、何があっても信心の確信と満々たる生命力にあふれ、挑戦の気概に燃えていなければならない。つまり、元気で、生命が輝いていることが大事なんです。生命の光彩こそが、人生の暗夜を照らす光なんです。福光なんです」
伸一は、「大切なのは生命力ですよ。わかりますね」と、確認するように言い、壮年の反応を見ながら、言葉をついだ。
「人間は、仕事がなくなってしまえば、落胆するし、ましてや、先が見えない状況になれば、無気力になったり、心がすさんでしまったりしがちです。
その時に、生命力にあふれ、元気に、勇んで挑戦しようとする姿は、人びとに、かけがえのない勇気を与えます。勇気は、波動していきます。また、学会員の前向きで元気な、生き生きとした挑戦の姿は、仏法の力の証明になります。宗教の力は、人の生き方にこそ、表れるものなんです。
転職して、新しい仕事に就くとなれば、炭鉱での技能や経験は生かされない場合が多いでしょう。それだけに、挑戦心に富み、元気で、粘り強く、はつらつとしていることが大事になります。企業側も、悲観的で無気力な人を雇おうとは思わないものです。
つまり、厳しい状況になればなるほど、磨き鍛えてきた生命という"心の財"は輝いていくんです。閉山だろうが、不況だろうが、"心の財"は壊されません。なくなりもしません。そして、"心の財"から、すべてが築かれていきます。
いわば、逆境とは、それぞれが、信心のすばらしさを立証する舞台といえます。
人生の勝負は、これからです。最後に勝てばいいし、必ず勝てるのが信心です。
苦闘している皆さん方に、『今の苦境を必ず乗り越えてください。必ず勝てます。勝利を待っております』と、お伝えください」
◇理解を深めるために
●御聖訓「ただ心こそ大切なれ」
ここでは「心」の大切さについて確認します。
日蓮大聖人は、門下の四条金吾に"祈る姿勢"を教える際、「ただ心こそ大切なれ」(御書1192ページ)と仰せになっています。これは、"この仏法を信じて、強盛に祈ってこそ、かなう"ことを伝えるために教えられている御文です。
また、大聖人がおられる身延から遠く離れた佐渡の地に住み、大聖人にお会いできない女性門下に対しては、「あなたの身は佐渡の国にいらっしゃいますが、心はこの国に来ています」(同1316ページ、通解)と励まされています。
そして、直接、顔を会わせることはできなくても、その真心は十分に大聖人に伝わっているとされて、「心こそ大切に候へ」(同ページ)とつづられています。
他にも大聖人は、「神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候」(同1186ページ)、「さいわいは心よりいでて我をかざる」(同1492ページ)等々、さまざまな御書の中で"心の大切さ"を強調されています。
池田先生も、「信心は『心』で決まる」「大事なのは『心』である。うわべではない」と語られています。
仏法では「一念三千」の法理を説きます。人間は心一つで自身も環境も大きく変革していけます。この自身の心(=一念)の変革こそが根本なのです。
◇日蓮大聖人の御書から 「崇峻天皇御書」について
●人生の明確な価値基準
日蓮大聖人は四条金吾に送られた「崇峻天皇御書」で、「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(御書1173ページ)と仰せです。
「蔵の財」とは物質的な財産。「身の財」とは健康や身に付けた技能など、身に備わる財産を意味します。
これに対して「心の財」とは、いかなる試練にも負けない生命の強さや輝きであり、人間性の豊かさです。また、三世永遠にわたって、崩れることのない福運ともいえます。
この「心の財」は、信心の実践によって得られます。さらには「心の財」を積むことで、「自他共の幸福」を願う生命が呼び覚まされます。この「心の財」こそ、人生において最も重要であるとの価値基準を、大聖人は明確に示されたのです。
"何のために生きるのか"という人生の根本目的を見失えば、結局はわびしい一生となってしまいます。反対に、「心の財第一」で生き抜く人は、「蔵の財」「身の財」の価値を正しく生かしていくことができるのです。
池田先生は語っています。
「『蔵の財』や『身の財』は、時とともに移ろいゆくものだ。三世永遠の妙法を受持して積み上げた『心の財』だけは、決して崩れない。ゆえに、わが創価の同志こそ、一閻浮提で最も『心富める人』なのだ」
悩み、祈り、努力した先に
輝き現れるものだ。
私の人生劇の主役は私!
そう決めれば力が湧く!
白米一俵御書 P1597
『法華経はしからず月こそ心よ花こそ心よと申す法門なり』
【通解】
法華経はそうではなく、「月がそのまま心、花がそのまま心」という法門なのである。
〈寸鉄〉 2018年9月23日
「一眼の亀の浮木に値うなるべし」御書。偉大な師と共に。ここに凱歌の道
きょう少年少女部の結成記念日。可能性は無限大。周囲の祈りと激励で育成
小さな仕事をできぬ人は大きな仕事はできない—恩師。まずは今日を全力
未来を担うのは若い君達なのだ—歴史家。青年よ語りまくれ!勝利を開け
高齢運転者の死亡事故、誤操作・不注意が多しと。焦りは禁物。安全意識を
☆世界宗教の仏法を学ぶ 第9回 心の財——信心で生命を磨き鍛える
連載「世界宗教の仏法を学ぶ」では、池田先生の指導や励ましを教学のテーマ別に掲載。併せて、それらに関する仏法用語や日蓮大聖人の御書などを紹介します。第9回のテーマは「心の財」です。
◇小説「新・人間革命」第25巻「福光」の章
【あらすじ】1977年(昭和52年)3月12日、壮年、婦人の代表が参加して、第2回となる福島文化会館の開館記念勤行会が行われた。終了後、山本伸一会長は、20人ほどの代表幹部と懇談。壮年幹部からの"炭鉱が閉山となり、職探しをしているメンバーを、どのように激励すればよいか?"との質問に対して、全力で答えていく。
◇
「炭鉱に勤めていた人だけでなく、関連会社の人や、商店街など、多くの方々が、転職などを余儀なくされ、大変な思いをされたことでしょう。
大変な人生の試練の時であればこそ、強盛な祈りが大事なんです。大聖人が『湿れる木より火を出し乾ける土より水を儲けんが如く強盛に申すなり』(御書1132ページ)と言われているように、魂を込めて、必死に唱題し抜くんです。
祈れば、福運を積めます。大生命力が涌現し、智慧が湧きます。そして、その智慧を絞り抜き、考えに考えて、果敢に行動を起こしていくんです。ただ祈ってさえいれば、どこからか、いい仕事が降って湧くように思っているのは間違いです。
何か仕事を始めるにしても、アイデアが大事です。また、人脈等を駆使しなければならない場合もあるでしょう。ともかく、『強盛な祈り』と『懸命な思索』と『果敢な行動』で、事態を開いていくんです」
「はい!」
質問した壮年は、伸一の指導を、全身で受け止めるように、大きな声で答えた。
伸一は、気迫にあふれた声で言った。
「学会員ならば、師子ならば、何があっても信心の確信と満々たる生命力にあふれ、挑戦の気概に燃えていなければならない。つまり、元気で、生命が輝いていることが大事なんです。生命の光彩こそが、人生の暗夜を照らす光なんです。福光なんです」
伸一は、「大切なのは生命力ですよ。わかりますね」と、確認するように言い、壮年の反応を見ながら、言葉をついだ。
「人間は、仕事がなくなってしまえば、落胆するし、ましてや、先が見えない状況になれば、無気力になったり、心がすさんでしまったりしがちです。
その時に、生命力にあふれ、元気に、勇んで挑戦しようとする姿は、人びとに、かけがえのない勇気を与えます。勇気は、波動していきます。また、学会員の前向きで元気な、生き生きとした挑戦の姿は、仏法の力の証明になります。宗教の力は、人の生き方にこそ、表れるものなんです。
転職して、新しい仕事に就くとなれば、炭鉱での技能や経験は生かされない場合が多いでしょう。それだけに、挑戦心に富み、元気で、粘り強く、はつらつとしていることが大事になります。企業側も、悲観的で無気力な人を雇おうとは思わないものです。
つまり、厳しい状況になればなるほど、磨き鍛えてきた生命という"心の財"は輝いていくんです。閉山だろうが、不況だろうが、"心の財"は壊されません。なくなりもしません。そして、"心の財"から、すべてが築かれていきます。
いわば、逆境とは、それぞれが、信心のすばらしさを立証する舞台といえます。
人生の勝負は、これからです。最後に勝てばいいし、必ず勝てるのが信心です。
苦闘している皆さん方に、『今の苦境を必ず乗り越えてください。必ず勝てます。勝利を待っております』と、お伝えください」
◇理解を深めるために
●御聖訓「ただ心こそ大切なれ」
ここでは「心」の大切さについて確認します。
日蓮大聖人は、門下の四条金吾に"祈る姿勢"を教える際、「ただ心こそ大切なれ」(御書1192ページ)と仰せになっています。これは、"この仏法を信じて、強盛に祈ってこそ、かなう"ことを伝えるために教えられている御文です。
また、大聖人がおられる身延から遠く離れた佐渡の地に住み、大聖人にお会いできない女性門下に対しては、「あなたの身は佐渡の国にいらっしゃいますが、心はこの国に来ています」(同1316ページ、通解)と励まされています。
そして、直接、顔を会わせることはできなくても、その真心は十分に大聖人に伝わっているとされて、「心こそ大切に候へ」(同ページ)とつづられています。
他にも大聖人は、「神の護ると申すも人の心つよきによるとみえて候」(同1186ページ)、「さいわいは心よりいでて我をかざる」(同1492ページ)等々、さまざまな御書の中で"心の大切さ"を強調されています。
池田先生も、「信心は『心』で決まる」「大事なのは『心』である。うわべではない」と語られています。
仏法では「一念三千」の法理を説きます。人間は心一つで自身も環境も大きく変革していけます。この自身の心(=一念)の変革こそが根本なのです。
◇日蓮大聖人の御書から 「崇峻天皇御書」について
●人生の明確な価値基準
日蓮大聖人は四条金吾に送られた「崇峻天皇御書」で、「蔵の財よりも身の財すぐれたり身の財より心の財第一なり」(御書1173ページ)と仰せです。
「蔵の財」とは物質的な財産。「身の財」とは健康や身に付けた技能など、身に備わる財産を意味します。
これに対して「心の財」とは、いかなる試練にも負けない生命の強さや輝きであり、人間性の豊かさです。また、三世永遠にわたって、崩れることのない福運ともいえます。
この「心の財」は、信心の実践によって得られます。さらには「心の財」を積むことで、「自他共の幸福」を願う生命が呼び覚まされます。この「心の財」こそ、人生において最も重要であるとの価値基準を、大聖人は明確に示されたのです。
"何のために生きるのか"という人生の根本目的を見失えば、結局はわびしい一生となってしまいます。反対に、「心の財第一」で生き抜く人は、「蔵の財」「身の財」の価値を正しく生かしていくことができるのです。
池田先生は語っています。
「『蔵の財』や『身の財』は、時とともに移ろいゆくものだ。三世永遠の妙法を受持して積み上げた『心の財』だけは、決して崩れない。ゆえに、わが創価の同志こそ、一閻浮提で最も『心富める人』なのだ」
2018年9月22日土曜日
2018.09.22 わが友に贈る
真の勇者とは
恐れる心に打ち勝ち
敢然と前へ進む人だ。
「一度もしりぞく心なし」
強き一念で壁を破ろう!
生死一大事血脈抄 P1338
『相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ』
【通解】
心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念なさるがよい。生死一大事の血脈をこのことのほかに求めてはならない。
〈寸鉄〉 2018年9月22日
「あひかまへて御信心を出し」御書。確信の祈りが根本。さあ今日も朗々と
東京・青梅総区の日。師弟の天地で奮闘する友よ。共戦の炎燃やし正義叫べ
好機に出会わない人間はいない—実業家。勇んで行動する中に勝利の因が
対話に必要な力は、哲学を持つ事と人格だ—戸田先生。挑戦重ねて錬磨を
在留外国人が過去最多。民衆の往来こそ平和への道。問われる心の国際化
☆歌声高く 第19回 青春桜
◇桜花爛漫の人生を開け
桜は特別な花である。
年々歳々、厳寒を越えて春に咲く美しさ、潔さに、人は、わが人生を映し見るものである。
日蓮大聖人は門下への手紙に、こう認められた。
「さくら(桜)はをもしろき物・木の中よりさきいづ」(御書1492ページ)
固く、ごつごつとした桜の木からも、やがて美しい花が咲き出る。その原理と同様に、凡夫の心からも必ず、最極の仏の生命を涌現できると教えられた。
第1次宗門事件の嵐が吹き荒れる中、池田先生は、厳しい冬を耐え、満開の花を咲かせる桜に、創価の同志の人生を重ね、訴えた。「嵐に負けるな!」「桜花爛漫の人生を開きゆけ!」と。当時の女子部の友が、師を求め、"父娘の誓い"を託しながら、何度も何度も歌った歌——それが「青春桜」である。
1977年(昭和52年)末、全国の女子部の友に大きな喜びが広がった。東京・信濃町に旧・創価女子会館が誕生したのである。
池田先生は「遂に建つ 創価の桜の 女子会館」と詠んで贈り、さらに桜を植樹。「青春桜」と命名した。
この1本の桜から、女子部の友は新・女子部歌の曲名を着想。代表が作成した歌詞の原案を受け取った先生は、全生命を注ぐ思いで筆を加えた。「新時代を開く"魂の歌"にしよう」と。
その結果、原案のうち「青春桜」という曲名、冒頭の「ああ」という言葉、最後の「薫れ生命の 青春桜」という言葉しか残らないほど、全面的に推敲された。
曲についても、先生は「もっと皆の心が開けていくようなものにしよう」等と具体的に提案。録音したテープを繰り返し聴いた。
こうして、師弟共戦の女子部歌「青春桜」が完成。78年(同53年)3月16日、東京・立川文化会館で開かれた「3・16」20周年記念の青年部総会の席上、発表された。
歌詞の3番には、こうつづられている。「あなたと語りし あの誓い」「いかに忘れじ この道を」「手に手をとりたる 青春桜」
私たちは決して一人ではない。創価の姉妹がいる。学会家族がいる。そして、師匠がいる!——女子部の友は、大好きな「青春桜」を口ずさみながら、荒れ狂う宗門事件の嵐を、敢然と乗り越えてきたのである。
時は巡り、2006年5月3日、現在の創価女子会館が開館し、その後、同会館に「青春桜」の歌碑が設置された。
池田先生ご夫妻の言葉が、この碑文に刻まれた。「時は満ち本門の華陽の連帯は/全世界に『師弟桜』『友情桜』/『幸福桜』『平和桜』を広げゆく/広布勝利の花の道を語り歩む」
華陽の乙女は誓い進む。
自分らしく「人間革命の青春」の花を咲き薫らせるため、そして、「幸福」と「平和」の創価桜の道を開きゆくために!
MEMO
女子部歌「青春桜」の誕生の淵源は、小説『新・人間革命』第27巻「激闘」の章に描かれている。また、創価学会公式ホームページ「SOKAnet」(www.sokanet.jp)の「会員サポート」の「学会歌」のコーナーで、同歌を聴くことができる。
一、ああ新世紀 時来たる
今ひらけゆく 金の道
春の曙 創価山 創価山
私のあなたの 青春桜
二、ああ黎明の 時今に
花の嵐に いやまして
天地に舞いゆけ 共々に 共々に
朝日に光れ 青春桜
三、ああ満天に 星仰ぎ
あなたと語りし あの誓い
いかに忘れじ この道を この道を
手に手をとりたる 青春桜
四、ああわが使命 果たさなん
集いて来たれ 生々の
永遠の都に 爛漫と 爛漫と
薫れ生命の 青春桜
恐れる心に打ち勝ち
敢然と前へ進む人だ。
「一度もしりぞく心なし」
強き一念で壁を破ろう!
生死一大事血脈抄 P1338
『相構え相構えて強盛の大信力を致して南無妙法蓮華経臨終正念と祈念し給へ、生死一大事の血脈此れより外に全く求むることなかれ』
【通解】
心して強盛の大信力を出し、南無妙法蓮華経、臨終正念と祈念なさるがよい。生死一大事の血脈をこのことのほかに求めてはならない。
〈寸鉄〉 2018年9月22日
「あひかまへて御信心を出し」御書。確信の祈りが根本。さあ今日も朗々と
東京・青梅総区の日。師弟の天地で奮闘する友よ。共戦の炎燃やし正義叫べ
好機に出会わない人間はいない—実業家。勇んで行動する中に勝利の因が
対話に必要な力は、哲学を持つ事と人格だ—戸田先生。挑戦重ねて錬磨を
在留外国人が過去最多。民衆の往来こそ平和への道。問われる心の国際化
☆歌声高く 第19回 青春桜
◇桜花爛漫の人生を開け
桜は特別な花である。
年々歳々、厳寒を越えて春に咲く美しさ、潔さに、人は、わが人生を映し見るものである。
日蓮大聖人は門下への手紙に、こう認められた。
「さくら(桜)はをもしろき物・木の中よりさきいづ」(御書1492ページ)
固く、ごつごつとした桜の木からも、やがて美しい花が咲き出る。その原理と同様に、凡夫の心からも必ず、最極の仏の生命を涌現できると教えられた。
第1次宗門事件の嵐が吹き荒れる中、池田先生は、厳しい冬を耐え、満開の花を咲かせる桜に、創価の同志の人生を重ね、訴えた。「嵐に負けるな!」「桜花爛漫の人生を開きゆけ!」と。当時の女子部の友が、師を求め、"父娘の誓い"を託しながら、何度も何度も歌った歌——それが「青春桜」である。
1977年(昭和52年)末、全国の女子部の友に大きな喜びが広がった。東京・信濃町に旧・創価女子会館が誕生したのである。
池田先生は「遂に建つ 創価の桜の 女子会館」と詠んで贈り、さらに桜を植樹。「青春桜」と命名した。
この1本の桜から、女子部の友は新・女子部歌の曲名を着想。代表が作成した歌詞の原案を受け取った先生は、全生命を注ぐ思いで筆を加えた。「新時代を開く"魂の歌"にしよう」と。
その結果、原案のうち「青春桜」という曲名、冒頭の「ああ」という言葉、最後の「薫れ生命の 青春桜」という言葉しか残らないほど、全面的に推敲された。
曲についても、先生は「もっと皆の心が開けていくようなものにしよう」等と具体的に提案。録音したテープを繰り返し聴いた。
こうして、師弟共戦の女子部歌「青春桜」が完成。78年(同53年)3月16日、東京・立川文化会館で開かれた「3・16」20周年記念の青年部総会の席上、発表された。
歌詞の3番には、こうつづられている。「あなたと語りし あの誓い」「いかに忘れじ この道を」「手に手をとりたる 青春桜」
私たちは決して一人ではない。創価の姉妹がいる。学会家族がいる。そして、師匠がいる!——女子部の友は、大好きな「青春桜」を口ずさみながら、荒れ狂う宗門事件の嵐を、敢然と乗り越えてきたのである。
時は巡り、2006年5月3日、現在の創価女子会館が開館し、その後、同会館に「青春桜」の歌碑が設置された。
池田先生ご夫妻の言葉が、この碑文に刻まれた。「時は満ち本門の華陽の連帯は/全世界に『師弟桜』『友情桜』/『幸福桜』『平和桜』を広げゆく/広布勝利の花の道を語り歩む」
華陽の乙女は誓い進む。
自分らしく「人間革命の青春」の花を咲き薫らせるため、そして、「幸福」と「平和」の創価桜の道を開きゆくために!
MEMO
女子部歌「青春桜」の誕生の淵源は、小説『新・人間革命』第27巻「激闘」の章に描かれている。また、創価学会公式ホームページ「SOKAnet」(www.sokanet.jp)の「会員サポート」の「学会歌」のコーナーで、同歌を聴くことができる。
一、ああ新世紀 時来たる
今ひらけゆく 金の道
春の曙 創価山 創価山
私のあなたの 青春桜
二、ああ黎明の 時今に
花の嵐に いやまして
天地に舞いゆけ 共々に 共々に
朝日に光れ 青春桜
三、ああ満天に 星仰ぎ
あなたと語りし あの誓い
いかに忘れじ この道を この道を
手に手をとりたる 青春桜
四、ああわが使命 果たさなん
集いて来たれ 生々の
永遠の都に 爛漫と 爛漫と
薫れ生命の 青春桜
2018年9月21日金曜日
2018.09.21 わが友に贈る
教学試験に挑む青年に
温かな励ましを!
最高峰の哲学を実践する
感動と歓喜と誇りを
皆の心に広げゆこう!
撰時抄 P256
『夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし』
【通解】
仏法を修学しようとしたならば、必ずまず「時」を習わなければならない。
〈寸鉄〉 2018年9月21日
列島に語らいの花咲かせる座談会。無二の同志と心一つにさあ栄光の峰へ
B長・白ゆり長が大奮闘。広布の最前線を駆ける誉れ!わが街照らす太陽と
国連・国際平和デー。民衆の連帯が不戦と幸の砦。草の根の対話を勇み拡大
風疹患者数、昨年の5倍超。接種していない人は速やかに検討を—専門医
全国交通安全運動。薄暮時に事故多発と。反射材の着用等、まず自己防衛
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(中) 小説をめぐって
民衆勝利の大叙事詩である小説『人間革命』『新・人間革命』は、世界にも大きな感動を広げている。ここでは、『人間革命』『新・人間革命』をめぐり、テーマごとにまとめた。
◇海外13言語で出版
世界の諸言語に翻訳された池田先生の海外出版作品は、今や1800点を超える。
小説『人間革命』の海外出版第1号は、英語版第1巻(1972年〈昭和47年〉発刊)である。
序文を寄せたのは、20世紀最大の歴史家アーノルド・J・トインビー博士。先生の海外出版を「世界中の同時代の人々に資する仕事をした」と高く評価した。
さらに、その意義を「戦後の創価学会の興隆は、単に創価学会が創立された国だけの関心事ではない。池田氏のこの著作が、フランス語や英語に翻訳されている事実が示すように、創価学会は、既に世界的出来事である」と記した。
小説『新・人間革命』は95年(平成7年)、初の外国語版となる第1巻の英語版が発刊された。以来、スペイン語、中国語、韓国語、インドネシア語、イタリア語など、海外13言語、23カ国・地域で出版されている。
◇希望送るラジオ朗読
小説『人間革命』『新・人間革命』は朗読ラジオ番組となり、希望と励ましの声を届けてきた。
『人間革命』は、1969年(昭和44年)2月から1年半と86年(同61年)10月から4年半の2回、いずれも文化放送をキー局に放送された。
一方、『新・人間革命』の放送は、2003年(平成15年)4月から15年(同27年)3月まで、3123回にわたった。
『新・人間革命』について、朗読に携わった声優たちは、次のような声を寄せた。
「人を励ましたい、幸せにしたいという『心』が脈打っています」(小野田英一さん)
「朗読を担当し、本当に多くのことを学び、それが心の財産になってきました」(沢田敏子さん)
『新・人間革命』の番組終了時、文化放送から池田先生に、ラジオ文化への貢献をたたえ、「顕彰盾」が贈られている。
◇日本一の連載回数
8日に完結した池田先生の小説『新・人間革命』。連載回数は、6469回となった。小説『人間革命』の1509回を加えると、7978回。これは、日本の新聞小説史上、最多の連載回数である。
以前、日本一とされたのは、小説『徳川家康』(4725回〈余話も含む〉)である。執筆者は、作家の山岡荘八氏。先生には、この山岡氏との忘れ得ぬ交流がある。
それは、69年前の1949年(昭和24年)にさかのぼる。21歳の池田先生が、恩師・戸田城聖先生の経営する出版社で、少年雑誌の編集長として活躍していた時のこと。
先生は、雑誌の改題に伴う内容刷新の目玉として、山岡氏に連載小説の執筆を依頼した。
氏は多忙を極めていたが、編集長である先生の熱意に打たれ、「あらん限りの知恵を絞って書きますよ!」と快諾。「紅顔三剣士」という小説をつづったのである。
氏は翌50年(同25年)春、他紙で『徳川家康』の連載を開始。その一方で、先生との縁を大切にし、62年(同37年)8月から2年4カ月にわたり、小説『高杉晋作』を聖教新聞で執筆した。
64年(同39年)12月8日付で『高杉晋作』は完結。その直後の65年(同40年)新年号から、『人間革命』の連載が開始されたのである。
◇世界各地に記念碑
「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」——この小説『新・人間革命』第1巻の冒頭の一節を刻んだ記念碑が、世界各地に建立されている。
北海道・厚田の「あいろーどパーク」には、「平和への誓い」の碑がある。地元の建立委員会が設置したものだ。碑の「由来」には、戸田先生の「原水爆禁止宣言」の精神を世界に宣揚する池田先生の行動がたたえられている。
また、SGI発足の舞台となったアメリカのグアムの公園には、「SGI発足記念碑」がある。公園を有する市の決定によって設置された碑には、小説『人間革命』の言葉なども記されている。
◇各界のリーダーが愛読
小説『人間革命』『新・人間革命』は、世界の識者や各界のリーダーが称賛してきた作品である。
中国・冰心文学館の王炳根前館長は『新・人間革命』を愛読書に挙げ、「(池田先生は)塗炭の苦しみに沈む庶民に多くの光を灯してこられました」と強調する。
アメリカ・エマソン協会のワイダー元会長は「人間と人間の交流のドラマをつづった小説」と評価し、世界詩歌協会のパドマナーバン名誉会長(インド)は、先生の執筆活動を「人類愛、平和、発展という、人間にとっての精神的変革を世界的規模で促してきた偉大な功績」とたたえる。
また、同志社大学の杉江雅彦名誉教授は、「小説『人間革命』を初めて読んだ時に最も感動したのは、学会の三代会長に流れる"師弟のきずな"の強さだった」と感想を。東京大学大学院の市川裕教授は、「『新・人間革命』を読みながら、学会の未来を受け継ぐ若い青年の皆さんにこそ、この本を徹して学んでほしいとの思いを強くした」と述べている。
◇活字文化の振興に貢献
社会全体で「活字離れ」が進む今日。小説をはじめ、幅広い分野での執筆を通して文字・活字文化の振興に貢献する池田先生には、出版界から感謝の声が寄せられてきた。
書店では、紀伊國屋書店をはじめ、有隣堂、三省堂などから「感謝状」が贈られている。
全国にある書店商業組合からも顕彰が相次ぐ。その第1号は2006年(平成18年)11月、福岡の組合から贈られた。また、「出版文化発祥の地」といわれる京都でも、京都府書店商業組合から「文字・活字文化に対する貢献賞」が授与(08年8月)。賞状には、「永年にわたる執筆活動は、出版文化に携わる私達の模範であります」と記されている。
◇ペンネームの由来
小説執筆に当たり、池田先生が選んだペンネームは「法悟空」。かつて戸田先生が「妙悟空」のペンネームで小説『人間革命』を執筆したことを通して、先生は語った。
「仏法では、妙は仏界、法は九界。妙は本源、法は現象。妙は法性(悟り)、法は無明(迷い)。その原理からいえば、当然、妙は師、法は弟子となる。私の師は、戸田城聖である。ゆえに、弟子の私が、法悟空と命名」
また、小説の主人公の名は、かつて先生が戸田先生の出版社で働いていた頃、自ら原稿を書く際、少年時代に愛読した作家たちの名前をヒントに、「山本伸一郎」のペンネームを使ったことに由来する。
そのペンネームを見た戸田先生は、ほほ笑みながら言った。「なかなかいいじゃないか。山に一本の大樹が、一直線に天に向かって伸びてゆく」
そこから"郎"を取った「山本伸一」が、池田先生の小説『人間革命』の主人公の名前になった。
◇命懸けの執筆
1980年(昭和55年)5月3日。池田先生は関西の地で、小説『人間革命』第4巻の原稿の綴りに、こう揮毫した。
「『人間革命』の此の原稿は/わが師 戸田城聖先生の真実の/広布への大ロマンにして/弟子 池田大作が/確かに書き留めしもの也/一切の批難と謀略の言を/信ずること勿れ/わが門下に深く留む」
当時、師弟の絆を分断しようとする謀略の嵐が吹き荒れ、『人間革命』の連載は休載していた。この一文を記した2カ月後、先生は優れぬ体調を押して、再び執筆を始めた。
命を懸けてでも、書き残さねばならない歴史がある——。第5巻の原稿の綴りには、こう記している。「信心の真髄/学会精神の魂/此に存する也」
温かな励ましを!
最高峰の哲学を実践する
感動と歓喜と誇りを
皆の心に広げゆこう!
撰時抄 P256
『夫れ仏法を学せん法は必ず先づ時をならうべし』
【通解】
仏法を修学しようとしたならば、必ずまず「時」を習わなければならない。
〈寸鉄〉 2018年9月21日
列島に語らいの花咲かせる座談会。無二の同志と心一つにさあ栄光の峰へ
B長・白ゆり長が大奮闘。広布の最前線を駆ける誉れ!わが街照らす太陽と
国連・国際平和デー。民衆の連帯が不戦と幸の砦。草の根の対話を勇み拡大
風疹患者数、昨年の5倍超。接種していない人は速やかに検討を—専門医
全国交通安全運動。薄暮時に事故多発と。反射材の着用等、まず自己防衛
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(中) 小説をめぐって
民衆勝利の大叙事詩である小説『人間革命』『新・人間革命』は、世界にも大きな感動を広げている。ここでは、『人間革命』『新・人間革命』をめぐり、テーマごとにまとめた。
◇海外13言語で出版
世界の諸言語に翻訳された池田先生の海外出版作品は、今や1800点を超える。
小説『人間革命』の海外出版第1号は、英語版第1巻(1972年〈昭和47年〉発刊)である。
序文を寄せたのは、20世紀最大の歴史家アーノルド・J・トインビー博士。先生の海外出版を「世界中の同時代の人々に資する仕事をした」と高く評価した。
さらに、その意義を「戦後の創価学会の興隆は、単に創価学会が創立された国だけの関心事ではない。池田氏のこの著作が、フランス語や英語に翻訳されている事実が示すように、創価学会は、既に世界的出来事である」と記した。
小説『新・人間革命』は95年(平成7年)、初の外国語版となる第1巻の英語版が発刊された。以来、スペイン語、中国語、韓国語、インドネシア語、イタリア語など、海外13言語、23カ国・地域で出版されている。
◇希望送るラジオ朗読
小説『人間革命』『新・人間革命』は朗読ラジオ番組となり、希望と励ましの声を届けてきた。
『人間革命』は、1969年(昭和44年)2月から1年半と86年(同61年)10月から4年半の2回、いずれも文化放送をキー局に放送された。
一方、『新・人間革命』の放送は、2003年(平成15年)4月から15年(同27年)3月まで、3123回にわたった。
『新・人間革命』について、朗読に携わった声優たちは、次のような声を寄せた。
「人を励ましたい、幸せにしたいという『心』が脈打っています」(小野田英一さん)
「朗読を担当し、本当に多くのことを学び、それが心の財産になってきました」(沢田敏子さん)
『新・人間革命』の番組終了時、文化放送から池田先生に、ラジオ文化への貢献をたたえ、「顕彰盾」が贈られている。
◇日本一の連載回数
8日に完結した池田先生の小説『新・人間革命』。連載回数は、6469回となった。小説『人間革命』の1509回を加えると、7978回。これは、日本の新聞小説史上、最多の連載回数である。
以前、日本一とされたのは、小説『徳川家康』(4725回〈余話も含む〉)である。執筆者は、作家の山岡荘八氏。先生には、この山岡氏との忘れ得ぬ交流がある。
それは、69年前の1949年(昭和24年)にさかのぼる。21歳の池田先生が、恩師・戸田城聖先生の経営する出版社で、少年雑誌の編集長として活躍していた時のこと。
先生は、雑誌の改題に伴う内容刷新の目玉として、山岡氏に連載小説の執筆を依頼した。
氏は多忙を極めていたが、編集長である先生の熱意に打たれ、「あらん限りの知恵を絞って書きますよ!」と快諾。「紅顔三剣士」という小説をつづったのである。
氏は翌50年(同25年)春、他紙で『徳川家康』の連載を開始。その一方で、先生との縁を大切にし、62年(同37年)8月から2年4カ月にわたり、小説『高杉晋作』を聖教新聞で執筆した。
64年(同39年)12月8日付で『高杉晋作』は完結。その直後の65年(同40年)新年号から、『人間革命』の連載が開始されたのである。
◇世界各地に記念碑
「平和ほど、尊きものはない。平和ほど、幸福なものはない。平和こそ、人類の進むべき、根本の第一歩であらねばならない」——この小説『新・人間革命』第1巻の冒頭の一節を刻んだ記念碑が、世界各地に建立されている。
北海道・厚田の「あいろーどパーク」には、「平和への誓い」の碑がある。地元の建立委員会が設置したものだ。碑の「由来」には、戸田先生の「原水爆禁止宣言」の精神を世界に宣揚する池田先生の行動がたたえられている。
また、SGI発足の舞台となったアメリカのグアムの公園には、「SGI発足記念碑」がある。公園を有する市の決定によって設置された碑には、小説『人間革命』の言葉なども記されている。
◇各界のリーダーが愛読
小説『人間革命』『新・人間革命』は、世界の識者や各界のリーダーが称賛してきた作品である。
中国・冰心文学館の王炳根前館長は『新・人間革命』を愛読書に挙げ、「(池田先生は)塗炭の苦しみに沈む庶民に多くの光を灯してこられました」と強調する。
アメリカ・エマソン協会のワイダー元会長は「人間と人間の交流のドラマをつづった小説」と評価し、世界詩歌協会のパドマナーバン名誉会長(インド)は、先生の執筆活動を「人類愛、平和、発展という、人間にとっての精神的変革を世界的規模で促してきた偉大な功績」とたたえる。
また、同志社大学の杉江雅彦名誉教授は、「小説『人間革命』を初めて読んだ時に最も感動したのは、学会の三代会長に流れる"師弟のきずな"の強さだった」と感想を。東京大学大学院の市川裕教授は、「『新・人間革命』を読みながら、学会の未来を受け継ぐ若い青年の皆さんにこそ、この本を徹して学んでほしいとの思いを強くした」と述べている。
◇活字文化の振興に貢献
社会全体で「活字離れ」が進む今日。小説をはじめ、幅広い分野での執筆を通して文字・活字文化の振興に貢献する池田先生には、出版界から感謝の声が寄せられてきた。
書店では、紀伊國屋書店をはじめ、有隣堂、三省堂などから「感謝状」が贈られている。
全国にある書店商業組合からも顕彰が相次ぐ。その第1号は2006年(平成18年)11月、福岡の組合から贈られた。また、「出版文化発祥の地」といわれる京都でも、京都府書店商業組合から「文字・活字文化に対する貢献賞」が授与(08年8月)。賞状には、「永年にわたる執筆活動は、出版文化に携わる私達の模範であります」と記されている。
◇ペンネームの由来
小説執筆に当たり、池田先生が選んだペンネームは「法悟空」。かつて戸田先生が「妙悟空」のペンネームで小説『人間革命』を執筆したことを通して、先生は語った。
「仏法では、妙は仏界、法は九界。妙は本源、法は現象。妙は法性(悟り)、法は無明(迷い)。その原理からいえば、当然、妙は師、法は弟子となる。私の師は、戸田城聖である。ゆえに、弟子の私が、法悟空と命名」
また、小説の主人公の名は、かつて先生が戸田先生の出版社で働いていた頃、自ら原稿を書く際、少年時代に愛読した作家たちの名前をヒントに、「山本伸一郎」のペンネームを使ったことに由来する。
そのペンネームを見た戸田先生は、ほほ笑みながら言った。「なかなかいいじゃないか。山に一本の大樹が、一直線に天に向かって伸びてゆく」
そこから"郎"を取った「山本伸一」が、池田先生の小説『人間革命』の主人公の名前になった。
◇命懸けの執筆
1980年(昭和55年)5月3日。池田先生は関西の地で、小説『人間革命』第4巻の原稿の綴りに、こう揮毫した。
「『人間革命』の此の原稿は/わが師 戸田城聖先生の真実の/広布への大ロマンにして/弟子 池田大作が/確かに書き留めしもの也/一切の批難と謀略の言を/信ずること勿れ/わが門下に深く留む」
当時、師弟の絆を分断しようとする謀略の嵐が吹き荒れ、『人間革命』の連載は休載していた。この一文を記した2カ月後、先生は優れぬ体調を押して、再び執筆を始めた。
命を懸けてでも、書き残さねばならない歴史がある——。第5巻の原稿の綴りには、こう記している。「信心の真髄/学会精神の魂/此に存する也」
2018年9月20日木曜日
2018.09.20 わが友に贈る
相手に寄り添い
心から「同苦」する。
これが励ましの基本。
共に祈り 立ち上がる
抜苦与楽の実践者たれ!
日興遺誡置文 P1618
『御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事』
【通解】
日蓮大聖人の御書を、いずれも偽書であるとして、日興門流を誹謗する者があるであろう。もしそのような悪侶が出現したら、親しみ近ずいてはならない。
〈寸鉄〉 2018年9月20日
題目は利剣。題目は宝刀。題目で勝つのだ!—戸田先生。ここに勝利の源泉
中部婦人部の日。堅塁の母が地域に友情を拡大!永遠不変の幸福の一番星
青年部教学試験1級まで10日。戦いの中で御書を拝せ。剣豪の修行の如く
睡眠不足は仕事効率低下を招き、心身の健康害す—医師。生活リズム整え
高齢者の転倒事故、6割が家庭内で発生。危険は足元に。段差などに注意
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(上) 半世紀にわたるペンの軌跡
◇広宣流布の永遠の方程式を記す
◇執筆は"師への誓い"の実行
池田先生はつづった。「私でなければわからない真実の学会の歴史がある」と。小説『新・人間革命』には、世界広布の"精神の正史"が描かれている。『人間革命』(1509回)と合わせ、通算7978回となる連載回数は、未来に輝く壮挙である。ここでは、半世紀にわたるペンの闘争の軌跡を紹介する。
「私のライフワークである、小説『人間革命』『新・人間革命』の執筆も、わが胸奥で、戸田先生にお誓いした"師弟の約束"の実行にほかなりません」
池田先生にとって、恩師・戸田城聖先生の伝記小説を書き残すことは、青春時代からの誓いであった。その思いは、次第に強くなっていく。
1951年(昭和26年)の春、戸田先生が、自ら書いた小説『人間革命』の原稿を見せてくれた時——。
54年(同29年)夏、恩師の故郷である北海道の厚田村(当時)に同行した時——。
そして、執筆の決意が確固不動のものとなったのは、57年(同32年)8月、長野・軽井沢での師弟の語らいであった。
恩師との邂逅から10年。この時、「先生のご精神を誤たず後世に伝えるのは、私の使命であり、先生の期待であることを知った」のである。
翌58年(同33年)4月2日、戸田先生は逝去。その後、池田先生は日記に記した。「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて」
64年(同39年)4月、恩師の七回忌法要の席上、小説『人間革命』の執筆を発表した。
◇同志に励ましを
64年(同39年)12月2日、池田先生は小説『人間革命』の執筆を沖縄の地で開始した。
その理由は、沖縄が最も戦争の辛酸をなめた地であるとともに、人類の宿命転換も一人の人間革命から始まる、ということが小説のテーマだからである。
本紙で連載が始まった65年(同40年)1月1日付の「黎明一」には、「戦争ほど、残酷なものはない」との冒頭の一節に続き、戸田先生が出獄する場面が描かれた。
戸田先生自身が「妙悟空」のペンネームでつづった『人間革命』は、投獄された主人公の巌九十翁が、「地涌の菩薩」の使命を自覚し、広宣流布に生涯を捧げる決意を固める場面で終わっている。
池田先生がしたためた書き出しには、戸田先生の『人間革命』の「続編」という意義が表現されていた。
小説の執筆は、激務の合間を縫っての闘争だった。海外訪問や地方指導の折にも、小説の構想を練り、原稿用紙に向かった。
70年(同45年)には、言論問題が起こった。その嵐の中、先生は一人矢面に立ち、会員を守りに守った。
この頃、体調を崩し、ペンを握ることができない日もあった。それでも、原稿を口述し、テープに吹き込みながら執筆にあたった。そこには、一言また一言と声を絞り出す様子が記録されている。
同志に励ましを送るため、最悪な体調の中でも、『人間革命』の執筆闘争は続いた。
香峯子夫人も連載を支えた。第9巻「発端」「小樽問答」の章には、夫人の字の原稿が多く残されている。欄外に「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」と先生が記した原稿もある。
口述筆記で夫人が使用した机は、「香峯子机」と呼ばれた。
◇反転攻勢の力に
宗門の悪侶と退転・反逆者らが結託した第1次宗門事件の中、79年(同54年)4月、先生は第3代会長を辞任。師弟の絆が分断されようとしていた。
同年5月3日、『人間革命』第7巻の原稿のつづりに、先生は揮毫した。
「師あり 弟子あり
広布あり」
謀略を企てた者たちは、先生の行動を制限しようとした。繰り返される悪口雑言に、同志は耐えに耐えた。
"このままでは、同志がかわいそうだ。『人間革命』の連載を開始しよう。そのための非難は、私が一身に受ければよい"
翌80年(同55年)7月、先生は2年間にわたって休載していた『人間革命』第11巻の執筆を再開した。題名は「転機」。それは、全同志を奮い立たせ、学会の反転攻勢の力となった。
90年(平成2年)には、第2次宗門事件が勃発。『人間革命』は、世界への平和旅や海外の識者との語らいなどで長期間の休載が続いていた。先生は連載を再開し、正義の言論によって、宗門の魔性を真っ向から打ち破っていった。
『人間革命』の最終回の掲載は、93年(同5年)2月11日。恩師の生誕93周年の日である。
「わが恩師 戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 池田大作」と、先生は記した。
◇未来までの物語
小説『人間革命』は、山本伸一が第3代会長に就任した場面で終わった。
だが、恩師亡き後の仏法の世界への広がりを記すことが、恩師の本当の偉大さの証明になり、広布の永遠の方程式を示すことになる。その思いから、先生は続編として、『新・人間革命』の執筆を開始した。
この時、先生はすでに65歳。それは「限りある命の時間との、壮絶な闘争」との決心で臨む、新たな言論闘争の幕開けでもあった。
起稿したのは、恩師の伝記小説の執筆を決意した長野・軽井沢。『人間革命』12巻完結から、わずか半年後の93年8月6日である。広島原爆忌という日に象徴される通り、『新・人間革命』のテーマの一つが「平和」だ。
「戦争ほど、残酷なものはない」との『人間革命』の冒頭に対して、『新・人間革命』は、「平和ほど、尊きものはない」で始まっている。続いて、小説は山本伸一の海外初訪問のシーンを描いていく。「平和」と同時に「世界」もまた、『新・人間革命』を貫く主題であった。
『新・人間革命』の執筆を続けながら、本紙で、さまざまなエッセーの筆を執った。「随筆 新・人間革命」に始まる一連の随筆だけでも、この20年間で掲載は730回を超える。
寸暇を惜しんで執筆が続けられた『新・人間革命』は今月8日、完結となった。
最後の章を脱稿したのは、執筆開始25周年の8月6日。その場所は、長野研修道場である。
先生は万感の思いを書き留めた。
「創価の先師・牧口常三郎先生、恩師・戸田城聖先生、そして、尊き仏使にして『宝友』たる全世界のわが同志に捧ぐ 池田大作」
池田先生のペンの闘争は、それ自体が永遠に後世に語り継がれる「未来までの・ものがたり」(御書1086ページ)にほかならない。
創価の"精神の正史"である『新・人間革命』に学びつつ、自らの人間革命に挑戦する——その弟子の行動が、師匠の偉大さを、仏法の正義を、幸福と平和の大道を、後世へと伝えゆくことを心に刻みたい。
心から「同苦」する。
これが励ましの基本。
共に祈り 立ち上がる
抜苦与楽の実践者たれ!
日興遺誡置文 P1618
『御書何れも偽書に擬し当門流を毀謗せん者之有る可し、若し加様の悪侶出来せば親近す可からざる事』
【通解】
日蓮大聖人の御書を、いずれも偽書であるとして、日興門流を誹謗する者があるであろう。もしそのような悪侶が出現したら、親しみ近ずいてはならない。
〈寸鉄〉 2018年9月20日
題目は利剣。題目は宝刀。題目で勝つのだ!—戸田先生。ここに勝利の源泉
中部婦人部の日。堅塁の母が地域に友情を拡大!永遠不変の幸福の一番星
青年部教学試験1級まで10日。戦いの中で御書を拝せ。剣豪の修行の如く
睡眠不足は仕事効率低下を招き、心身の健康害す—医師。生活リズム整え
高齢者の転倒事故、6割が家庭内で発生。危険は足元に。段差などに注意
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(上) 半世紀にわたるペンの軌跡
◇広宣流布の永遠の方程式を記す
◇執筆は"師への誓い"の実行
池田先生はつづった。「私でなければわからない真実の学会の歴史がある」と。小説『新・人間革命』には、世界広布の"精神の正史"が描かれている。『人間革命』(1509回)と合わせ、通算7978回となる連載回数は、未来に輝く壮挙である。ここでは、半世紀にわたるペンの闘争の軌跡を紹介する。
「私のライフワークである、小説『人間革命』『新・人間革命』の執筆も、わが胸奥で、戸田先生にお誓いした"師弟の約束"の実行にほかなりません」
池田先生にとって、恩師・戸田城聖先生の伝記小説を書き残すことは、青春時代からの誓いであった。その思いは、次第に強くなっていく。
1951年(昭和26年)の春、戸田先生が、自ら書いた小説『人間革命』の原稿を見せてくれた時——。
54年(同29年)夏、恩師の故郷である北海道の厚田村(当時)に同行した時——。
そして、執筆の決意が確固不動のものとなったのは、57年(同32年)8月、長野・軽井沢での師弟の語らいであった。
恩師との邂逅から10年。この時、「先生のご精神を誤たず後世に伝えるのは、私の使命であり、先生の期待であることを知った」のである。
翌58年(同33年)4月2日、戸田先生は逝去。その後、池田先生は日記に記した。「戦おう。師の偉大さを、世界に証明するために。一直線に進むぞ。断じて戦うぞ。障魔の怒濤を乗り越えて」
64年(同39年)4月、恩師の七回忌法要の席上、小説『人間革命』の執筆を発表した。
◇同志に励ましを
64年(同39年)12月2日、池田先生は小説『人間革命』の執筆を沖縄の地で開始した。
その理由は、沖縄が最も戦争の辛酸をなめた地であるとともに、人類の宿命転換も一人の人間革命から始まる、ということが小説のテーマだからである。
本紙で連載が始まった65年(同40年)1月1日付の「黎明一」には、「戦争ほど、残酷なものはない」との冒頭の一節に続き、戸田先生が出獄する場面が描かれた。
戸田先生自身が「妙悟空」のペンネームでつづった『人間革命』は、投獄された主人公の巌九十翁が、「地涌の菩薩」の使命を自覚し、広宣流布に生涯を捧げる決意を固める場面で終わっている。
池田先生がしたためた書き出しには、戸田先生の『人間革命』の「続編」という意義が表現されていた。
小説の執筆は、激務の合間を縫っての闘争だった。海外訪問や地方指導の折にも、小説の構想を練り、原稿用紙に向かった。
70年(同45年)には、言論問題が起こった。その嵐の中、先生は一人矢面に立ち、会員を守りに守った。
この頃、体調を崩し、ペンを握ることができない日もあった。それでも、原稿を口述し、テープに吹き込みながら執筆にあたった。そこには、一言また一言と声を絞り出す様子が記録されている。
同志に励ましを送るため、最悪な体調の中でも、『人間革命』の執筆闘争は続いた。
香峯子夫人も連載を支えた。第9巻「発端」「小樽問答」の章には、夫人の字の原稿が多く残されている。欄外に「少々身体が疲れているので女房に口述筆記をしてもらいました」と先生が記した原稿もある。
口述筆記で夫人が使用した机は、「香峯子机」と呼ばれた。
◇反転攻勢の力に
宗門の悪侶と退転・反逆者らが結託した第1次宗門事件の中、79年(同54年)4月、先生は第3代会長を辞任。師弟の絆が分断されようとしていた。
同年5月3日、『人間革命』第7巻の原稿のつづりに、先生は揮毫した。
「師あり 弟子あり
広布あり」
謀略を企てた者たちは、先生の行動を制限しようとした。繰り返される悪口雑言に、同志は耐えに耐えた。
"このままでは、同志がかわいそうだ。『人間革命』の連載を開始しよう。そのための非難は、私が一身に受ければよい"
翌80年(同55年)7月、先生は2年間にわたって休載していた『人間革命』第11巻の執筆を再開した。題名は「転機」。それは、全同志を奮い立たせ、学会の反転攻勢の力となった。
90年(平成2年)には、第2次宗門事件が勃発。『人間革命』は、世界への平和旅や海外の識者との語らいなどで長期間の休載が続いていた。先生は連載を再開し、正義の言論によって、宗門の魔性を真っ向から打ち破っていった。
『人間革命』の最終回の掲載は、93年(同5年)2月11日。恩師の生誕93周年の日である。
「わが恩師 戸田城聖先生に捧ぐ 弟子 池田大作」と、先生は記した。
◇未来までの物語
小説『人間革命』は、山本伸一が第3代会長に就任した場面で終わった。
だが、恩師亡き後の仏法の世界への広がりを記すことが、恩師の本当の偉大さの証明になり、広布の永遠の方程式を示すことになる。その思いから、先生は続編として、『新・人間革命』の執筆を開始した。
この時、先生はすでに65歳。それは「限りある命の時間との、壮絶な闘争」との決心で臨む、新たな言論闘争の幕開けでもあった。
起稿したのは、恩師の伝記小説の執筆を決意した長野・軽井沢。『人間革命』12巻完結から、わずか半年後の93年8月6日である。広島原爆忌という日に象徴される通り、『新・人間革命』のテーマの一つが「平和」だ。
「戦争ほど、残酷なものはない」との『人間革命』の冒頭に対して、『新・人間革命』は、「平和ほど、尊きものはない」で始まっている。続いて、小説は山本伸一の海外初訪問のシーンを描いていく。「平和」と同時に「世界」もまた、『新・人間革命』を貫く主題であった。
『新・人間革命』の執筆を続けながら、本紙で、さまざまなエッセーの筆を執った。「随筆 新・人間革命」に始まる一連の随筆だけでも、この20年間で掲載は730回を超える。
寸暇を惜しんで執筆が続けられた『新・人間革命』は今月8日、完結となった。
最後の章を脱稿したのは、執筆開始25周年の8月6日。その場所は、長野研修道場である。
先生は万感の思いを書き留めた。
「創価の先師・牧口常三郎先生、恩師・戸田城聖先生、そして、尊き仏使にして『宝友』たる全世界のわが同志に捧ぐ 池田大作」
池田先生のペンの闘争は、それ自体が永遠に後世に語り継がれる「未来までの・ものがたり」(御書1086ページ)にほかならない。
創価の"精神の正史"である『新・人間革命』に学びつつ、自らの人間革命に挑戦する——その弟子の行動が、師匠の偉大さを、仏法の正義を、幸福と平和の大道を、後世へと伝えゆくことを心に刻みたい。
2018年9月19日水曜日
2018.09.19 わが友に贈る
「よし やろう!」
この勢いが大事だ。
行動すれば智慧が湧く。
困難を好機にできる。
さあ一歩を踏み出そう!
上野殿後家尼御返事 P1505
『法華経の法門をきくにつけてなをなを信心をはげむをまことの道心者とは申すなり、天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりもなをそむればいよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきはいよいよあをきがごとし』
【通解】
法華経の法門を聞くたびに、ますます信心に励む人を本当の求道者というのである。天台大師は「従藍而青」と述べている。その意味は「藍は葉の時よりも、葉からとった染料で染めれば染めるほど、青くなるのである。
法華経は藍のようなものであり、修行が深いのは、染めるにしたがって、ますます青くなるようなものである。
〈寸鉄〉 2018年9月19日
会長の人間主義の言葉を後世に残したい—識者。偉大な師のもと学ぶ誉れ
使命の舞台で日本一を目指すのが青年の生き方—恩師。目標を明確に挑戦
望みがあれば努力への刺激に—作家。我らに広布の大理想。共に切磋琢磨
婦人・女子部の10帰運動を励行。無事故が勝利の根本。周囲で配慮し応援
70歳以上の人口、初の2割超と。益々問われる生き方。多宝会の使命深し
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(上) 主な内容(1〜12巻)
第1巻
【旭日】1960年10月2日、山本伸一は北南米へ出発。世界広布の第一歩を、ハワイの地にしるす。
【新世界】サンフランシスコでは、やがてアメリカの同志の誓いとなる3指針を提案。
【錦秋】シカゴで人種差別の現実に心を痛める。カナダへも。
【慈光】ニューヨーク、ワシントンに地区が誕生。
【開拓者】病をおしてブラジルへ。海外初の支部結成。
第2巻
【先駆】第3代会長就任後、直ちに全国へ。本土復帰前の沖縄では、楽土建設を誓う。
【錬磨】広布の中核の育成に全力を注ぐ。水滸会、華陽会の野外研修、夏季講習会等で指導。
【勇舞】北南米歴訪後も、直ちに千葉など各地の支部結成式へ。
【民衆の旗】東北、九州、関西、中国方面の激励行へ。伸一の家庭教育の挿話も。
第3巻
【仏法西還】61年1月、アジアへ。最初に訪れた香港では東南アジア初の地区を結成。
【月氏】インドへ。2月4日、釈尊成道の地に「東洋広布」の碑を埋納。
【仏陀】ブッダガヤで「人間・釈尊」の崇高な生涯を思う。
【平和の光】長兄が戦死したビルマ(現在のミャンマー)等へ。
第4巻
【春嵐】各地の支部結成大会へ。
【凱旋】会長就任1周年の総会。アメリカ、ブラジルからも代表が参加。歓喜が爆発。
【青葉】青年部が方面別総会を開催。
【立正安国】夏季講習会で「立正安国論」を講義。
【大光】初の欧州の平和旅へ。"ベルリンの壁"の前に立ち、世界平和実現に生涯を捧げることを誓う。
第5巻
【開道】ドイツからフランス、イギリスを歴訪。
【歓喜】ウィーンに"楽聖"の苦闘を偲び、ローマではキリスト教の歴史から、妙法流布の輝く未来を展望。
【勝利】男子部の「10万人」の総会を開催。女子部も8万5千人が集う。
【獅子】62年1月17日、公明政治連盟が発足。25日、大阪事件の無罪判決を勝ち取る。
第6巻
【宝土】62年1月、イラン、イラクなど7カ国歴訪の旅へ。
【遠路】ソクラテスの死、アレキサンダー大王の遠征などを偲び、遙かな広布の険路を思う。
【加速】福岡"ドカン"地域の庶民の蘇生劇。飛躍的な弘教で会長就任2周年を飾る。
【波浪】参院選の公明政治連盟の勝利に危機感を抱いた一部労組が会員を圧迫。
【若鷲】学生部代表への「御義口伝」講義を開始。
第7巻
【文化の華】300万の平和勢力を築いた伸一に、ケネディ米大統領との会見の話が。
【萌芽】63年1月、世界一周の平和旅へ。米国が3支部に発展。
【早春】欧州、アジア訪問の帰途、台湾で同志との劇的な出会いが実現。
【操舵】豪雪に埋まった登山列車を救援する同志たち。一方、台湾の友は弾圧の嵐を乗り越えていく。
第8巻
【布陣】組織の官僚主義を打ち砕いて進む。離島の奄美に飛び、希望の布石を。
【宝剣】戸田城聖の七回忌を期して、"本門の時代"に入ることを宣言。京大生への「百六箇抄」講義など青年の育成にあたる。
【清流】幹部の不祥事を通し、広布の組織を攪乱する魔の本質を究明。
【激流】ケネディ大統領の暗殺で世界に激震が走る。韓国の友は、春を信じて弾圧の冬を耐え抜く。
第9巻
【新時代】64年5月、"本門の時代"の第一歩として、豪州等に旅立つ。
【鳳雛】高等・中等部、少年部を結成。自ら生命を注いで未来の鳳雛を育む。
【光彩】初めて東欧圏を訪問。人間性抑圧の全体主義の矛盾を思索する。
【衆望】公明党が結党。沖縄で小説『人間革命』の執筆を開始。
第10巻
【言論城】65年元日、小説『人間革命』の連載を開始。7月、聖教新聞が日刊化。
【幸風】人種暴動が火を噴く米国・ロサンゼルスへ。恩師が夢見たメキシコを初訪問。
【新航路】欧州で人材育成に全力。西ドイツでは日本から渡ってきた青年たちを励ます。
【桂冠】66年3月5日、壮年部が結成。
第11巻
【暁光】66年3月、ブラジルで政治警察の監視の中、友を激励。同国勝利の歩みを綴る。
【開墾】ペルーへ。アルゼンチンなど4カ国の苦闘も記す。
【常勝】雨の関西文化祭。ベトナム和平を願い、提言を発表。
【躍進】公明党が初挑戦の衆院選に勝利。新潟で日蓮大聖人の受難の御生涯を偲ぶ。
第12巻
【新緑】会長就任7周年を大勝利で飾り、欧米歴訪の旅に出発。
【愛郷】群発地震の続く長野・松代、さらに飛騨の高山へ。
【天舞】67年10月、東京文化祭に出席。クーデンホーフ・カレルギー伯爵と対談。
【栄光】68年4月8日、創価学園の第1回入学式。
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(中) 主な内容(13〜23巻)
第13巻
【金の橋】1968年9月8日、第11回学生部総会で「日中国交正常化提言」を発表。
【北斗】9月、北海道の旭川、日本最北端の地・稚内へ。
【光城】11月、2度目の奄美訪問。各地で芸術祭が盛大に。
【楽土】69年の新年、全同志に詩「建設の譜」を贈る。2月15日、沖縄へ。
第14巻
【智勇】学園紛争のさなか、「学生運動の第三の道」や「四権分立」を提案。「新学同」が結成。
【使命】女子部の「白樺グループ」、文芸部が結成。
【烈風】69年12月、病魔と闘いつつ、関西各地の友を激励。「言論問題」の嵐を越え、創価の陣列は進む。
【大河】70年5月3日、会長就任10周年。ブロック組織など、新たな広布の前進を開始。9月、聖教新聞社の新社屋が完成。
第15巻
【蘇生】水俣病等の公害問題に挑み、苦闘の友を励ます。各地では文化祭。「青年の譜」等の詩を発表。
【創価大学】71年4月、創価大学が開学。大学祭、寮祭など若人のなかに飛び込み、生命を削って「人間教育」の大道を開く。
【開花】写真撮影に挑戦。鎌倉・三崎に友好の輪。台風禍の世界ジャンボリーで救援活動。
第16巻
【入魂】72年、年頭から大学会や東京各区、沖縄等の同志に入魂の指導を続ける。
【対話】欧米歴訪へ出発。5月、歴史学者トインビー博士をロンドンの自宅に訪ね、「21世紀への対話」を開始。文明論、宗教論など多岐にわたった談論は2年越し、延べ40時間に。
【羽ばたき】7月豪雨で被災の友を激励。10月12日、正本堂が完成。26年後、法主を名乗る日顕の暴挙によって解体。
第17巻
【本陣】73年、「本陣・東京」の建設に力を注ぎ、各区で記念撮影。兄弟会も結成。
【希望】4月11日、創価女子中学・高校の第1回入学式へ。
【民衆城】若き日に勝利の歴史を築いた荒川、墨田、大田、豊島へ。5月8日から欧州へ出発。
【緑野】"郷土を人材の緑野に"と、福井、岐阜など行く先々で友に励ましを送る。
第18巻
【師子吼】73年夏、小説『人間革命』が映画化。「聖教新聞」の記者を手づくりで育成。
【師恩】夏季講習会、恩師の故郷・北海道へと激励行が続く。帰京後、埼玉、島根、鳥取を訪れ、11月に栃木を訪問。
【前進】四国指導。東京では不況の中、苦闘する同志を励ます。
【飛躍】74年、社会建設へ先駆する青年部を九州で励まし、香港へ。香港大学、香港中文大学等を訪問。
第19巻
【虹の舞】74年2月、本土復帰後、初の沖縄訪問。石垣・宮古島、県北部の名護へも。
【凱歌】北中南米3カ国へ。パナマで大統領と初会見。ペルーでは文化・教育交流の新展開。
【陽光】カリフォルニア大学ロサンゼルス校で海外初の大学講演。全米総会等の中、懸命に青年を育む。
【宝塔】沖縄・広島・長崎青年部の反戦出版が各地に波動、全80巻に。視覚に障がいのある友の座談会へ。
第20巻
【友誼の道】74年5月30日、中国を初訪問。李先念副総理と会見。
【懸け橋】9月8日、ソ連を初訪問。文豪ショーロホフ、コスイギン首相と会談。
【信義の絆】12月5日、第2次訪中で周恩来総理と会見。さらに、アメリカでは青年部による「核廃絶一千万署名簿」を国連事務総長に手渡す。キッシンジャー国務長官と平和への語らい。
第21巻
【SGI】75年1月26日、51カ国・地域の代表がグアムに集い、SGIが発足。山本伸一はSGI会長に。
【人間外交】日本では佐藤元総理らと、第3次訪中では�小平副総理、カンボジアのシアヌーク殿下と会見。
【共鳴音】会長就任15周年の記念行事を終え渡欧。ペッチェイ、マルロー、ユイグ等と対話を重ねる。
【宝冠】第2次訪ソで、モスクワ大学から名誉博士号が贈られ、記念講演。コスイギン首相と再会。
第22巻
【新世紀】井上靖、松下幸之助と対話を重ね、「往復書簡」が連載、発刊へ。
【潮流】ハワイで州知事も出席し全米総会。「アロハの精神」と「寛容」「慈悲」の仏法哲理が響き合う。
【波濤】海外航路に従事する船員の集い「波濤会」を激励。女子部学生局、「青春会」など若き女性の育成にも全力。
【命宝】ドクター部の総会へ。広島では本部総会に出席したほか、呉も初訪問。
第23巻
【未来】76年4月16日、札幌創価幼稚園が開園。師弟有縁の地に創価一貫教育の最初の門が完成。
【学光】創価大学に通信教育部が開設。自ら学生の中に入り、激励を重ねる。
【勇気】勤労学生の集い「飛翔会」が先駆の活躍。「人間革命の歌」が発表される。
【敢闘】夏季講習会・研修会で青年の育成に全精魂を注ぐ。
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(下) 主な内容(24〜30巻下)
第24巻
【母の詩】1976年8月、「母」の歌が完成。母・幸との忘れ得ぬ思い出も。
【厳護】「牙城会」「創価班」「白蓮グループ」の育成に全力。「諸法実相抄」等の講義始まる。
【人間教育】最前線のリーダーの集いへ。教育部が実践報告大会などを開催。
【灯台】社会部、団地部、農村部(現・農漁光部)の勤行集会で渾身の指導。
第25巻
【福光】77年3月11日、福島文化会館の開館記念勤行会に出席。
【共戦】「第二の開拓指導」の決意で山口を訪問。草創の友に人生の総仕上げについて指導。
【薫風】北九州、佐賀で全精魂を注いで青年を激励。
【人材城】熊本で各部の友と懇談。
第26巻
【厚田】77年10月、創価学会初の墓地公園が北海道に開園。
【法旗】78年1月、広布第2章の「支部制」が発表される。
【勇将】1月19日、四国研修道場を訪問。25日、奈良の記念幹部会に出席。
【奮迅】1月27日、東京・杉並区の方南支部結成大会に出席。2月18日、立川文化会館で本部幹部会。翌日、信越男子部を激励。
第27巻
【若芽】78年4月9日、東京創価小学校の第1回入学式。82年4月、関西創価小学校が開校。
【正義】仏法の正道歩む学会を宗門が攻撃。同志は各地の合唱祭で創価の正義を歌い上げる。
【激闘】78年5月、東京・練馬、鹿児島、福岡、山口、広島へと間断なき大闘争。
【求道】人材の創価城の建設に、東北、北海道へと走る。
第28巻
【広宣譜】78年夏、学生部はじめ、関西・九州・中国等に希望の歌を贈る。
【大道】寸暇を惜しんで方面歌などの作詞に取り組む。
【革心】第4次訪中へ。周恩来総理の夫人・�穎超と初会見。
【勝利島】10月、第1回離島本部(現・勝利島部)総会が開催。
第29巻
【常楽】ガルブレイス博士と対談。婦人部はじめ、関東・信越等に歌を贈る。
【力走】本部幹部会で21世紀へ5年ごとの歩みを発表。神奈川、東京、関西、中部、四国、関東へ走る。
【清新】79年1月、厳冬の東北へ。帰京後、ウィルソン教授と会談し、九州に飛ぶ。
【源流】2月、インドへ。デリー大学の訪問やデサイ首相との会見等、平和・文化・教育交流を推進。
第30巻(上)
【大山】79年4月24日、第3代会長を辞任。5月3日の本部総会終了後、「大山」「大桜」と揮毫。5月5日、「正義」としたためる。
【雌伏】個人指導に徹し、雌伏の時を過ごす。80年、師を求め、四国、奄美の友が集う。
【雄飛】4月21日、第5次訪中。帰途、長崎から反転攻勢を開始し、翌81年には、北・中米、ソ連を訪問。
【暁鐘】(前半)欧州で諸行事。ブルガリアを初訪問したほか、各地で青年育成に全力を注ぐ。
第30巻(下)
【暁鐘】(後半)アメリカ、カナダへ。
【勝ち鬨】四国で「紅の歌」を作詞。大分で「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」を発表。熊本、秋田でも凱歌が轟く。
【誓願】世界の指導者と会談を重ねる。学会は世界宗教として21世紀へ飛翔。
この勢いが大事だ。
行動すれば智慧が湧く。
困難を好機にできる。
さあ一歩を踏み出そう!
上野殿後家尼御返事 P1505
『法華経の法門をきくにつけてなをなを信心をはげむをまことの道心者とは申すなり、天台云く「従藍而青」云云、此の釈の心はあいは葉のときよりもなをそむればいよいよあをし、法華経はあいのごとし修行のふかきはいよいよあをきがごとし』
【通解】
法華経の法門を聞くたびに、ますます信心に励む人を本当の求道者というのである。天台大師は「従藍而青」と述べている。その意味は「藍は葉の時よりも、葉からとった染料で染めれば染めるほど、青くなるのである。
法華経は藍のようなものであり、修行が深いのは、染めるにしたがって、ますます青くなるようなものである。
〈寸鉄〉 2018年9月19日
会長の人間主義の言葉を後世に残したい—識者。偉大な師のもと学ぶ誉れ
使命の舞台で日本一を目指すのが青年の生き方—恩師。目標を明確に挑戦
望みがあれば努力への刺激に—作家。我らに広布の大理想。共に切磋琢磨
婦人・女子部の10帰運動を励行。無事故が勝利の根本。周囲で配慮し応援
70歳以上の人口、初の2割超と。益々問われる生き方。多宝会の使命深し
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(上) 主な内容(1〜12巻)
第1巻
【旭日】1960年10月2日、山本伸一は北南米へ出発。世界広布の第一歩を、ハワイの地にしるす。
【新世界】サンフランシスコでは、やがてアメリカの同志の誓いとなる3指針を提案。
【錦秋】シカゴで人種差別の現実に心を痛める。カナダへも。
【慈光】ニューヨーク、ワシントンに地区が誕生。
【開拓者】病をおしてブラジルへ。海外初の支部結成。
第2巻
【先駆】第3代会長就任後、直ちに全国へ。本土復帰前の沖縄では、楽土建設を誓う。
【錬磨】広布の中核の育成に全力を注ぐ。水滸会、華陽会の野外研修、夏季講習会等で指導。
【勇舞】北南米歴訪後も、直ちに千葉など各地の支部結成式へ。
【民衆の旗】東北、九州、関西、中国方面の激励行へ。伸一の家庭教育の挿話も。
第3巻
【仏法西還】61年1月、アジアへ。最初に訪れた香港では東南アジア初の地区を結成。
【月氏】インドへ。2月4日、釈尊成道の地に「東洋広布」の碑を埋納。
【仏陀】ブッダガヤで「人間・釈尊」の崇高な生涯を思う。
【平和の光】長兄が戦死したビルマ(現在のミャンマー)等へ。
第4巻
【春嵐】各地の支部結成大会へ。
【凱旋】会長就任1周年の総会。アメリカ、ブラジルからも代表が参加。歓喜が爆発。
【青葉】青年部が方面別総会を開催。
【立正安国】夏季講習会で「立正安国論」を講義。
【大光】初の欧州の平和旅へ。"ベルリンの壁"の前に立ち、世界平和実現に生涯を捧げることを誓う。
第5巻
【開道】ドイツからフランス、イギリスを歴訪。
【歓喜】ウィーンに"楽聖"の苦闘を偲び、ローマではキリスト教の歴史から、妙法流布の輝く未来を展望。
【勝利】男子部の「10万人」の総会を開催。女子部も8万5千人が集う。
【獅子】62年1月17日、公明政治連盟が発足。25日、大阪事件の無罪判決を勝ち取る。
第6巻
【宝土】62年1月、イラン、イラクなど7カ国歴訪の旅へ。
【遠路】ソクラテスの死、アレキサンダー大王の遠征などを偲び、遙かな広布の険路を思う。
【加速】福岡"ドカン"地域の庶民の蘇生劇。飛躍的な弘教で会長就任2周年を飾る。
【波浪】参院選の公明政治連盟の勝利に危機感を抱いた一部労組が会員を圧迫。
【若鷲】学生部代表への「御義口伝」講義を開始。
第7巻
【文化の華】300万の平和勢力を築いた伸一に、ケネディ米大統領との会見の話が。
【萌芽】63年1月、世界一周の平和旅へ。米国が3支部に発展。
【早春】欧州、アジア訪問の帰途、台湾で同志との劇的な出会いが実現。
【操舵】豪雪に埋まった登山列車を救援する同志たち。一方、台湾の友は弾圧の嵐を乗り越えていく。
第8巻
【布陣】組織の官僚主義を打ち砕いて進む。離島の奄美に飛び、希望の布石を。
【宝剣】戸田城聖の七回忌を期して、"本門の時代"に入ることを宣言。京大生への「百六箇抄」講義など青年の育成にあたる。
【清流】幹部の不祥事を通し、広布の組織を攪乱する魔の本質を究明。
【激流】ケネディ大統領の暗殺で世界に激震が走る。韓国の友は、春を信じて弾圧の冬を耐え抜く。
第9巻
【新時代】64年5月、"本門の時代"の第一歩として、豪州等に旅立つ。
【鳳雛】高等・中等部、少年部を結成。自ら生命を注いで未来の鳳雛を育む。
【光彩】初めて東欧圏を訪問。人間性抑圧の全体主義の矛盾を思索する。
【衆望】公明党が結党。沖縄で小説『人間革命』の執筆を開始。
第10巻
【言論城】65年元日、小説『人間革命』の連載を開始。7月、聖教新聞が日刊化。
【幸風】人種暴動が火を噴く米国・ロサンゼルスへ。恩師が夢見たメキシコを初訪問。
【新航路】欧州で人材育成に全力。西ドイツでは日本から渡ってきた青年たちを励ます。
【桂冠】66年3月5日、壮年部が結成。
第11巻
【暁光】66年3月、ブラジルで政治警察の監視の中、友を激励。同国勝利の歩みを綴る。
【開墾】ペルーへ。アルゼンチンなど4カ国の苦闘も記す。
【常勝】雨の関西文化祭。ベトナム和平を願い、提言を発表。
【躍進】公明党が初挑戦の衆院選に勝利。新潟で日蓮大聖人の受難の御生涯を偲ぶ。
第12巻
【新緑】会長就任7周年を大勝利で飾り、欧米歴訪の旅に出発。
【愛郷】群発地震の続く長野・松代、さらに飛騨の高山へ。
【天舞】67年10月、東京文化祭に出席。クーデンホーフ・カレルギー伯爵と対談。
【栄光】68年4月8日、創価学園の第1回入学式。
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(中) 主な内容(13〜23巻)
第13巻
【金の橋】1968年9月8日、第11回学生部総会で「日中国交正常化提言」を発表。
【北斗】9月、北海道の旭川、日本最北端の地・稚内へ。
【光城】11月、2度目の奄美訪問。各地で芸術祭が盛大に。
【楽土】69年の新年、全同志に詩「建設の譜」を贈る。2月15日、沖縄へ。
第14巻
【智勇】学園紛争のさなか、「学生運動の第三の道」や「四権分立」を提案。「新学同」が結成。
【使命】女子部の「白樺グループ」、文芸部が結成。
【烈風】69年12月、病魔と闘いつつ、関西各地の友を激励。「言論問題」の嵐を越え、創価の陣列は進む。
【大河】70年5月3日、会長就任10周年。ブロック組織など、新たな広布の前進を開始。9月、聖教新聞社の新社屋が完成。
第15巻
【蘇生】水俣病等の公害問題に挑み、苦闘の友を励ます。各地では文化祭。「青年の譜」等の詩を発表。
【創価大学】71年4月、創価大学が開学。大学祭、寮祭など若人のなかに飛び込み、生命を削って「人間教育」の大道を開く。
【開花】写真撮影に挑戦。鎌倉・三崎に友好の輪。台風禍の世界ジャンボリーで救援活動。
第16巻
【入魂】72年、年頭から大学会や東京各区、沖縄等の同志に入魂の指導を続ける。
【対話】欧米歴訪へ出発。5月、歴史学者トインビー博士をロンドンの自宅に訪ね、「21世紀への対話」を開始。文明論、宗教論など多岐にわたった談論は2年越し、延べ40時間に。
【羽ばたき】7月豪雨で被災の友を激励。10月12日、正本堂が完成。26年後、法主を名乗る日顕の暴挙によって解体。
第17巻
【本陣】73年、「本陣・東京」の建設に力を注ぎ、各区で記念撮影。兄弟会も結成。
【希望】4月11日、創価女子中学・高校の第1回入学式へ。
【民衆城】若き日に勝利の歴史を築いた荒川、墨田、大田、豊島へ。5月8日から欧州へ出発。
【緑野】"郷土を人材の緑野に"と、福井、岐阜など行く先々で友に励ましを送る。
第18巻
【師子吼】73年夏、小説『人間革命』が映画化。「聖教新聞」の記者を手づくりで育成。
【師恩】夏季講習会、恩師の故郷・北海道へと激励行が続く。帰京後、埼玉、島根、鳥取を訪れ、11月に栃木を訪問。
【前進】四国指導。東京では不況の中、苦闘する同志を励ます。
【飛躍】74年、社会建設へ先駆する青年部を九州で励まし、香港へ。香港大学、香港中文大学等を訪問。
第19巻
【虹の舞】74年2月、本土復帰後、初の沖縄訪問。石垣・宮古島、県北部の名護へも。
【凱歌】北中南米3カ国へ。パナマで大統領と初会見。ペルーでは文化・教育交流の新展開。
【陽光】カリフォルニア大学ロサンゼルス校で海外初の大学講演。全米総会等の中、懸命に青年を育む。
【宝塔】沖縄・広島・長崎青年部の反戦出版が各地に波動、全80巻に。視覚に障がいのある友の座談会へ。
第20巻
【友誼の道】74年5月30日、中国を初訪問。李先念副総理と会見。
【懸け橋】9月8日、ソ連を初訪問。文豪ショーロホフ、コスイギン首相と会談。
【信義の絆】12月5日、第2次訪中で周恩来総理と会見。さらに、アメリカでは青年部による「核廃絶一千万署名簿」を国連事務総長に手渡す。キッシンジャー国務長官と平和への語らい。
第21巻
【SGI】75年1月26日、51カ国・地域の代表がグアムに集い、SGIが発足。山本伸一はSGI会長に。
【人間外交】日本では佐藤元総理らと、第3次訪中では�小平副総理、カンボジアのシアヌーク殿下と会見。
【共鳴音】会長就任15周年の記念行事を終え渡欧。ペッチェイ、マルロー、ユイグ等と対話を重ねる。
【宝冠】第2次訪ソで、モスクワ大学から名誉博士号が贈られ、記念講演。コスイギン首相と再会。
第22巻
【新世紀】井上靖、松下幸之助と対話を重ね、「往復書簡」が連載、発刊へ。
【潮流】ハワイで州知事も出席し全米総会。「アロハの精神」と「寛容」「慈悲」の仏法哲理が響き合う。
【波濤】海外航路に従事する船員の集い「波濤会」を激励。女子部学生局、「青春会」など若き女性の育成にも全力。
【命宝】ドクター部の総会へ。広島では本部総会に出席したほか、呉も初訪問。
第23巻
【未来】76年4月16日、札幌創価幼稚園が開園。師弟有縁の地に創価一貫教育の最初の門が完成。
【学光】創価大学に通信教育部が開設。自ら学生の中に入り、激励を重ねる。
【勇気】勤労学生の集い「飛翔会」が先駆の活躍。「人間革命の歌」が発表される。
【敢闘】夏季講習会・研修会で青年の育成に全精魂を注ぐ。
☆小説「新・人間革命」完結 記念特集(下) 主な内容(24〜30巻下)
第24巻
【母の詩】1976年8月、「母」の歌が完成。母・幸との忘れ得ぬ思い出も。
【厳護】「牙城会」「創価班」「白蓮グループ」の育成に全力。「諸法実相抄」等の講義始まる。
【人間教育】最前線のリーダーの集いへ。教育部が実践報告大会などを開催。
【灯台】社会部、団地部、農村部(現・農漁光部)の勤行集会で渾身の指導。
第25巻
【福光】77年3月11日、福島文化会館の開館記念勤行会に出席。
【共戦】「第二の開拓指導」の決意で山口を訪問。草創の友に人生の総仕上げについて指導。
【薫風】北九州、佐賀で全精魂を注いで青年を激励。
【人材城】熊本で各部の友と懇談。
第26巻
【厚田】77年10月、創価学会初の墓地公園が北海道に開園。
【法旗】78年1月、広布第2章の「支部制」が発表される。
【勇将】1月19日、四国研修道場を訪問。25日、奈良の記念幹部会に出席。
【奮迅】1月27日、東京・杉並区の方南支部結成大会に出席。2月18日、立川文化会館で本部幹部会。翌日、信越男子部を激励。
第27巻
【若芽】78年4月9日、東京創価小学校の第1回入学式。82年4月、関西創価小学校が開校。
【正義】仏法の正道歩む学会を宗門が攻撃。同志は各地の合唱祭で創価の正義を歌い上げる。
【激闘】78年5月、東京・練馬、鹿児島、福岡、山口、広島へと間断なき大闘争。
【求道】人材の創価城の建設に、東北、北海道へと走る。
第28巻
【広宣譜】78年夏、学生部はじめ、関西・九州・中国等に希望の歌を贈る。
【大道】寸暇を惜しんで方面歌などの作詞に取り組む。
【革心】第4次訪中へ。周恩来総理の夫人・�穎超と初会見。
【勝利島】10月、第1回離島本部(現・勝利島部)総会が開催。
第29巻
【常楽】ガルブレイス博士と対談。婦人部はじめ、関東・信越等に歌を贈る。
【力走】本部幹部会で21世紀へ5年ごとの歩みを発表。神奈川、東京、関西、中部、四国、関東へ走る。
【清新】79年1月、厳冬の東北へ。帰京後、ウィルソン教授と会談し、九州に飛ぶ。
【源流】2月、インドへ。デリー大学の訪問やデサイ首相との会見等、平和・文化・教育交流を推進。
第30巻(上)
【大山】79年4月24日、第3代会長を辞任。5月3日の本部総会終了後、「大山」「大桜」と揮毫。5月5日、「正義」としたためる。
【雌伏】個人指導に徹し、雌伏の時を過ごす。80年、師を求め、四国、奄美の友が集う。
【雄飛】4月21日、第5次訪中。帰途、長崎から反転攻勢を開始し、翌81年には、北・中米、ソ連を訪問。
【暁鐘】(前半)欧州で諸行事。ブルガリアを初訪問したほか、各地で青年育成に全力を注ぐ。
第30巻(下)
【暁鐘】(後半)アメリカ、カナダへ。
【勝ち鬨】四国で「紅の歌」を作詞。大分で「青年よ 21世紀の広布の山を登れ」を発表。熊本、秋田でも凱歌が轟く。
【誓願】世界の指導者と会談を重ねる。学会は世界宗教として21世紀へ飛翔。
2018年9月18日火曜日
2018.09.18 わが友に贈る
会場提供者とご家族に
心から感謝の言葉を!
駐輪・駐車や立ち話など
マナー違反は厳禁!
使用時間も皆で守ろう。
日女御前御返事 P1250
『周の文王は老たる者をやしなひていくさに勝ち、其の末三十七代八百年の間すゑずゑはひが事ありしかども根本の功によりてさかへさせ給ふ』
【通解】
周の文王は、老いた者を大切に養って戦に勝ち、その子孫は37代・800年の間、末裔には悪政の時代もあったが、根本である文王の功によって長く栄えることができた。
〈寸鉄〉 2018年9月18日
創価家族の絆から平和の心は未来に継承されると確信—識者。不戦の連帯
座談会の週。広布前進は互いの触発から。共々に決意語らい「11・18」へ
清々しい信心こそ幸福の秘訣—戸田先生。今日も張りのある勤行から出発
災害時の持ち出し袋、65%が用意せず。気付いた時に準備。後悔せぬよう
録音します—電話の音声装置で詐欺被害激減と。撲滅の知恵。対策さらに
☆四季の励まし あすは敬老の日 「生涯青春」の心意気で 2018年9月16日
年を取っても、
心まで
老け込んでしまってはいけない。
胸を張り、
「生涯青春」の心意気で
生き抜いていくことだ。
そう決めていけば、
本当に年齢を忘れるくらいの、
生き生きとした毎日を
送っていくことができる。
年配の方は、健康のために、
「よく眠る」ことである。
また「声を出す」こと、
「頭を使う」ことである。
その意味で、学会活動には
健康のための条件がそろっている。
朗々たる唱題、教学の研さん、
学会指導の学習——と、
広布のリズムのなかで
健康のリズムをも整えながら、
どこまでも、はつらつと
生き抜いていただきたい。
私たちの信仰には、
病気をはじめ、
あらゆる苦悩の意味を、
深く捉えなおしていく力がある。
すなわち
「宿命を使命に変える」生き方だ。
これは、ただ単に
宿命を堪え忍ぶというのではない。
また、逃避や諦めでもない。
生命を変革し、鍛え上げ、
どこまでも病に立ち向かえる、
負けない自分自身を築いていく。
それが学会員の強さである。
妙法は「不老」、
すなわち生命力が
老いることのない法である。
また妙法は「蘇生」、
すなわち「よみがえる」力の
源泉である(御書947ページ)。
妙法を朗々と唱えながら、
全員が生き生きと
「青年」に若返るのだ。
そして青年を育て、青年と共に、
いまだかつてない
「勝利」また「勝利」の
黄金の歴史を飾ってまいりたい。
赤やピンク、黄色……。色とりどりのヒャクニチソウ(百日草)が、にぎやかに咲いていた。先月、池田大作先生ご夫妻が山梨へ。山中湖周辺で、車中から先生はシャッターを切った。
風雨や猛暑にも負けず、夏から秋にかけて咲き続けるヒャクニチソウ。長期間、鮮やかな色合いを保つことなどから、英名では「youth and old age(青年と年配者)」とも呼ばれている。
花々の生き生きとした姿は、「生涯青春」の心を輝かせて進む草創の同志と重なる。その笑顔には、師と共に広布の幾山河を越えてきた誇りと喜びがあふれている。
あす17日は「敬老の日」。功労の友に最敬礼しつつ、皆で朗らかに"幸の花"を咲かせよう。
心から感謝の言葉を!
駐輪・駐車や立ち話など
マナー違反は厳禁!
使用時間も皆で守ろう。
日女御前御返事 P1250
『周の文王は老たる者をやしなひていくさに勝ち、其の末三十七代八百年の間すゑずゑはひが事ありしかども根本の功によりてさかへさせ給ふ』
【通解】
周の文王は、老いた者を大切に養って戦に勝ち、その子孫は37代・800年の間、末裔には悪政の時代もあったが、根本である文王の功によって長く栄えることができた。
〈寸鉄〉 2018年9月18日
創価家族の絆から平和の心は未来に継承されると確信—識者。不戦の連帯
座談会の週。広布前進は互いの触発から。共々に決意語らい「11・18」へ
清々しい信心こそ幸福の秘訣—戸田先生。今日も張りのある勤行から出発
災害時の持ち出し袋、65%が用意せず。気付いた時に準備。後悔せぬよう
録音します—電話の音声装置で詐欺被害激減と。撲滅の知恵。対策さらに
☆四季の励まし あすは敬老の日 「生涯青春」の心意気で 2018年9月16日
年を取っても、
心まで
老け込んでしまってはいけない。
胸を張り、
「生涯青春」の心意気で
生き抜いていくことだ。
そう決めていけば、
本当に年齢を忘れるくらいの、
生き生きとした毎日を
送っていくことができる。
年配の方は、健康のために、
「よく眠る」ことである。
また「声を出す」こと、
「頭を使う」ことである。
その意味で、学会活動には
健康のための条件がそろっている。
朗々たる唱題、教学の研さん、
学会指導の学習——と、
広布のリズムのなかで
健康のリズムをも整えながら、
どこまでも、はつらつと
生き抜いていただきたい。
私たちの信仰には、
病気をはじめ、
あらゆる苦悩の意味を、
深く捉えなおしていく力がある。
すなわち
「宿命を使命に変える」生き方だ。
これは、ただ単に
宿命を堪え忍ぶというのではない。
また、逃避や諦めでもない。
生命を変革し、鍛え上げ、
どこまでも病に立ち向かえる、
負けない自分自身を築いていく。
それが学会員の強さである。
妙法は「不老」、
すなわち生命力が
老いることのない法である。
また妙法は「蘇生」、
すなわち「よみがえる」力の
源泉である(御書947ページ)。
妙法を朗々と唱えながら、
全員が生き生きと
「青年」に若返るのだ。
そして青年を育て、青年と共に、
いまだかつてない
「勝利」また「勝利」の
黄金の歴史を飾ってまいりたい。
赤やピンク、黄色……。色とりどりのヒャクニチソウ(百日草)が、にぎやかに咲いていた。先月、池田大作先生ご夫妻が山梨へ。山中湖周辺で、車中から先生はシャッターを切った。
風雨や猛暑にも負けず、夏から秋にかけて咲き続けるヒャクニチソウ。長期間、鮮やかな色合いを保つことなどから、英名では「youth and old age(青年と年配者)」とも呼ばれている。
花々の生き生きとした姿は、「生涯青春」の心を輝かせて進む草創の同志と重なる。その笑顔には、師と共に広布の幾山河を越えてきた誇りと喜びがあふれている。
あす17日は「敬老の日」。功労の友に最敬礼しつつ、皆で朗らかに"幸の花"を咲かせよう。
2018年9月17日月曜日
2018.09.17 わが友に贈る
◇今週のことば
我らの座談会は
「常にかたりあわせて」
地域を照らす灯台だ。
尊き多宝の方々を讃え
新鮮で楽しい福光を!
2018年9月17日
生死一大事血脈抄 P1337
『日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し』
【通解】
日蓮の弟子の中に異体異心の者があれば、それはたとえば、城の内部の者が城を破るようなものである。
〈寸鉄〉 2018年9月17日
男子部が誓い燃える全国研修会。創価の未来開く主役は君だ。快進撃頼む
鳥取・島根の日。太陽の励ましで郷土に希望を!永遠に福徳輝く山光たれ
「弥はげませ給うべし」御書。何があろうと題目。ここに勝利と幸福の直道
敬老の日。広布の大先輩の健康と長寿祈る。生涯求道の姿こそ同志の模範
新しい事に挑戦、人との触れ合い—脳を若く保つ方法と。全て学会活動に
☆随筆 永遠なれ創価の大城 第34回 「人間革命」の大光
◇新たな師弟の大叙事詩を共々に
◇試練を越えて民衆勝利の太陽は昇る
何よりもまず、六日の未明、北海道を襲った最大震度七の激烈な地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。
また六月の大阪北部の地震に続き、今月初め、関西・中部等で台風二十一号による暴風雨・高潮の災禍がありました。
二カ月前、中国・四国地方を中心に甚大な被害をもたらした西日本豪雨からの復興も途上です。
世界でもインドネシアの連続地震、アメリカの頻発する山火事、ハワイの火山噴火など、災害が打ち続いています。
被災地域に早く安心の日が戻るよう念願するとともに、不屈の心で復旧・復興へ尽力されている全ての宝友に、懸命に題目を送っております。
私たちの祈りは「立正安国」の祈りであり「変毒為薬」の祈りです。日本中、世界中のいずこの地にも通じていきます。
御本仏・日蓮大聖人は「わざはひ(禍)も転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」(御書一一二四ページ)と示されました。
苦難の時こそ、勇気と智慧と慈悲を奮い起こし、自他共の幸福、地域社会の安穏のため、「立正安国」「変毒為薬」の誓いの連帯を広げていくのが、創価の我らです。
季節の変わり目、北海道では厳しい冷え込みが始まっていると伺っています。わが同志の健康と無事安穏を、ひたぶるに祈念する日々です。
◇巌窟王の心継ぎ
過日、私は久方ぶりに山梨県を訪れた。
常に東京と一体で、いかなる広布の闘争にも、勇んで打って出てくれる「ああ感激の同志」こそ、わが山梨家族である。
婦人部を中心に題目の渦を起こしながら、明るく仲良く団結し、前進している息吹が頼もしい。
忘れ得ぬ功労の方々への追善も、妻と懇ろにさせていただいた。
山梨は、六十三年前、恩師・戸田城聖先生のもとで「水滸会」の野外研修を行った天地でもある。今回、山中湖畔を車で走った際には、青年たちが相撲大会を繰り広げた場所も懐かしく見つめた。
——師匠の前での取り組みであった。皆、真剣勝負で闘魂をたぎらせ、ぶつかり合っていった。
先生も私も、前へ前へ突き進む「押し相撲」が好きだ。思い切って力を出し合う若人に、勝敗を超え、身を乗り出して声援を送ってくださった師の笑顔が忘れられない。
その黄金に輝く師弟の思い出の劇を、堂々たる王者の富士が、じっと見守っていた。
「強敵を伏して始て力士をしる」(同九五七ページ)。恩師は、この御文を通して、試練に挑む青年を励まされた。
過酷な宿命という強敵に、怯まず恐れず立ち向かってこそ、人間革命は成し遂げられるのだと。
戸田先生も愛読されていた、山梨出身の文豪・山本周五郎は語った。
「転んでも転んでも起きあがってゆく人を見ると、こちらまで勇気づけられる」
思えば、戸田先生の小説『人間革命』の主人公の名前は「巌九十翁」。まさに転んでも転んでも起き上がり、師匠の正義を宣揚せずにはおかない不撓不屈の「巌窟王」の意義が留められていた。
そして私が続編として書き継いだ『人間革命』に登場し、恩師の逝去後の大前進を描く『新・人間革命』の主人公となるのは「山本伸一」——。烈風にも揺るがぬ富士の如き、「巌窟王」の闘魂を受け継ぎ、踏まれても踏まれても伸びて、師弟勝利の大樹と聳え立つ決意が、「山本伸一」の名には込められている。
◇大歴史家の期待
英国の大歴史家トインビー博士からは、英語版の『人間革命』第一巻に真心あふれる「序文」を寄せていただいた。私たちがロンドンで対談を始める直前のことである。
その中で博士は、創価の師弟の「迫害に耐え抜く勇気」と「持続的な忍耐力」、さらに「行動をもって示す誠実さ」を讃えてくださった。
そして「創価学会は、既に世界的出来事である」とし、人間革命の運動が人類の精神的価値観を大転換していくことに、大いなる期待を寄せてくださったのである。
今、創価の世界市民が、あらゆる試練を勝ち越えゆく「人間革命」の連帯で地球を結んでいることを、博士も笑顔で見守っておられるに違いない。
◇「命の限り」と
今月八日、小説『新・人間革命』の新聞連載が、全三十巻をもって、完結の時を迎えた。
沖縄での前作の起稿からは、五十四年に及ぶ執筆となる。
「命の限り」と覚悟しての挑戦であったが、全同志の真心に包まれ「更賜寿命」の大功徳で、牧口常三郎先生、戸田先生にお誓いした世界広布の大前進の中、連載の区切りをつけることができた。
弟子として感慨は無量であり、感謝は言葉に尽くすことができない。
あの地震直後の北海道では、婦人部をはじめ、同志の祈りと関係者のご尽力で、最終回の載った八日付紙面が印刷・配布されたと伺った。
あらためて、陰に陽に支え続けてくださった、日本中、世界中の全ての皆様に心から御礼を申し上げたい。
ありがたくも、「連載が終わって寂しい」との声も多く頂いている。
しかし、師弟して歩む我らの「人間革命」の挑戦に終わりはない。
私は、可憐な鼓笛隊の演奏会で目に留めた光景を思い出す。それは、舞台の奥で真剣に打楽器を叩く乙女が、演奏の際、楽器にパッと手を添え、余韻が残らないように工夫していた姿である。
「余韻にひたらず、常に新たな前進を!」——日蓮仏法の真髄は「本因妙」だ。一つの「終幕」は、新たな戦いの「開幕」なのである。
まさに「月月・日日につよ(強)り給へ・すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし」(御書一一九〇ページ)である。
◇
二十五年前、『新・人間革命』の執筆を始めた直後の九月、私はアメリカの名門ハーバード大学で、「二十一世紀文明と大乗仏教」と題して講演を行った。
そこで訴えた一点は、宗教をもつことが人間を
「強くするのか弱くするのか」
「善くするのか悪くするのか」
「賢くするのか愚かにするのか」——
この指標である。
変化の激流の中を生きることを運命づけられた人間が、より強く、より善く、より賢くなる——どこまでも成長していく原動力となってこそ、「人間のための宗教」なのである。そして、これこそが、我らの「人間革命の宗教」なのである。
この点、アメリカのデューイ協会元会長のガリソン博士も信頼の声を寄せてくださった。
"「人間革命」とは一人ひとりが、かけがえのない可能性を現実の中に開発し、社会全体に貢献していくのである。
ゆえに「人間革命」の理念を掲げるSGIは、「どこまでも成長する宗教」である"と。
◇誓願の旅は続く
『新・人間革命』に託した私の真情は、「戸田大学」で恩師から一対一の薫陶を受けたように、日本中、世界中の青年たちと、この書を通して命と命の対話を交わしたいということであった。
嬉しいことに、その願いの通り、今、いずこの地でも地涌の若人が「人間革命」の精神を学び、「山本伸一」の心を体して、人生と広布に、栄光の実証を威風堂々と勝ち示してくれている。
小説『人間革命』は、恩師が戦禍の暗闇を破って一人立つ、「黎明」の章で始まり、不二の弟子に受け継がれる「新・黎明」の章で終わった。
『新・人間革命』は、「旭日」の章で始まった。旭日が昇るように、創価の師弟は世界広布へ飛翔を開始したのだ。
恩師の分身として、仏法の慈光を世界へ届けるため、私は走った。
人間の中へ、民衆の中へ飛び込み、対話の渦を巻き起こしていった。そして、最後の章は、「誓願」として結んだ。
御書には、「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(一五六一ページ)、「大願とは法華弘通なり」(七三六ページ)と仰せである。
師と同じ大法弘通の大願に立てば、力は無限に湧き出すことができる。それが、誇り高き地涌の菩薩の底力だ。
師弟の誓願の太陽は、母なる地球を照らし、未来永遠を照らす光源として、今、いやまして赫々と輝き始めたのである。
あの国にも、この天地にも、友がいる。民衆が待っている。
さあ、人類が待望してやまぬ「世界広布」即「世界平和」へ、新たな決意で、新たな出発だ。
我は進む。君も進め。
我は戦う。君も戦え。
我は勝つ。君も勝て。
我らは、共々に「人間革命」の大光を放ちながら、新鮮なる創価の師弟の大叙事詩を綴りゆくのだ! 君と我との誓願の旅を、永遠に!
我らの座談会は
「常にかたりあわせて」
地域を照らす灯台だ。
尊き多宝の方々を讃え
新鮮で楽しい福光を!
2018年9月17日
生死一大事血脈抄 P1337
『日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば例せば城者として城を破るが如し』
【通解】
日蓮の弟子の中に異体異心の者があれば、それはたとえば、城の内部の者が城を破るようなものである。
〈寸鉄〉 2018年9月17日
男子部が誓い燃える全国研修会。創価の未来開く主役は君だ。快進撃頼む
鳥取・島根の日。太陽の励ましで郷土に希望を!永遠に福徳輝く山光たれ
「弥はげませ給うべし」御書。何があろうと題目。ここに勝利と幸福の直道
敬老の日。広布の大先輩の健康と長寿祈る。生涯求道の姿こそ同志の模範
新しい事に挑戦、人との触れ合い—脳を若く保つ方法と。全て学会活動に
☆随筆 永遠なれ創価の大城 第34回 「人間革命」の大光
◇新たな師弟の大叙事詩を共々に
◇試練を越えて民衆勝利の太陽は昇る
何よりもまず、六日の未明、北海道を襲った最大震度七の激烈な地震で被災された方々にお見舞い申し上げます。
また六月の大阪北部の地震に続き、今月初め、関西・中部等で台風二十一号による暴風雨・高潮の災禍がありました。
二カ月前、中国・四国地方を中心に甚大な被害をもたらした西日本豪雨からの復興も途上です。
世界でもインドネシアの連続地震、アメリカの頻発する山火事、ハワイの火山噴火など、災害が打ち続いています。
被災地域に早く安心の日が戻るよう念願するとともに、不屈の心で復旧・復興へ尽力されている全ての宝友に、懸命に題目を送っております。
私たちの祈りは「立正安国」の祈りであり「変毒為薬」の祈りです。日本中、世界中のいずこの地にも通じていきます。
御本仏・日蓮大聖人は「わざはひ(禍)も転じて幸となるべし、あひかまへて御信心を出し此の御本尊に祈念せしめ給へ、何事か成就せざるべき」(御書一一二四ページ)と示されました。
苦難の時こそ、勇気と智慧と慈悲を奮い起こし、自他共の幸福、地域社会の安穏のため、「立正安国」「変毒為薬」の誓いの連帯を広げていくのが、創価の我らです。
季節の変わり目、北海道では厳しい冷え込みが始まっていると伺っています。わが同志の健康と無事安穏を、ひたぶるに祈念する日々です。
◇巌窟王の心継ぎ
過日、私は久方ぶりに山梨県を訪れた。
常に東京と一体で、いかなる広布の闘争にも、勇んで打って出てくれる「ああ感激の同志」こそ、わが山梨家族である。
婦人部を中心に題目の渦を起こしながら、明るく仲良く団結し、前進している息吹が頼もしい。
忘れ得ぬ功労の方々への追善も、妻と懇ろにさせていただいた。
山梨は、六十三年前、恩師・戸田城聖先生のもとで「水滸会」の野外研修を行った天地でもある。今回、山中湖畔を車で走った際には、青年たちが相撲大会を繰り広げた場所も懐かしく見つめた。
——師匠の前での取り組みであった。皆、真剣勝負で闘魂をたぎらせ、ぶつかり合っていった。
先生も私も、前へ前へ突き進む「押し相撲」が好きだ。思い切って力を出し合う若人に、勝敗を超え、身を乗り出して声援を送ってくださった師の笑顔が忘れられない。
その黄金に輝く師弟の思い出の劇を、堂々たる王者の富士が、じっと見守っていた。
「強敵を伏して始て力士をしる」(同九五七ページ)。恩師は、この御文を通して、試練に挑む青年を励まされた。
過酷な宿命という強敵に、怯まず恐れず立ち向かってこそ、人間革命は成し遂げられるのだと。
戸田先生も愛読されていた、山梨出身の文豪・山本周五郎は語った。
「転んでも転んでも起きあがってゆく人を見ると、こちらまで勇気づけられる」
思えば、戸田先生の小説『人間革命』の主人公の名前は「巌九十翁」。まさに転んでも転んでも起き上がり、師匠の正義を宣揚せずにはおかない不撓不屈の「巌窟王」の意義が留められていた。
そして私が続編として書き継いだ『人間革命』に登場し、恩師の逝去後の大前進を描く『新・人間革命』の主人公となるのは「山本伸一」——。烈風にも揺るがぬ富士の如き、「巌窟王」の闘魂を受け継ぎ、踏まれても踏まれても伸びて、師弟勝利の大樹と聳え立つ決意が、「山本伸一」の名には込められている。
◇大歴史家の期待
英国の大歴史家トインビー博士からは、英語版の『人間革命』第一巻に真心あふれる「序文」を寄せていただいた。私たちがロンドンで対談を始める直前のことである。
その中で博士は、創価の師弟の「迫害に耐え抜く勇気」と「持続的な忍耐力」、さらに「行動をもって示す誠実さ」を讃えてくださった。
そして「創価学会は、既に世界的出来事である」とし、人間革命の運動が人類の精神的価値観を大転換していくことに、大いなる期待を寄せてくださったのである。
今、創価の世界市民が、あらゆる試練を勝ち越えゆく「人間革命」の連帯で地球を結んでいることを、博士も笑顔で見守っておられるに違いない。
◇「命の限り」と
今月八日、小説『新・人間革命』の新聞連載が、全三十巻をもって、完結の時を迎えた。
沖縄での前作の起稿からは、五十四年に及ぶ執筆となる。
「命の限り」と覚悟しての挑戦であったが、全同志の真心に包まれ「更賜寿命」の大功徳で、牧口常三郎先生、戸田先生にお誓いした世界広布の大前進の中、連載の区切りをつけることができた。
弟子として感慨は無量であり、感謝は言葉に尽くすことができない。
あの地震直後の北海道では、婦人部をはじめ、同志の祈りと関係者のご尽力で、最終回の載った八日付紙面が印刷・配布されたと伺った。
あらためて、陰に陽に支え続けてくださった、日本中、世界中の全ての皆様に心から御礼を申し上げたい。
ありがたくも、「連載が終わって寂しい」との声も多く頂いている。
しかし、師弟して歩む我らの「人間革命」の挑戦に終わりはない。
私は、可憐な鼓笛隊の演奏会で目に留めた光景を思い出す。それは、舞台の奥で真剣に打楽器を叩く乙女が、演奏の際、楽器にパッと手を添え、余韻が残らないように工夫していた姿である。
「余韻にひたらず、常に新たな前進を!」——日蓮仏法の真髄は「本因妙」だ。一つの「終幕」は、新たな戦いの「開幕」なのである。
まさに「月月・日日につよ(強)り給へ・すこしもたゆ(撓)む心あらば魔たよりをうべし」(御書一一九〇ページ)である。
◇
二十五年前、『新・人間革命』の執筆を始めた直後の九月、私はアメリカの名門ハーバード大学で、「二十一世紀文明と大乗仏教」と題して講演を行った。
そこで訴えた一点は、宗教をもつことが人間を
「強くするのか弱くするのか」
「善くするのか悪くするのか」
「賢くするのか愚かにするのか」——
この指標である。
変化の激流の中を生きることを運命づけられた人間が、より強く、より善く、より賢くなる——どこまでも成長していく原動力となってこそ、「人間のための宗教」なのである。そして、これこそが、我らの「人間革命の宗教」なのである。
この点、アメリカのデューイ協会元会長のガリソン博士も信頼の声を寄せてくださった。
"「人間革命」とは一人ひとりが、かけがえのない可能性を現実の中に開発し、社会全体に貢献していくのである。
ゆえに「人間革命」の理念を掲げるSGIは、「どこまでも成長する宗教」である"と。
◇誓願の旅は続く
『新・人間革命』に託した私の真情は、「戸田大学」で恩師から一対一の薫陶を受けたように、日本中、世界中の青年たちと、この書を通して命と命の対話を交わしたいということであった。
嬉しいことに、その願いの通り、今、いずこの地でも地涌の若人が「人間革命」の精神を学び、「山本伸一」の心を体して、人生と広布に、栄光の実証を威風堂々と勝ち示してくれている。
小説『人間革命』は、恩師が戦禍の暗闇を破って一人立つ、「黎明」の章で始まり、不二の弟子に受け継がれる「新・黎明」の章で終わった。
『新・人間革命』は、「旭日」の章で始まった。旭日が昇るように、創価の師弟は世界広布へ飛翔を開始したのだ。
恩師の分身として、仏法の慈光を世界へ届けるため、私は走った。
人間の中へ、民衆の中へ飛び込み、対話の渦を巻き起こしていった。そして、最後の章は、「誓願」として結んだ。
御書には、「願くは我が弟子等・大願ををこせ」(一五六一ページ)、「大願とは法華弘通なり」(七三六ページ)と仰せである。
師と同じ大法弘通の大願に立てば、力は無限に湧き出すことができる。それが、誇り高き地涌の菩薩の底力だ。
師弟の誓願の太陽は、母なる地球を照らし、未来永遠を照らす光源として、今、いやまして赫々と輝き始めたのである。
あの国にも、この天地にも、友がいる。民衆が待っている。
さあ、人類が待望してやまぬ「世界広布」即「世界平和」へ、新たな決意で、新たな出発だ。
我は進む。君も進め。
我は戦う。君も戦え。
我は勝つ。君も勝て。
我らは、共々に「人間革命」の大光を放ちながら、新鮮なる創価の師弟の大叙事詩を綴りゆくのだ! 君と我との誓願の旅を、永遠に!
2018年9月16日日曜日
2018.09.16 わが友に贈る
真剣な言葉は
必ず友の心に届く。
誠実な振る舞いは
一段と信用を深める。
今日も希望の語らいを!
四条金吾殿御返事 P1117
『まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを煩悩即菩提生死即涅槃と云うなり』
【通解】
まさしく男女交会のときに南無妙法蓮華経と唱えるところを煩悩即菩提・生死即涅槃というのである。
〈寸鉄〉 2018年9月16日
何があっても私は戦う。この精神が大事だ—恩師青年よ勝利を開く要たれ
東京・秋川が「師弟原点の日」65周年。正義叫ぶ師子は陸続。拡大の歴史築け
全国の新聞長、配達員の皆様に感謝!広布の言論支える闘士。福徳は無量
大きな苦悩は魂を大きく—文豪。深き祈りで苦難に挑め。人間革命の劇を
100歳に聞く長寿の秘訣、「3食欠かさず」が1位。食は健康の基。しっかり
☆御書と歩む� 第34回 互いに励まし変毒為薬を
『今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや、若し此れを捨て給はば仏還って我が身を捨て給うなるべし』(法蓮抄、1050ページ)
◇通解
今、法華経の寿量品を持つ人は、諸仏の命を継ぐ人である。自分が得道することのできた経を持つ人をお捨てになる仏があるだろうか。もし、この人を捨てるなら、仏は、かえって自分の身を捨てることになるであろう。
◇同志への指針
地震、台風、豪雨、山火事など、災害との戦いが各国・各地で続いている。重ねて心からお見舞い申し上げたい。
妙法受持の人は、自他共の生命を宝塔と輝かせ、生老病死の試練にも常楽我浄の光を放っていける。諸仏も守りに護らないわけがない。
全世界の同志と題目を送り合い、励まし合って、一つ一つ断じて変毒為薬し、寂光土を築き広げゆこう!
必ず友の心に届く。
誠実な振る舞いは
一段と信用を深める。
今日も希望の語らいを!
四条金吾殿御返事 P1117
『まさしく男女交会のとき南無妙法蓮華経ととなふるところを煩悩即菩提生死即涅槃と云うなり』
【通解】
まさしく男女交会のときに南無妙法蓮華経と唱えるところを煩悩即菩提・生死即涅槃というのである。
〈寸鉄〉 2018年9月16日
何があっても私は戦う。この精神が大事だ—恩師青年よ勝利を開く要たれ
東京・秋川が「師弟原点の日」65周年。正義叫ぶ師子は陸続。拡大の歴史築け
全国の新聞長、配達員の皆様に感謝!広布の言論支える闘士。福徳は無量
大きな苦悩は魂を大きく—文豪。深き祈りで苦難に挑め。人間革命の劇を
100歳に聞く長寿の秘訣、「3食欠かさず」が1位。食は健康の基。しっかり
☆御書と歩む� 第34回 互いに励まし変毒為薬を
『今法華経・寿量品を持つ人は諸仏の命を続ぐ人なり、我が得道なりし経を持つ人を捨て給う仏あるべしや、若し此れを捨て給はば仏還って我が身を捨て給うなるべし』(法蓮抄、1050ページ)
◇通解
今、法華経の寿量品を持つ人は、諸仏の命を継ぐ人である。自分が得道することのできた経を持つ人をお捨てになる仏があるだろうか。もし、この人を捨てるなら、仏は、かえって自分の身を捨てることになるであろう。
◇同志への指針
地震、台風、豪雨、山火事など、災害との戦いが各国・各地で続いている。重ねて心からお見舞い申し上げたい。
妙法受持の人は、自他共の生命を宝塔と輝かせ、生老病死の試練にも常楽我浄の光を放っていける。諸仏も守りに護らないわけがない。
全世界の同志と題目を送り合い、励まし合って、一つ一つ断じて変毒為薬し、寂光土を築き広げゆこう!
2018.09.15 わが友に贈る
掛け声だけでは
団結は生まれない。
一人を支え抜くことだ。
幸せを祈りぬくことだ。
広布の指導者ならば!
国府尼御前御書 P1324
『釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりととかれて候、まことしからぬ事にては候へども仏の金言にて候へば疑うべきにあらず』
【通解】
釈尊ほどの仏を、身口意の三業をもって、一中劫の間、心をこめて供養するよりも、末代悪世の時代に、法華経の行者を供養する功徳の方が勝れていると説かれているのである。真実とは思えぬことではあるが、仏の金言であるから疑うべきでない。
〈寸鉄〉 2018年9月15日
衆生の「心清ければ土も清し」御書。環境をも変えるのが信心。一念定めよ
東北婦人部の日。地域で輝く福光の太陽よ。不撓不屈の前進に皆が大拍手
副役職の友が光る組織は強し。さあ幹部と心一つに「励まし週間」に総力!
ドクター部の日。「生命尊厳」を掲げる先頭走者。同苦の心で信頼の灯台に
交通死亡事故、日没後の1時間に多発。昼・夜間の3倍超。互いに声掛けを
☆歌声高く 第18回 凱歌の人生/誓いの友/広布の鐘
◇広布の新時代は北関東から!
夏の暑さが盛りを過ぎ、秋の気配が近づくと、北関東の同志の心は、むしろ、一段と熱を帯びてくる。
池田先生が茨城、群馬、栃木の3県に、相次いで県歌を贈った記念の日を迎えるからだ。1978年(昭和53年)のことである。
茨城県歌「凱歌の人生」の歌詞が発表されたのは、10月21日、東京で行われた本部幹部会の席上だった。その歌詞には、池田先生の「"すべてに勝利の茨城であれ!"との、強い、強い、期待が込められていた」(小説『新・人間革命』「常楽」の章)。
第1次宗門事件の渦中である。けなげな学会の同志を守るため、間断なき激闘のさなかにあった先生は、ペンを執り続けた。
11月2日、「栃木の日」記念総会を翌日に控えていた県の幹部のもとに、「県歌ができたよ」との先生の伝言が劇的に届く。
総会当日、会場に県歌「誓いの友」の歌声が響きわたった。池田先生が恩師・戸田城聖先生の戦後初の地方指導に思いをはせて命名した「戸田合唱団」の友も躍動した。
同月21日には、群馬センター(当時)で協議会を行っていた県幹部に、群馬県歌「広布の鐘」の完成が伝えられた。さらに、「歌は時代を変えていく。群馬の同志が、この歌を声高らかに歌いながら、大きく成長して、新しい時代を築かれることを楽しみにしています」との先生の万感こもる伝言も——。
11月23日、東京・信濃町の創価文化会館(当時)で第1回「関東支部長会」が行われた。開会に先立ち、各県のメンバーが県歌を合唱する姿は、さながら"広布の歌合戦"のよう。「皆が、二十一世紀の峰をめざす決意を託しての合唱であった」(小説『新・人間革命』「力走」の章)
そして今、「直通の茨城」「人材の王国・群馬」「広布源流の栃木」には、堂々たる人材の城が築かれた。
各県の同志は本年6月、県歌誕生40周年を記念する関東総会(本部幹部会)を見事な弘教拡大で勝ち飾り、広宣流布大誓堂完成5周年の秋へとひた走る。師と共に、歌声も高らかに!
MEMO
茨城県歌「凱歌の人生」と栃木県歌「誓いの友」は小説『新・人間革命』第29巻「常楽」の章に、群馬県歌「広布の鐘」は同巻「力走」の章に、それぞれ発表の模様が記されている。
SOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)では、3県の歌のコーラス入り映像を配信。VODが利用できる会館等のほか、「SOKAチャンネル モバイルSTB」で視聴できる。
〈栃木県歌「誓いの友」〉
一、ああ高原の 郷土に
立ちて誓わん わが友と
三世の道は ここにあり
栃木の凱歌に 幸の河
二、あの日誓いし 荘厳の
語りし歴史 つづらんと
ああ幾山河 凜々しくも
栃木の勝利に 涙あり
三、栃木の友は 恐れなし
広布の歩調は 朗らかに
いざいざ進まん 慈悲の剣
栃木の旗に 集い寄れ
君との誓い 忘れまじ
〈群馬県歌「広布の鐘」〉
一、我等を守り 見つめたる
赤城の風は 妙法と
群馬の天地に 幸薫れ
さあ肩くみて 友よ起て
二、あふるる文化の 上毛に
今再びの 広宣の
この世の夢か 楽土をば
さあ築きゆけ 鐘鳴らせ
三、ロマンの歴史 満々と
群馬の足跡 朗らかに
仰げば天に 虹光り
ああ我等の誓い 忘れまじ
利根と榛名に 忘れまじ
〈茨城県歌「凱歌の人生」〉
一、おお寒風に 梅の香を
君も友どち 耐え勝ちぬ
いざや歌わん 茨城の
凱歌の人生 創らんや
凱歌の人生 輝けり
二、真赤な太陽 わが胸に
苦楽の旅に 諸天舞え
ああ常楽に 坂あるも
共に肩くみ 友の列
共に肩くみ 幸の列
三、君よ辛くも いつの日か
広宣流布の 金の風
歓喜の凱歌の 勝ちどきを
天空までも 叫ばんや
ああ茨城は 勇者あり
団結は生まれない。
一人を支え抜くことだ。
幸せを祈りぬくことだ。
広布の指導者ならば!
国府尼御前御書 P1324
『釈尊ほどの仏を三業相応して一中劫が間ねんごろに供養し奉るよりも末代悪世の世に法華経の行者を供養せん功徳はすぐれたりととかれて候、まことしからぬ事にては候へども仏の金言にて候へば疑うべきにあらず』
【通解】
釈尊ほどの仏を、身口意の三業をもって、一中劫の間、心をこめて供養するよりも、末代悪世の時代に、法華経の行者を供養する功徳の方が勝れていると説かれているのである。真実とは思えぬことではあるが、仏の金言であるから疑うべきでない。
〈寸鉄〉 2018年9月15日
衆生の「心清ければ土も清し」御書。環境をも変えるのが信心。一念定めよ
東北婦人部の日。地域で輝く福光の太陽よ。不撓不屈の前進に皆が大拍手
副役職の友が光る組織は強し。さあ幹部と心一つに「励まし週間」に総力!
ドクター部の日。「生命尊厳」を掲げる先頭走者。同苦の心で信頼の灯台に
交通死亡事故、日没後の1時間に多発。昼・夜間の3倍超。互いに声掛けを
☆歌声高く 第18回 凱歌の人生/誓いの友/広布の鐘
◇広布の新時代は北関東から!
夏の暑さが盛りを過ぎ、秋の気配が近づくと、北関東の同志の心は、むしろ、一段と熱を帯びてくる。
池田先生が茨城、群馬、栃木の3県に、相次いで県歌を贈った記念の日を迎えるからだ。1978年(昭和53年)のことである。
茨城県歌「凱歌の人生」の歌詞が発表されたのは、10月21日、東京で行われた本部幹部会の席上だった。その歌詞には、池田先生の「"すべてに勝利の茨城であれ!"との、強い、強い、期待が込められていた」(小説『新・人間革命』「常楽」の章)。
第1次宗門事件の渦中である。けなげな学会の同志を守るため、間断なき激闘のさなかにあった先生は、ペンを執り続けた。
11月2日、「栃木の日」記念総会を翌日に控えていた県の幹部のもとに、「県歌ができたよ」との先生の伝言が劇的に届く。
総会当日、会場に県歌「誓いの友」の歌声が響きわたった。池田先生が恩師・戸田城聖先生の戦後初の地方指導に思いをはせて命名した「戸田合唱団」の友も躍動した。
同月21日には、群馬センター(当時)で協議会を行っていた県幹部に、群馬県歌「広布の鐘」の完成が伝えられた。さらに、「歌は時代を変えていく。群馬の同志が、この歌を声高らかに歌いながら、大きく成長して、新しい時代を築かれることを楽しみにしています」との先生の万感こもる伝言も——。
11月23日、東京・信濃町の創価文化会館(当時)で第1回「関東支部長会」が行われた。開会に先立ち、各県のメンバーが県歌を合唱する姿は、さながら"広布の歌合戦"のよう。「皆が、二十一世紀の峰をめざす決意を託しての合唱であった」(小説『新・人間革命』「力走」の章)
そして今、「直通の茨城」「人材の王国・群馬」「広布源流の栃木」には、堂々たる人材の城が築かれた。
各県の同志は本年6月、県歌誕生40周年を記念する関東総会(本部幹部会)を見事な弘教拡大で勝ち飾り、広宣流布大誓堂完成5周年の秋へとひた走る。師と共に、歌声も高らかに!
MEMO
茨城県歌「凱歌の人生」と栃木県歌「誓いの友」は小説『新・人間革命』第29巻「常楽」の章に、群馬県歌「広布の鐘」は同巻「力走」の章に、それぞれ発表の模様が記されている。
SOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)では、3県の歌のコーラス入り映像を配信。VODが利用できる会館等のほか、「SOKAチャンネル モバイルSTB」で視聴できる。
〈栃木県歌「誓いの友」〉
一、ああ高原の 郷土に
立ちて誓わん わが友と
三世の道は ここにあり
栃木の凱歌に 幸の河
二、あの日誓いし 荘厳の
語りし歴史 つづらんと
ああ幾山河 凜々しくも
栃木の勝利に 涙あり
三、栃木の友は 恐れなし
広布の歩調は 朗らかに
いざいざ進まん 慈悲の剣
栃木の旗に 集い寄れ
君との誓い 忘れまじ
〈群馬県歌「広布の鐘」〉
一、我等を守り 見つめたる
赤城の風は 妙法と
群馬の天地に 幸薫れ
さあ肩くみて 友よ起て
二、あふるる文化の 上毛に
今再びの 広宣の
この世の夢か 楽土をば
さあ築きゆけ 鐘鳴らせ
三、ロマンの歴史 満々と
群馬の足跡 朗らかに
仰げば天に 虹光り
ああ我等の誓い 忘れまじ
利根と榛名に 忘れまじ
〈茨城県歌「凱歌の人生」〉
一、おお寒風に 梅の香を
君も友どち 耐え勝ちぬ
いざや歌わん 茨城の
凱歌の人生 創らんや
凱歌の人生 輝けり
二、真赤な太陽 わが胸に
苦楽の旅に 諸天舞え
ああ常楽に 坂あるも
共に肩くみ 友の列
共に肩くみ 幸の列
三、君よ辛くも いつの日か
広宣流布の 金の風
歓喜の凱歌の 勝ちどきを
天空までも 叫ばんや
ああ茨城は 勇者あり
2018年9月14日金曜日
2018.09.14 わが友に贈る
季節の変わり目。
体調管理を万全に!
夏の疲れも出る頃だ。
勤行・唱題を根本に
生き生きと前進しよう!
富木尼御前御返事 P976
『我れ等は仏に疑いなしとをぼせばなにのなげきか有るべき、きさきになりてもなにかせん天に生れてもようしなし、竜女があとをつぎ摩訶波舎波堤比丘尼のれちにつらなるべし、あらうれしあらうれし』
【通解】
私たちは必ず仏になると思えば、何の嘆きがあろうか。たとえ妃になっても何になろう。天上界に生まれても何の意味があろう。我らは(女人成仏の道を開いた)竜女の跡を継ぎ、(釈尊の最初の女性の弟子である)魔訶波舎波提比丘尼の列に並ぶことができるのである。何と嬉しいことであろうか。
〈寸鉄〉 2018年9月14日
学会員の振舞は法華経の精神を体現—韓国識者。今日も目前の一人のため
東京・北区の日。信頼と友情広げる前進今こそ。「創価の北極星」と輝け!
精神は鍛錬なしには堕落する—偉人。青年よ行学に励め。幸福の土台築け
外出しない高齢男性は低栄養の傾向。地域に尽くす多宝会は健康世紀の鑑
待機児童が4年ぶり減少と。公明の尽力。子育てしやすい社会へ対策さらに
☆池田華陽会御書30編に学ぶ 観心本尊抄(下) 2018年9月8日
◇地涌の菩薩の自覚で広宣流布へ
◇対話で目の前の一人の生命を変革
今月は、「観心本尊抄」の後半を学びます。
池田先生は、つづられました。
「人間革命の根本は、地涌の生命の自覚にあります。その本質は師弟不二の行動です。その自覚と誇りを持つところに、地涌の底力が滾々と湧くのです」
広布と人生の"黄金の日記文書"を、つづりゆく今。地涌の菩薩の使命と振る舞いについて学び、広布拡大に前進していきましょう。(拝読範囲は、御書247ページ9行目〜本抄末尾です)
◇本抄について
本抄は、文永10年(1273年)4月25日、日蓮大聖人が52歳の時、佐渡流罪中に一谷で認められ、門下の富木常忍に与えられた重書です。
この前年2月、大聖人は佐渡の地から門下一同に宛てて「開目抄」を送られています。大聖人御自身が末法の御本仏であることを示された重書が「開目抄」であるのに対し、本抄は、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の御本尊について明かされています。
本抄は、前半で「観心」について、後半で「本尊」について述べられます。
◇御文
『地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり寂滅道場に来らず雙林最後にも訪わず不孝の失之れ有り迹門の十四品にも来らず本門の六品には座を立つ但八品の間に来還せり、是くの如き高貴の大菩薩・三仏に約束して之を受持す末法の初に出で給わざる可きか、当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す』(御書253ページ17行目〜254ページ2行目)
◇通解
地涌千界の菩薩たちは教主釈尊の五百塵点劫の初発心の弟子である。にもかかわらず、釈尊が成道した寂滅道場にも来なかったし、釈尊が沙羅双樹の林で入滅した時にも訪れていない。これは不孝の失ではないか。
また、法華経の会座では、迹門の14品にも来なかったし、本門においても、薬王品第23以降の6品になると座を立ってしまった。ただ涌出品第15から嘱累品第22までの8品の間だけ、帰ってきたのである。
このような高貴な大菩薩が、釈迦仏、多宝仏、十方の分身諸仏という三仏に対して末法弘通を約束して、妙法蓮華経の五字を受持したのである。どうして末法の初めに出現されないことがあるだろうか。
まさに知るべきである。この地涌の菩薩の指導者である四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王となって愚王を責め誡め、摂受を行ずる時は僧と成って正法を持ち広めるのである。
◇解説
掲げた御文では、地涌の菩薩の意義について述べられています。
地涌の菩薩は、法華経従地涌出品第15において大地から湧き出た、釈尊滅後の末法の広宣流布の使命を託された菩薩です。この地涌の菩薩は、釈尊が久遠の昔から教化してきた弟子にほかなりません。
地涌の菩薩は、法華経の説法の場において、涌出品第15から嘱累品第22までの本門の8品の間にのみ現れました。
地涌の菩薩はこの8品で、釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏に末法における広宣流布を誓い、妙法蓮華経の五字を受持しました。その目的は、末法の衆生を救うためです。
ゆえに、日蓮大聖人は、この高貴な地涌の菩薩たちが、末法の時に出現しないはずがないと述べられます。
そして、続く御文では、地涌の菩薩の指導者である四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩)が末法に出現する時に、どのように振る舞うかについて示されています。
すなわち、"折伏を実践する時は賢王となって愚王を責め、摂受を行ずる時は僧となって正法を持ち広める"と仰せです。
現代でいえば、現実社会のなかで困難と戦いながら友の幸福を祈り、対話を広げている私たち学会員の実践こそが、"賢王となって愚王を責める"地涌の菩薩の折伏の振る舞いにほかなりません。
また、"僧となって正法を持ち広める"とは、法の正邪を明らかにし正法を説き明かしていくことをいい、これは、南無妙法蓮華経の大法によって末法広宣流布の道を開かれた大聖人御自身の実践を示されていると拝されます。
池田先生は、この御文について、「末法の広宣流布とは、現実社会に生きる目覚めた民衆自身が、民衆の海の中で、目の前の一人の民衆の生命変革に挑んでいく以外にないとの大宣言であると拝されます」と述べています。
広宣流布大誓堂完成5周年の「11・18」へ。師匠の心と行動を受け継ぎ、報恩の対話拡大に前進し、地涌の使命を果たし抜いていきましょう!
★池田先生の講義から
一番大変な、一番つらい時に衆生を救っていくのが、地涌の菩薩であり、創価の同志は、まさしく地涌の勇者です。自身の苦悩や困難と戦いながら、広宣流布の使命に生き抜き、人間革命して、悩みに負けない堂々たる自分自身を築き上げ、社会に貢献してきたのです。
大聖人が「地涌の義」(御書1360ページ)と言われた通りに、今日、あの国にも、この地にも、「広宣流布は私たちの手で!」と誓う同志が誕生しています。広布の使命と誓願を共有する友が、世界中で連帯を広げています。(2017年10月号「大白蓮華」に掲載の「世界を照らす太陽の仏法」)
◇ ◆ ◇
世界では、ますます「創価の人間主義」への期待が高まっています。地涌の青年の凜々しい瞳、地涌の乙女の太陽の笑顔が、時代変革の希望として輝きを放っています。まさに至る所の国土に、地涌の青年勇者が「同時に涌出せり」(法華経452ページ)との新たな慈折広宣流布の展開が始まりました。(同)
研さんのために
○…2017年9・10月号「大白蓮華」掲載の「世界を照らす太陽の仏法」〈民衆仏法〉上下(聖教新聞社)
○…『御書の世界』第2巻所収の「御本尊」上中下(同)
体調管理を万全に!
夏の疲れも出る頃だ。
勤行・唱題を根本に
生き生きと前進しよう!
富木尼御前御返事 P976
『我れ等は仏に疑いなしとをぼせばなにのなげきか有るべき、きさきになりてもなにかせん天に生れてもようしなし、竜女があとをつぎ摩訶波舎波堤比丘尼のれちにつらなるべし、あらうれしあらうれし』
【通解】
私たちは必ず仏になると思えば、何の嘆きがあろうか。たとえ妃になっても何になろう。天上界に生まれても何の意味があろう。我らは(女人成仏の道を開いた)竜女の跡を継ぎ、(釈尊の最初の女性の弟子である)魔訶波舎波提比丘尼の列に並ぶことができるのである。何と嬉しいことであろうか。
〈寸鉄〉 2018年9月14日
学会員の振舞は法華経の精神を体現—韓国識者。今日も目前の一人のため
東京・北区の日。信頼と友情広げる前進今こそ。「創価の北極星」と輝け!
精神は鍛錬なしには堕落する—偉人。青年よ行学に励め。幸福の土台築け
外出しない高齢男性は低栄養の傾向。地域に尽くす多宝会は健康世紀の鑑
待機児童が4年ぶり減少と。公明の尽力。子育てしやすい社会へ対策さらに
☆池田華陽会御書30編に学ぶ 観心本尊抄(下) 2018年9月8日
◇地涌の菩薩の自覚で広宣流布へ
◇対話で目の前の一人の生命を変革
今月は、「観心本尊抄」の後半を学びます。
池田先生は、つづられました。
「人間革命の根本は、地涌の生命の自覚にあります。その本質は師弟不二の行動です。その自覚と誇りを持つところに、地涌の底力が滾々と湧くのです」
広布と人生の"黄金の日記文書"を、つづりゆく今。地涌の菩薩の使命と振る舞いについて学び、広布拡大に前進していきましょう。(拝読範囲は、御書247ページ9行目〜本抄末尾です)
◇本抄について
本抄は、文永10年(1273年)4月25日、日蓮大聖人が52歳の時、佐渡流罪中に一谷で認められ、門下の富木常忍に与えられた重書です。
この前年2月、大聖人は佐渡の地から門下一同に宛てて「開目抄」を送られています。大聖人御自身が末法の御本仏であることを示された重書が「開目抄」であるのに対し、本抄は、末法の衆生が成仏のために受持すべき南無妙法蓮華経の御本尊について明かされています。
本抄は、前半で「観心」について、後半で「本尊」について述べられます。
◇御文
『地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子なり寂滅道場に来らず雙林最後にも訪わず不孝の失之れ有り迹門の十四品にも来らず本門の六品には座を立つ但八品の間に来還せり、是くの如き高貴の大菩薩・三仏に約束して之を受持す末法の初に出で給わざる可きか、当に知るべし此の四菩薩折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す』(御書253ページ17行目〜254ページ2行目)
◇通解
地涌千界の菩薩たちは教主釈尊の五百塵点劫の初発心の弟子である。にもかかわらず、釈尊が成道した寂滅道場にも来なかったし、釈尊が沙羅双樹の林で入滅した時にも訪れていない。これは不孝の失ではないか。
また、法華経の会座では、迹門の14品にも来なかったし、本門においても、薬王品第23以降の6品になると座を立ってしまった。ただ涌出品第15から嘱累品第22までの8品の間だけ、帰ってきたのである。
このような高貴な大菩薩が、釈迦仏、多宝仏、十方の分身諸仏という三仏に対して末法弘通を約束して、妙法蓮華経の五字を受持したのである。どうして末法の初めに出現されないことがあるだろうか。
まさに知るべきである。この地涌の菩薩の指導者である四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王となって愚王を責め誡め、摂受を行ずる時は僧と成って正法を持ち広めるのである。
◇解説
掲げた御文では、地涌の菩薩の意義について述べられています。
地涌の菩薩は、法華経従地涌出品第15において大地から湧き出た、釈尊滅後の末法の広宣流布の使命を託された菩薩です。この地涌の菩薩は、釈尊が久遠の昔から教化してきた弟子にほかなりません。
地涌の菩薩は、法華経の説法の場において、涌出品第15から嘱累品第22までの本門の8品の間にのみ現れました。
地涌の菩薩はこの8品で、釈迦仏、多宝仏、十方の諸仏に末法における広宣流布を誓い、妙法蓮華経の五字を受持しました。その目的は、末法の衆生を救うためです。
ゆえに、日蓮大聖人は、この高貴な地涌の菩薩たちが、末法の時に出現しないはずがないと述べられます。
そして、続く御文では、地涌の菩薩の指導者である四菩薩(上行・無辺行・浄行・安立行の四大菩薩)が末法に出現する時に、どのように振る舞うかについて示されています。
すなわち、"折伏を実践する時は賢王となって愚王を責め、摂受を行ずる時は僧となって正法を持ち広める"と仰せです。
現代でいえば、現実社会のなかで困難と戦いながら友の幸福を祈り、対話を広げている私たち学会員の実践こそが、"賢王となって愚王を責める"地涌の菩薩の折伏の振る舞いにほかなりません。
また、"僧となって正法を持ち広める"とは、法の正邪を明らかにし正法を説き明かしていくことをいい、これは、南無妙法蓮華経の大法によって末法広宣流布の道を開かれた大聖人御自身の実践を示されていると拝されます。
池田先生は、この御文について、「末法の広宣流布とは、現実社会に生きる目覚めた民衆自身が、民衆の海の中で、目の前の一人の民衆の生命変革に挑んでいく以外にないとの大宣言であると拝されます」と述べています。
広宣流布大誓堂完成5周年の「11・18」へ。師匠の心と行動を受け継ぎ、報恩の対話拡大に前進し、地涌の使命を果たし抜いていきましょう!
★池田先生の講義から
一番大変な、一番つらい時に衆生を救っていくのが、地涌の菩薩であり、創価の同志は、まさしく地涌の勇者です。自身の苦悩や困難と戦いながら、広宣流布の使命に生き抜き、人間革命して、悩みに負けない堂々たる自分自身を築き上げ、社会に貢献してきたのです。
大聖人が「地涌の義」(御書1360ページ)と言われた通りに、今日、あの国にも、この地にも、「広宣流布は私たちの手で!」と誓う同志が誕生しています。広布の使命と誓願を共有する友が、世界中で連帯を広げています。(2017年10月号「大白蓮華」に掲載の「世界を照らす太陽の仏法」)
◇ ◆ ◇
世界では、ますます「創価の人間主義」への期待が高まっています。地涌の青年の凜々しい瞳、地涌の乙女の太陽の笑顔が、時代変革の希望として輝きを放っています。まさに至る所の国土に、地涌の青年勇者が「同時に涌出せり」(法華経452ページ)との新たな慈折広宣流布の展開が始まりました。(同)
研さんのために
○…2017年9・10月号「大白蓮華」掲載の「世界を照らす太陽の仏法」〈民衆仏法〉上下(聖教新聞社)
○…『御書の世界』第2巻所収の「御本尊」上中下(同)
2018.09.13 わが友に贈る
「はたらかさず・
つくろわず・もとの儘」
気取らず 飾らず
清らかな信心を貫こう!
そこに無冠の力が湧く!
法蓮抄 P1045
『信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り足なくして千里の道を企つるが如し』
【通解】
信がなくてもこの経を行ずることは、手がなくして宝山に入り、足がなくて千里の道を歩こうとするようなものである。
〈寸鉄〉 2018年9月13日
御書を拝して境涯を開くのだ—恩師。青春時代に揺るがぬ人生の原点築け
東京・府中の日。勇気を漲らせ対話に先駆!共戦の師子吼で拡大即栄光へ
正法を持つ人は「一人もかけず仏に成る」御書。大確信で同志に励ましを
地震や台風後の義援金・修繕等、便乗詐欺に警戒。冷静に確認・相談・通報
子供のネット問題防止の鍵は小まめな話し合い—専門家。親子で賢く活用
☆世界に魂を 心に翼を 第7回 人間に歌あり(下)
◇生きる誇りを呼び覚ます
東北3県(岩手、宮城、福島)の小・中学校などで開かれてきた「東北希望コンサート」。本年7月、70回の節目を迎えた。
2011年3月11日の東日本大震災では、民音東北センターのスタッフが、民音の活動を支える民音推進委員の安否確認に車を走らせた。
広大な沿岸部を、道路の寸断や冠水を避けつつ避難所から避難所へ。齋藤潤一さん(民音東北総センター長)は「昼間なのに街が静まりかえって、夜は真っ暗。色も音もないように感じました。想像を絶する被害に言葉を失いました」と回想する。
宮城・塩釜の婦人は自営の事務所を津波で失っていた。「コンサートのチケットも流されて」とうつむく姿に、齋藤さんは「いつか必ず、希望の音楽を届けます」と誓った。
同センター長の竹中栄雄さんは、石巻の避難所に泊まり込み、救援活動に力を注いだ。
津波で家を流され、娘と義母を亡くした婦人がいた。ぽつりと漏らした一言に胸を突かれた。
「民音、早く始まらないかな。前に進むには音楽が必要だから——」
石巻では、市民会館を中心に多彩な民音公演が開かれてきた。
震災後は全国的に自粛ムードが広がり、音楽イベントが次々と中止に。テレビでも音楽番組は放映されず、公共広告のCMが繰り返し流れた。
民音公演も、再開のめどが立たなかった。
◇ ◆ ◇
震災から3週間。学会の東北音楽隊の有志が、石巻の避難所で演奏会を開いた。
マーチ「ライヴリー アヴェニュー」に「情熱大陸」。久々の"生の音楽"に、子どもたちが手拍子でリズムを取る。後ろで遠巻きに眺めていた人も次第に前へ集まってきた。
演奏後も拍手がやまず、あるお年寄りは、曲がった背中をさらに曲げて「ありがとう」と。「もう一度頑張ってみる」と涙ぐむ人もいた。
演奏者自身も被災している。楽器を取りに帰ろうとしたが、浸水で家に近づけない。数日前に家族の遺体が見つかった人もいた。
この場で見守っていた竹中さん。「掛ける言葉すらない中で、音楽に心をぐいっと持ち上げられたかのようでした」と振り返る。
「震災以来、久しぶりに音楽を聴いた気がしました。音楽を耳にしてはいたはずですが、"伝えようとする人"がいて、初めて音楽が心を動かしたのかもしれません」
皆で相談し、未来をつくる子どもたちに音楽を贈ろうと決めた。
◇ ◆ ◇
津波に耐えて残った岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」。そのすぐそばに校舎があった気仙中学校で、2012年5月、初の東北希望コンサートが行われた。
同校の校舎は、津波で3階建ての屋上まで水没し、生徒は仮設住宅から仮校舎に通学していた。
出演したのは、アカペラバンドのINSPi。
前夜、茨城での公演を終え、最終電車で岩手へ。"一番喜んでもらえる歌は何か"と選曲し、アカペラでアレンジした気仙中学校の校歌を歌うことに。深夜まで声を合わせた。
コンサートの終盤、生徒の代表があいさつに立った。
「津波で校舎はなくなりました。でも仮校舎で過ごす日々の中で、いつも気仙中生としての誇りを呼び覚ましてくれたのが校歌でした」
「皆さんに私たちの思いが届くように、一生懸命に歌います」
コンサートの返礼にと、生徒も歌の練習を重ねていた。生徒が選んだ一曲もまた、校歌だった。
民音のスタッフは振り返る。
「歌が誇りを呼び覚ます——思いがけない言葉でした。歌はどんな時も無力ではない。音楽の力を信じることを教えてもらいました」
以来、校歌を一緒に歌うことが、コンサートの恒例となった。
東北希望コンサートはIBC岩手放送、東北放送、ラジオ福島、TBSラジオ、民音の共同主催。子どもたちの歌声に乗せて、被災地の今をラジオ番組等で発信してきた。
◇ ◆ ◇
民音創立者の池田先生は、折々に歌の力に言及している。
"声は生きている。生きているから、他の生命を揺さぶることができる。声に込めた思いは、「耳」という「魂への門」から入り、心の中から何かを引き出して、身体をも動かす。「歌う」ことは「うったう(訴える)」ことである。天に訴えれば祈りとなり、人に訴えれば心の橋となり、癒やしとなる"
池田先生の民音設立の着想にも、歌のドラマがあった。
先生は、ビルマ(現在のミャンマー)で戦死した長兄のことを考えるたびに、竹山道雄の小説『ビルマの竪琴』を思い浮かべた。
作中で、終戦を知らずに敗走する日本軍が、イギリス軍に包囲される場面がある。日本兵は「庭の千草」や「埴生の宿」を口ずさみながら、爆薬を積んだ荷車を運んでいた。
そこにイギリス兵が歌う「庭の千草」「埴生の宿」が聞こえてきた。歌は英語だが曲は同じ。どちらもイギリスで古くから愛唱されていた歌に、日本語の歌詞を付けたものである。特に「埴生の宿」は、イギリス人にとって、幼い頃の家族や故郷の思い出と共にある大切な曲だった。
両軍の兵士はいつの間にか声を合わせて歌っていた。手を握り、互いの家族の写真を見せ合った。日本兵は、そこで3日前に戦争が終わったことを知った。歌が心をつなぎ、無駄な血を流さずにすんだのである。
「音楽や芸術には、国家の壁はない。それは民族の固有性をもちながらも、普遍的な共感の広がりをもっている」
——57年前の2月、ビルマなどアジア諸国を巡る平和旅の中で、先生は国境を超えた文化交流を提案。それが民音設立の淵源となった。
◇ ◆ ◇
遠い町の人たちにも、人生で一度は本物のプッチーニ、ヴェルディというオペラの真髄を聴いていただきたい。そんな長年の夢が、民音のおかげでかないました——。
そう話すのは、佐藤しのぶ氏。日本が誇るオペラ歌手である。
音楽は、医療のように命を救うことはできないかもしれない。だが、心は救える。それは、あらゆる人に歌を届ける中で得た確信でもある。
バングラデシュのストリート・チルドレンと触れ合った折、幼子を膝の上に乗せ、子守歌を歌った。
「また来るね」と言うと、幼子は「私が生きてるうちに来て」と。
「どこの子どもたちも親に愛されたい。母親に抱き締められ、子守歌を歌ってもらって眠るのが一番安心するんです」と述懐する。
昨年11月、東北希望コンサートに出演するため、佐藤氏は岩手県北部にある久慈市の小学校へ。全校生徒数は23人(当時)である。
「人数を知って"ますます行きたい"と思いました。子どもたち一人一人と心が通う場を持たせていただけることが、何よりの喜びでした」
東北希望コンサートへの出演は、2013年の石巻に続いて2回目。
児童との距離は、ほんの1、2メートルほど。ピアニストのキハラ良尚氏の伴奏で「花は咲く」など10曲を披露し、共に校歌を響かせた。
佐藤氏は語っている。
「民音が、ニュースで報じられないような所で文化交流に取り組み、世界の平和を促進してきたことを、ひしひしと感じております。私は、創立者の思想と全く同じ思いで平和への祈りを込めて歌ってきました。これからも同じ心で歌い続けます」
これまで44の市区町村で開かれた東北希望コンサート。各界のアーティストが、約1万4000人の子どもたちと歌声を紡いできた。
歌が人を励まし、歌が人を結ぶ。
どんな時も歌と共に——民音が広げてきた平和への願いである。
つくろわず・もとの儘」
気取らず 飾らず
清らかな信心を貫こう!
そこに無冠の力が湧く!
法蓮抄 P1045
『信なくして此の経を行ぜんは手なくして宝山に入り足なくして千里の道を企つるが如し』
【通解】
信がなくてもこの経を行ずることは、手がなくして宝山に入り、足がなくて千里の道を歩こうとするようなものである。
〈寸鉄〉 2018年9月13日
御書を拝して境涯を開くのだ—恩師。青春時代に揺るがぬ人生の原点築け
東京・府中の日。勇気を漲らせ対話に先駆!共戦の師子吼で拡大即栄光へ
正法を持つ人は「一人もかけず仏に成る」御書。大確信で同志に励ましを
地震や台風後の義援金・修繕等、便乗詐欺に警戒。冷静に確認・相談・通報
子供のネット問題防止の鍵は小まめな話し合い—専門家。親子で賢く活用
☆世界に魂を 心に翼を 第7回 人間に歌あり(下)
◇生きる誇りを呼び覚ます
東北3県(岩手、宮城、福島)の小・中学校などで開かれてきた「東北希望コンサート」。本年7月、70回の節目を迎えた。
2011年3月11日の東日本大震災では、民音東北センターのスタッフが、民音の活動を支える民音推進委員の安否確認に車を走らせた。
広大な沿岸部を、道路の寸断や冠水を避けつつ避難所から避難所へ。齋藤潤一さん(民音東北総センター長)は「昼間なのに街が静まりかえって、夜は真っ暗。色も音もないように感じました。想像を絶する被害に言葉を失いました」と回想する。
宮城・塩釜の婦人は自営の事務所を津波で失っていた。「コンサートのチケットも流されて」とうつむく姿に、齋藤さんは「いつか必ず、希望の音楽を届けます」と誓った。
同センター長の竹中栄雄さんは、石巻の避難所に泊まり込み、救援活動に力を注いだ。
津波で家を流され、娘と義母を亡くした婦人がいた。ぽつりと漏らした一言に胸を突かれた。
「民音、早く始まらないかな。前に進むには音楽が必要だから——」
石巻では、市民会館を中心に多彩な民音公演が開かれてきた。
震災後は全国的に自粛ムードが広がり、音楽イベントが次々と中止に。テレビでも音楽番組は放映されず、公共広告のCMが繰り返し流れた。
民音公演も、再開のめどが立たなかった。
◇ ◆ ◇
震災から3週間。学会の東北音楽隊の有志が、石巻の避難所で演奏会を開いた。
マーチ「ライヴリー アヴェニュー」に「情熱大陸」。久々の"生の音楽"に、子どもたちが手拍子でリズムを取る。後ろで遠巻きに眺めていた人も次第に前へ集まってきた。
演奏後も拍手がやまず、あるお年寄りは、曲がった背中をさらに曲げて「ありがとう」と。「もう一度頑張ってみる」と涙ぐむ人もいた。
演奏者自身も被災している。楽器を取りに帰ろうとしたが、浸水で家に近づけない。数日前に家族の遺体が見つかった人もいた。
この場で見守っていた竹中さん。「掛ける言葉すらない中で、音楽に心をぐいっと持ち上げられたかのようでした」と振り返る。
「震災以来、久しぶりに音楽を聴いた気がしました。音楽を耳にしてはいたはずですが、"伝えようとする人"がいて、初めて音楽が心を動かしたのかもしれません」
皆で相談し、未来をつくる子どもたちに音楽を贈ろうと決めた。
◇ ◆ ◇
津波に耐えて残った岩手県陸前高田市の「奇跡の一本松」。そのすぐそばに校舎があった気仙中学校で、2012年5月、初の東北希望コンサートが行われた。
同校の校舎は、津波で3階建ての屋上まで水没し、生徒は仮設住宅から仮校舎に通学していた。
出演したのは、アカペラバンドのINSPi。
前夜、茨城での公演を終え、最終電車で岩手へ。"一番喜んでもらえる歌は何か"と選曲し、アカペラでアレンジした気仙中学校の校歌を歌うことに。深夜まで声を合わせた。
コンサートの終盤、生徒の代表があいさつに立った。
「津波で校舎はなくなりました。でも仮校舎で過ごす日々の中で、いつも気仙中生としての誇りを呼び覚ましてくれたのが校歌でした」
「皆さんに私たちの思いが届くように、一生懸命に歌います」
コンサートの返礼にと、生徒も歌の練習を重ねていた。生徒が選んだ一曲もまた、校歌だった。
民音のスタッフは振り返る。
「歌が誇りを呼び覚ます——思いがけない言葉でした。歌はどんな時も無力ではない。音楽の力を信じることを教えてもらいました」
以来、校歌を一緒に歌うことが、コンサートの恒例となった。
東北希望コンサートはIBC岩手放送、東北放送、ラジオ福島、TBSラジオ、民音の共同主催。子どもたちの歌声に乗せて、被災地の今をラジオ番組等で発信してきた。
◇ ◆ ◇
民音創立者の池田先生は、折々に歌の力に言及している。
"声は生きている。生きているから、他の生命を揺さぶることができる。声に込めた思いは、「耳」という「魂への門」から入り、心の中から何かを引き出して、身体をも動かす。「歌う」ことは「うったう(訴える)」ことである。天に訴えれば祈りとなり、人に訴えれば心の橋となり、癒やしとなる"
池田先生の民音設立の着想にも、歌のドラマがあった。
先生は、ビルマ(現在のミャンマー)で戦死した長兄のことを考えるたびに、竹山道雄の小説『ビルマの竪琴』を思い浮かべた。
作中で、終戦を知らずに敗走する日本軍が、イギリス軍に包囲される場面がある。日本兵は「庭の千草」や「埴生の宿」を口ずさみながら、爆薬を積んだ荷車を運んでいた。
そこにイギリス兵が歌う「庭の千草」「埴生の宿」が聞こえてきた。歌は英語だが曲は同じ。どちらもイギリスで古くから愛唱されていた歌に、日本語の歌詞を付けたものである。特に「埴生の宿」は、イギリス人にとって、幼い頃の家族や故郷の思い出と共にある大切な曲だった。
両軍の兵士はいつの間にか声を合わせて歌っていた。手を握り、互いの家族の写真を見せ合った。日本兵は、そこで3日前に戦争が終わったことを知った。歌が心をつなぎ、無駄な血を流さずにすんだのである。
「音楽や芸術には、国家の壁はない。それは民族の固有性をもちながらも、普遍的な共感の広がりをもっている」
——57年前の2月、ビルマなどアジア諸国を巡る平和旅の中で、先生は国境を超えた文化交流を提案。それが民音設立の淵源となった。
◇ ◆ ◇
遠い町の人たちにも、人生で一度は本物のプッチーニ、ヴェルディというオペラの真髄を聴いていただきたい。そんな長年の夢が、民音のおかげでかないました——。
そう話すのは、佐藤しのぶ氏。日本が誇るオペラ歌手である。
音楽は、医療のように命を救うことはできないかもしれない。だが、心は救える。それは、あらゆる人に歌を届ける中で得た確信でもある。
バングラデシュのストリート・チルドレンと触れ合った折、幼子を膝の上に乗せ、子守歌を歌った。
「また来るね」と言うと、幼子は「私が生きてるうちに来て」と。
「どこの子どもたちも親に愛されたい。母親に抱き締められ、子守歌を歌ってもらって眠るのが一番安心するんです」と述懐する。
昨年11月、東北希望コンサートに出演するため、佐藤氏は岩手県北部にある久慈市の小学校へ。全校生徒数は23人(当時)である。
「人数を知って"ますます行きたい"と思いました。子どもたち一人一人と心が通う場を持たせていただけることが、何よりの喜びでした」
東北希望コンサートへの出演は、2013年の石巻に続いて2回目。
児童との距離は、ほんの1、2メートルほど。ピアニストのキハラ良尚氏の伴奏で「花は咲く」など10曲を披露し、共に校歌を響かせた。
佐藤氏は語っている。
「民音が、ニュースで報じられないような所で文化交流に取り組み、世界の平和を促進してきたことを、ひしひしと感じております。私は、創立者の思想と全く同じ思いで平和への祈りを込めて歌ってきました。これからも同じ心で歌い続けます」
これまで44の市区町村で開かれた東北希望コンサート。各界のアーティストが、約1万4000人の子どもたちと歌声を紡いできた。
歌が人を励まし、歌が人を結ぶ。
どんな時も歌と共に——民音が広げてきた平和への願いである。
2018年9月12日水曜日
2018.09.12 わが友に贈る
一対一の触発が
友の心を奮い立たせる。
リーダーが率先して
体験と確信を伝えよう!
さあ励ましの最前線へ!
四条金吾殿御返事 P1165
『長き夜のあけとをき道をかへりたるがごとし』
【通解】
長い夜が明け、遠い道のりを歩いて、帰り着いたようである。
〈寸鉄〉 2018年9月12日
『新・人間革命』の行間に千数百万の庶民の人生が—識者。我が新章節綴れ
難を受け世界広布を実現した創価三代こそ大聖人の正統。竜の口法難の日
「埼玉の日」45周年。地涌の我らに恐るる心なし!さあ鉄桶の団結で拡大を
人は成長す。故に祈りも変化せねばならぬ—文豪自他の幸祈り境涯を開け
過去の記録に基づく災害予測は不能に—専門家。家庭での災害対策も刷新
☆世界写真紀行 第35回 ナイアガラの滝
◇前進! 弾ける生命で
圧倒的な水量と、大地を揺るがす轟音。雲のような水煙が絶え間なく舞い上がり、空には大きな虹が懸かる。"壮大な地球の営み"を眺めていると、時がたつのを忘れてしまう。
カナダとアメリカの国境にある「ナイアガラ瀑布」。南米のイグアス、アフリカのビクトリアと並ぶ世界三大瀑布の一つである。
カナダ滝・アメリカ滝・ブライダルベール滝の三つから成り、中でも、カナダ滝は落差50メートル以上、幅675メートルという規模。世界から年間約1500万人の観光客が訪れる。
ナイアガラの滝の水量は、毎秒200万リットルとも。「ニアガル(雷鳴の轟く水)」と先住民が呼んだのが、ナイアガラの語源といわれる。
約1万2000年前、氷河期が終わりに近づくと、膨大な氷が解けて川ができ、断層部にナイアガラの滝が現れた。もとは、現在の位置から11キロほど下流にあったとされる。激しい水の流れによって岸壁が削られ、少しずつ上流へ移動していった。今も年間3センチずつ、移動している。
池田先生は1960年10月11日、カナダを初訪問した。当時、同国に住むSGIメンバーはいない。トロントの空港で先生一行を迎えたのは、一人の未入会の女性だった。学会員である日本の母親から連絡を受け、親孝行のつもりで駆け付けたのである。
翌日、先生は同行のメンバーと共にナイアガラの滝へ。その時の様子が、小説『新・人間革命』第1巻「錦秋」の章に描かれている。
「空は抜けるような青空である。滝の彼方には、色とりどりの紅葉が広がっていた。そのなかを轟音を響かせ、純白の輝きを放って、水が躍り砕ける。そして、飛沫となって天に舞い、鮮やかな七彩の虹を浮かび上がらせていた。とどまることを知らぬ、豊かな水の流れは広布の前進を象徴しているようでもあった。そして、虹のきらめきは大いなる希望を表しているかのように、彼には感じられた」
そして、山本伸一は、同行の青年に深い思いを込めて語った。
「この滝にかかる虹も、一たび流れが途絶えれば、瞬時に消え失せてしまう。人生の希望の虹も、広布への躍動の前進があってこそ輝くものなんだよ。希望を捨てない人には、いかなる困難にも負けない強さがある」
81年6月、先生は再びカナダを訪問。トロントの空港では300人の同志が歓迎し、初訪問時に先生を迎えた女性は広布のリーダーに成長していた。カナダ広布は着実に前進していたのである。
6月24日、先生はトロント会館での勤行会に出席した後、同志と共にナイアガラの滝へ。同日、将来について悩んでいるという青年を温かく励まし、こう語った。
"ナイアガラの滝のような勢いで題目をあげるんだよ。勢いがないと、人生も行き詰まってしまうからね"
長い時を経てもなお、勢いよく流れ続けるナイアガラ。私たちも、滝のごとく、弾ける生命で自身の限界を打ち破っていきたい。
たゆまず前進し続ける。諦めず挑戦し続ける——その努力の中で、勝利の虹は輝く。
友の心を奮い立たせる。
リーダーが率先して
体験と確信を伝えよう!
さあ励ましの最前線へ!
四条金吾殿御返事 P1165
『長き夜のあけとをき道をかへりたるがごとし』
【通解】
長い夜が明け、遠い道のりを歩いて、帰り着いたようである。
〈寸鉄〉 2018年9月12日
『新・人間革命』の行間に千数百万の庶民の人生が—識者。我が新章節綴れ
難を受け世界広布を実現した創価三代こそ大聖人の正統。竜の口法難の日
「埼玉の日」45周年。地涌の我らに恐るる心なし!さあ鉄桶の団結で拡大を
人は成長す。故に祈りも変化せねばならぬ—文豪自他の幸祈り境涯を開け
過去の記録に基づく災害予測は不能に—専門家。家庭での災害対策も刷新
☆世界写真紀行 第35回 ナイアガラの滝
◇前進! 弾ける生命で
圧倒的な水量と、大地を揺るがす轟音。雲のような水煙が絶え間なく舞い上がり、空には大きな虹が懸かる。"壮大な地球の営み"を眺めていると、時がたつのを忘れてしまう。
カナダとアメリカの国境にある「ナイアガラ瀑布」。南米のイグアス、アフリカのビクトリアと並ぶ世界三大瀑布の一つである。
カナダ滝・アメリカ滝・ブライダルベール滝の三つから成り、中でも、カナダ滝は落差50メートル以上、幅675メートルという規模。世界から年間約1500万人の観光客が訪れる。
ナイアガラの滝の水量は、毎秒200万リットルとも。「ニアガル(雷鳴の轟く水)」と先住民が呼んだのが、ナイアガラの語源といわれる。
約1万2000年前、氷河期が終わりに近づくと、膨大な氷が解けて川ができ、断層部にナイアガラの滝が現れた。もとは、現在の位置から11キロほど下流にあったとされる。激しい水の流れによって岸壁が削られ、少しずつ上流へ移動していった。今も年間3センチずつ、移動している。
池田先生は1960年10月11日、カナダを初訪問した。当時、同国に住むSGIメンバーはいない。トロントの空港で先生一行を迎えたのは、一人の未入会の女性だった。学会員である日本の母親から連絡を受け、親孝行のつもりで駆け付けたのである。
翌日、先生は同行のメンバーと共にナイアガラの滝へ。その時の様子が、小説『新・人間革命』第1巻「錦秋」の章に描かれている。
「空は抜けるような青空である。滝の彼方には、色とりどりの紅葉が広がっていた。そのなかを轟音を響かせ、純白の輝きを放って、水が躍り砕ける。そして、飛沫となって天に舞い、鮮やかな七彩の虹を浮かび上がらせていた。とどまることを知らぬ、豊かな水の流れは広布の前進を象徴しているようでもあった。そして、虹のきらめきは大いなる希望を表しているかのように、彼には感じられた」
そして、山本伸一は、同行の青年に深い思いを込めて語った。
「この滝にかかる虹も、一たび流れが途絶えれば、瞬時に消え失せてしまう。人生の希望の虹も、広布への躍動の前進があってこそ輝くものなんだよ。希望を捨てない人には、いかなる困難にも負けない強さがある」
81年6月、先生は再びカナダを訪問。トロントの空港では300人の同志が歓迎し、初訪問時に先生を迎えた女性は広布のリーダーに成長していた。カナダ広布は着実に前進していたのである。
6月24日、先生はトロント会館での勤行会に出席した後、同志と共にナイアガラの滝へ。同日、将来について悩んでいるという青年を温かく励まし、こう語った。
"ナイアガラの滝のような勢いで題目をあげるんだよ。勢いがないと、人生も行き詰まってしまうからね"
長い時を経てもなお、勢いよく流れ続けるナイアガラ。私たちも、滝のごとく、弾ける生命で自身の限界を打ち破っていきたい。
たゆまず前進し続ける。諦めず挑戦し続ける——その努力の中で、勝利の虹は輝く。
2018年9月11日火曜日
2018.09.11 わが友に贈る
笑顔の人は強い。
その人が一人いれば
皆が明るく元気に!
周囲に希望を送りゆく
楽観主義の人たれ!
本尊供養御書 P1536
『法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず八熱地獄の大火にも焼けず』
【通解】
法華経を受持するならば、八寒地獄の水にもぬれることなく、また八熱地獄の大火にも焼けることはないのである。
〈寸鉄〉 2018年9月11日
御書「法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏に」。勇んで仏縁を拡大
広布は「一対一の語らい」から。友の心に信仰の喜びを!励まし週間に総力
青年教学1級へ高まる研鑽の息吹!行学の錬磨は人生の宝に。徹して学べ
他者と繋がりある人ほど心が折れないと。同志の絆を固く。苦難の時こそ
米同時テロから17年。民衆の力で暴力の連鎖根絶へ。草の根の対話さらに
☆歌声高く 第17回 三代城の歌(ああ共戦の歌)
◇北海天地に師弟の魂厳たり
「共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し」(御書734ページ)
池田先生は御義口伝のこの一節を通して、「『共』とは師弟不二であり、師弟勝利の大道なのだ」とつづった。師と弟子が心を一つにして広布に戦う「共戦」があるかどうか。「師弟の生命が共戦ならば、そこに『万人成仏』の法華経の魂が脈々と流れ通う」(「随筆 我らの勝利の大道」)と。
創価の三代の師弟を貫く共戦の魂が、とどめられた場所がある。
北の大地・北海道だ。
初代会長・牧口常三郎先生が蛍雪の青春を送り、第2代会長・戸田城聖先生が青雲の大志を育み、若き日の池田先生が札幌、小樽、夕張と正義の闘争を刻んだ舞台——その地に池田先生作詞の方面歌が誕生したのは40年前。1978年(昭和53年)の8月であった。
「『ああ共戦の歌』が完成」との見出しが、聖教新聞8月23日付1面の真ん中に力強く躍った。「恩師と共に 厳たりき」との歌詞に、北海道の同志の心も躍った。"何があろうと、我らは師と共に厳然たり!"という心意気が、この一節に凝縮されていたからだ。
第1次宗門事件の嵐が吹き荒れ、創価の師弟の絆を分断しようとする悪侶らが各地でうごめいていた時である。北海道においても、名寄などの同志が悪戦苦闘のさなかにあった。
さらに、池田先生の入信記念日である翌24日の本紙に、「ああ共戦の歌」の楽譜と歌詞が掲載されると、"共戦の決意"と歓喜の歌声は、北海天地を瞬く間に包んでいった。
当時、池田先生は、戸田先生のもとで戦った青春を振り返りながら、歌詞に込めた真情を北海道のリーダーに語っている。「"師匠が見ておられる。勝利を待ってくださっている"というのが、私の力の源泉だった。師弟共戦とは、弟子が戦い、勝って、師に勝利を報告することだと、私は決めてきた。今も、その思いで戦っています」と。
友は師の心を胸に広布に走った。来る年、来る年、春夏秋冬の四季の彩りも厳しさも、全て前進の力と歌声に変えながら。
2006年4月、21世紀にふさわしいものにと、方面歌「ああ共戦の歌」に新たな曲が作られた。さらに08年9月には、池田先生が歌詞を加筆。タイトルも「三代城の歌」となって生まれ変わった。
北海道の同志は、本年を"三代城・栄光の年"と定め、3年連続の世帯増へ快進撃を続けている。「北海道は、永遠に師の魂を受け継ぐ、師弟共戦の大地であらねばならぬ」(小説『新・人間革命』「大道」の章)との師の万感の期待に、応えゆくために——。
まもなく、9・9「北海道の日」がやって来る。池田先生が"北海道を世界一の理想郷に!"と青年たちに呼び掛けてから45周年。広布の歌声と大行進の足音は、高まるばかりだ。
MEMO
北海道の歌「ああ共戦の歌」(現在の「三代城の歌」)の誕生の経緯は、小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章につづられている。
またSOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)でも、同歌のコーラス入り映像を配信。VODが利用できる会館等や「SOKAチャンネル モバイルSTB」で視聴できる。
一、ああ北海に 聳え立つ
万里の長城 広宣の
恩師と共に 厳たりき
春夏調べの 大行進
ああ共戦の 花武者と
二、ああ雄大な 曠野あり
銀の世界は 大雪山
我等健児は いざ起たむ
秋冬誇りの 前進は
歓喜に躍る 花の旅
三、ああ大河あり 滔々と
広宣流布は 我が使命
世紀の海を 乗り越えて
三世に光る この世をば
祈り舞わんと 花吹雪
師弟共戦の 三代城
その人が一人いれば
皆が明るく元気に!
周囲に希望を送りゆく
楽観主義の人たれ!
本尊供養御書 P1536
『法華経を持ちまいらせぬれば八寒地獄の水にもぬれず八熱地獄の大火にも焼けず』
【通解】
法華経を受持するならば、八寒地獄の水にもぬれることなく、また八熱地獄の大火にも焼けることはないのである。
〈寸鉄〉 2018年9月11日
御書「法華経を耳にふれぬれば是を種として必ず仏に」。勇んで仏縁を拡大
広布は「一対一の語らい」から。友の心に信仰の喜びを!励まし週間に総力
青年教学1級へ高まる研鑽の息吹!行学の錬磨は人生の宝に。徹して学べ
他者と繋がりある人ほど心が折れないと。同志の絆を固く。苦難の時こそ
米同時テロから17年。民衆の力で暴力の連鎖根絶へ。草の根の対話さらに
☆歌声高く 第17回 三代城の歌(ああ共戦の歌)
◇北海天地に師弟の魂厳たり
「共の一字は日蓮に共する時は宝処に至る可し」(御書734ページ)
池田先生は御義口伝のこの一節を通して、「『共』とは師弟不二であり、師弟勝利の大道なのだ」とつづった。師と弟子が心を一つにして広布に戦う「共戦」があるかどうか。「師弟の生命が共戦ならば、そこに『万人成仏』の法華経の魂が脈々と流れ通う」(「随筆 我らの勝利の大道」)と。
創価の三代の師弟を貫く共戦の魂が、とどめられた場所がある。
北の大地・北海道だ。
初代会長・牧口常三郎先生が蛍雪の青春を送り、第2代会長・戸田城聖先生が青雲の大志を育み、若き日の池田先生が札幌、小樽、夕張と正義の闘争を刻んだ舞台——その地に池田先生作詞の方面歌が誕生したのは40年前。1978年(昭和53年)の8月であった。
「『ああ共戦の歌』が完成」との見出しが、聖教新聞8月23日付1面の真ん中に力強く躍った。「恩師と共に 厳たりき」との歌詞に、北海道の同志の心も躍った。"何があろうと、我らは師と共に厳然たり!"という心意気が、この一節に凝縮されていたからだ。
第1次宗門事件の嵐が吹き荒れ、創価の師弟の絆を分断しようとする悪侶らが各地でうごめいていた時である。北海道においても、名寄などの同志が悪戦苦闘のさなかにあった。
さらに、池田先生の入信記念日である翌24日の本紙に、「ああ共戦の歌」の楽譜と歌詞が掲載されると、"共戦の決意"と歓喜の歌声は、北海天地を瞬く間に包んでいった。
当時、池田先生は、戸田先生のもとで戦った青春を振り返りながら、歌詞に込めた真情を北海道のリーダーに語っている。「"師匠が見ておられる。勝利を待ってくださっている"というのが、私の力の源泉だった。師弟共戦とは、弟子が戦い、勝って、師に勝利を報告することだと、私は決めてきた。今も、その思いで戦っています」と。
友は師の心を胸に広布に走った。来る年、来る年、春夏秋冬の四季の彩りも厳しさも、全て前進の力と歌声に変えながら。
2006年4月、21世紀にふさわしいものにと、方面歌「ああ共戦の歌」に新たな曲が作られた。さらに08年9月には、池田先生が歌詞を加筆。タイトルも「三代城の歌」となって生まれ変わった。
北海道の同志は、本年を"三代城・栄光の年"と定め、3年連続の世帯増へ快進撃を続けている。「北海道は、永遠に師の魂を受け継ぐ、師弟共戦の大地であらねばならぬ」(小説『新・人間革命』「大道」の章)との師の万感の期待に、応えゆくために——。
まもなく、9・9「北海道の日」がやって来る。池田先生が"北海道を世界一の理想郷に!"と青年たちに呼び掛けてから45周年。広布の歌声と大行進の足音は、高まるばかりだ。
MEMO
北海道の歌「ああ共戦の歌」(現在の「三代城の歌」)の誕生の経緯は、小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章につづられている。
またSOKAチャンネルVOD(ビデオ・オン・デマンド)でも、同歌のコーラス入り映像を配信。VODが利用できる会館等や「SOKAチャンネル モバイルSTB」で視聴できる。
一、ああ北海に 聳え立つ
万里の長城 広宣の
恩師と共に 厳たりき
春夏調べの 大行進
ああ共戦の 花武者と
二、ああ雄大な 曠野あり
銀の世界は 大雪山
我等健児は いざ起たむ
秋冬誇りの 前進は
歓喜に躍る 花の旅
三、ああ大河あり 滔々と
広宣流布は 我が使命
世紀の海を 乗り越えて
三世に光る この世をば
祈り舞わんと 花吹雪
師弟共戦の 三代城
2018年9月10日月曜日
2018.09.10 わが友に贈る
新聞休刊日
開目抄下 P237
『我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや』
【通解】
わが父母を、人が殺そうとするのを知って父母に告げないでいられようか。悪子が酔い狂って、父母を殺そうとするのを見て止めないでいられようか。悪人が寺塔に火を放って焼いてしまおうとするのを、とめないで放っておかれようか。一子の子供が重病の時にいやがるからといって炙をすえないではおかれないであろう。
☆世界広布新時代第37回本部幹部会 8・24「壮年部の日」記念 全国壮年部幹部会から 原田稔会長
◇半世紀にわたる師の言論闘争に感謝
◇わが「人間革命」の歴史を共に
一、「世界広布新時代第37回本部幹部会」ならびに「全国壮年部幹部会」の開催、誠におめでとうございます(拍手)。
また本日は、14カ国・地域から、152人のSGIメンバーも参加されています。遠いところ、ようこそお越しくださいました。
一、この下半期は、私たち池田門下の一人一人にとって、自らの生涯を方向づける、大事な節目になると思います。
なぜかならば、広宣流布大誓堂完成5周年を前にして、池田先生の筆による小説『新・人間革命』が、ついに9月8日をもって完結の時を迎えるからであります。
小説『人間革命』の連載が始まったのは、1965年の元日付。以来、世界広宣流布への陣頭指揮を執られながらのご執筆が、どれほどの労作業であったことか。
ありがたくも私は、『人間革命』の第1巻から第3巻まで、聖教新聞の担当記者として、挿絵画家との窓口などを務めさせていただきました。
当時、先生は日に三つ四つと行事を掛け持ちされ、分刻みの予定を縫っての執筆でした。行事開始の直前まで筆を執られ、行事が終わるや直ちに再開される毎日。海外平和旅の際も、地方指導の際も、先生は原稿用紙の入ったかばんを常に携行され、一切の行事を終えて宿舎に戻ってから、深夜まで執筆されることも、しばしばでした。
当時は、今のようなコピー機もありません。そこで私は、先生の直筆原稿を後世の宝として残すために、頂いた原稿を印刷所に回す前に、別の用紙に書き写しておりました。
1回分の原稿が届き、直ちに書写作業に入ったところ、まだ半分ほどしか写せていないのに、もう先生から次回分、さらに次々回分と、矢継ぎ早に原稿が届いたことが何度もありました。先生のすさまじい気迫とスピードに、驚嘆する日々でありました。
新聞連載ですので、体調が優れない中でも書き進めなければなりません。
肺炎を患い、冷却枕を頭に巻いて冷やしながら、原稿に向かわれたこともありました。過労のため腕が上がらず、万年筆も重くて持てない日もありました。さらに鉛筆すら持てない時には、原稿を口述してテープに吹き込まれたり、記者に口述されたりもしました。
半世紀以上にわたる、まさに死闘ともいうべき言論闘争の中で、私には、池田先生の次の一言が今なお耳朶から離れません。
「牧口先生、戸田先生を宣揚するとはいっても、また、牧口門下がいかに多しといえども、牧口先生、戸田先生を現実に宣揚しているのは、誰もいないじゃないか! だから、私は、先師、恩師の偉業を書き残さなければならない。それが弟子の道じゃないか!」と。
そして、小説『新・人間革命』につづられているのは、池田先生ご自身の、真の弟子としてのご行動そのものであり、まさに先生は、自らの行動で新たな「人間革命」の歴史をつくり、それをまた小説『新・人間革命』として後世に書き残してくださったのであります。
御聖訓に「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174ページ)と仰せのごとく、仏法とは、また師弟不二の精神とは、観念でも理屈でもなく、現実社会の中で体現され、振る舞いに昇華されてこそ価値を創造します。
聖教新聞では今後、全巻を通した研さん資料が掲載される予定です。
先生が命を削る思いで紡いでくださった"信心の教科書"を学びながら、次は私たち一人一人が、池田先生を現実に宣揚しゆく、自分にしかできない「新・人間革命」を、わが行動で、わが振る舞いで、一日一日、つづっていこう——こう決意し合いたいと思います(拍手)。
◇新しい時代へ 黄金柱が立つ
一、小説『人間革命』が全12巻の連載を完結したのは、1993年2月11日。そして、早くも『新・人間革命』の執筆を開始されたのは、約6カ月後の同年8月6日。この時、池田先生は65歳であられました。
一般的にいえば仕事をリタイアし、いわゆる「老後」に入る年代です。この時にまた先生は間髪を入れず、全30巻を展望しての新たな執筆を決意され、開始されたのです。私たち壮年部は、この事実をわが事として受け止めなければならないと思います。
既に団塊世代の全ての人が65歳以上となり、仕事一筋の人生から一変、定年を迎えた男性にとって、何を生きがいとしていくかが問われている時代といえます。
事実、近年の新会員の方々に伺ってみても、その傾向は顕著です。入会動機として「生きる指針や哲学を求めて」と答えた方は、全世代の平均では19・1%、それが50代と60代以上では25・2%と高い割合を示しています。
今、平均寿命だけではなく、健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間を示す「健康寿命」も、ますます延びています。"黄金柱"の壮年部が、さらに光り輝く時代を迎えているのです。
実際、町会・自治会やボランティアなどの地域活動で、新たな友情と共感の輪を拡大している壮年部員の活躍が、全国で光っています。
また学会にあっても、現場の第一線で役職を担い、後進を育成しながら同世代の友を励まし、糾合しているベテランリーダーもたくさんいます。
進展する少子高齢社会にあって、新しい広宣流布の戦野は、壮年部こそが切り開く——この気概で戦っていきたいと思います(拍手)。
一、いよいよ広宣流布大誓堂完成5周年の「11・18」を迎えます。全国・全世界に勝ちどき轟く「11・18」にしていこうではありませんか(拍手)。
開目抄下 P237
『我が父母を人の殺さんに父母につげざるべしや、悪子の酔狂して父母を殺すをせいせざるべしや、悪人寺塔に火を放たんにせいせざるべしや、一子の重病を炙せざるべしや』
【通解】
わが父母を、人が殺そうとするのを知って父母に告げないでいられようか。悪子が酔い狂って、父母を殺そうとするのを見て止めないでいられようか。悪人が寺塔に火を放って焼いてしまおうとするのを、とめないで放っておかれようか。一子の子供が重病の時にいやがるからといって炙をすえないではおかれないであろう。
☆世界広布新時代第37回本部幹部会 8・24「壮年部の日」記念 全国壮年部幹部会から 原田稔会長
◇半世紀にわたる師の言論闘争に感謝
◇わが「人間革命」の歴史を共に
一、「世界広布新時代第37回本部幹部会」ならびに「全国壮年部幹部会」の開催、誠におめでとうございます(拍手)。
また本日は、14カ国・地域から、152人のSGIメンバーも参加されています。遠いところ、ようこそお越しくださいました。
一、この下半期は、私たち池田門下の一人一人にとって、自らの生涯を方向づける、大事な節目になると思います。
なぜかならば、広宣流布大誓堂完成5周年を前にして、池田先生の筆による小説『新・人間革命』が、ついに9月8日をもって完結の時を迎えるからであります。
小説『人間革命』の連載が始まったのは、1965年の元日付。以来、世界広宣流布への陣頭指揮を執られながらのご執筆が、どれほどの労作業であったことか。
ありがたくも私は、『人間革命』の第1巻から第3巻まで、聖教新聞の担当記者として、挿絵画家との窓口などを務めさせていただきました。
当時、先生は日に三つ四つと行事を掛け持ちされ、分刻みの予定を縫っての執筆でした。行事開始の直前まで筆を執られ、行事が終わるや直ちに再開される毎日。海外平和旅の際も、地方指導の際も、先生は原稿用紙の入ったかばんを常に携行され、一切の行事を終えて宿舎に戻ってから、深夜まで執筆されることも、しばしばでした。
当時は、今のようなコピー機もありません。そこで私は、先生の直筆原稿を後世の宝として残すために、頂いた原稿を印刷所に回す前に、別の用紙に書き写しておりました。
1回分の原稿が届き、直ちに書写作業に入ったところ、まだ半分ほどしか写せていないのに、もう先生から次回分、さらに次々回分と、矢継ぎ早に原稿が届いたことが何度もありました。先生のすさまじい気迫とスピードに、驚嘆する日々でありました。
新聞連載ですので、体調が優れない中でも書き進めなければなりません。
肺炎を患い、冷却枕を頭に巻いて冷やしながら、原稿に向かわれたこともありました。過労のため腕が上がらず、万年筆も重くて持てない日もありました。さらに鉛筆すら持てない時には、原稿を口述してテープに吹き込まれたり、記者に口述されたりもしました。
半世紀以上にわたる、まさに死闘ともいうべき言論闘争の中で、私には、池田先生の次の一言が今なお耳朶から離れません。
「牧口先生、戸田先生を宣揚するとはいっても、また、牧口門下がいかに多しといえども、牧口先生、戸田先生を現実に宣揚しているのは、誰もいないじゃないか! だから、私は、先師、恩師の偉業を書き残さなければならない。それが弟子の道じゃないか!」と。
そして、小説『新・人間革命』につづられているのは、池田先生ご自身の、真の弟子としてのご行動そのものであり、まさに先生は、自らの行動で新たな「人間革命」の歴史をつくり、それをまた小説『新・人間革命』として後世に書き残してくださったのであります。
御聖訓に「教主釈尊の出世の本懐は人の振舞にて候けるぞ」(御書1174ページ)と仰せのごとく、仏法とは、また師弟不二の精神とは、観念でも理屈でもなく、現実社会の中で体現され、振る舞いに昇華されてこそ価値を創造します。
聖教新聞では今後、全巻を通した研さん資料が掲載される予定です。
先生が命を削る思いで紡いでくださった"信心の教科書"を学びながら、次は私たち一人一人が、池田先生を現実に宣揚しゆく、自分にしかできない「新・人間革命」を、わが行動で、わが振る舞いで、一日一日、つづっていこう——こう決意し合いたいと思います(拍手)。
◇新しい時代へ 黄金柱が立つ
一、小説『人間革命』が全12巻の連載を完結したのは、1993年2月11日。そして、早くも『新・人間革命』の執筆を開始されたのは、約6カ月後の同年8月6日。この時、池田先生は65歳であられました。
一般的にいえば仕事をリタイアし、いわゆる「老後」に入る年代です。この時にまた先生は間髪を入れず、全30巻を展望しての新たな執筆を決意され、開始されたのです。私たち壮年部は、この事実をわが事として受け止めなければならないと思います。
既に団塊世代の全ての人が65歳以上となり、仕事一筋の人生から一変、定年を迎えた男性にとって、何を生きがいとしていくかが問われている時代といえます。
事実、近年の新会員の方々に伺ってみても、その傾向は顕著です。入会動機として「生きる指針や哲学を求めて」と答えた方は、全世代の平均では19・1%、それが50代と60代以上では25・2%と高い割合を示しています。
今、平均寿命だけではなく、健康上の問題で日常生活が制限されることなく生活できる期間を示す「健康寿命」も、ますます延びています。"黄金柱"の壮年部が、さらに光り輝く時代を迎えているのです。
実際、町会・自治会やボランティアなどの地域活動で、新たな友情と共感の輪を拡大している壮年部員の活躍が、全国で光っています。
また学会にあっても、現場の第一線で役職を担い、後進を育成しながら同世代の友を励まし、糾合しているベテランリーダーもたくさんいます。
進展する少子高齢社会にあって、新しい広宣流布の戦野は、壮年部こそが切り開く——この気概で戦っていきたいと思います(拍手)。
一、いよいよ広宣流布大誓堂完成5周年の「11・18」を迎えます。全国・全世界に勝ちどき轟く「11・18」にしていこうではありませんか(拍手)。
2018年9月9日日曜日
2018.09.09 わが友に贈る
祈りあるところ
希望は生まれ広がる。
「苦楽ともに思い合わせて」
妙法を唱え抜き
負けじ魂の一歩前進を!
千日尼御返事 P1320
『故阿仏房一人を寂光の浄土に入れ給はずば諸仏は大苦に堕ち給うべし、ただをいて物を見よただをいて物を見よ、仏のまことそら事は此れにて見奉るべし』
【通解】
亡くなられた阿仏房一人を寂光の浄土に入れなければ、諸仏は大苦に堕ちるに違いない。よくよく物事を見極めなさい。よくよく物事を見極めなさい。
仏の教えが真実であるか虚妄であるかは、これによって判断していくべきである。
〈寸鉄〉 2018年9月9日
「いよいよ強盛の信力を」御書。変毒為薬の信心だ。勝利の人生を題目根本で
女子学生部の日。貴女の成長こそ世界の希望!師のもと福智の青春を前進
会合を陰で支える婦人部に感謝。全員に幸と栄光あれ!きょう香城会の日
北海道の皆様、引き続き余震に警戒を。通電火災も注意。どうかご無事で
公明議員よ迅速で的確な支援頼む。今こそ連帯力を生かして国民の命守れ
☆虹を懸ける 池田先生と北欧� 2018年8月27日
◇「良き人」の連帯を広げよ
1989年6月1日にスウェーデンを訪問した池田先生は、翌2日、首都ストックホルムの首相官邸を表敬し、カールソン首相と会見。また同日、国立東洋美術館で"自然との対話"写真展の特別鑑賞会に出席した。
さらに5日には、王宮でグスタフ国王と会見。信頼と友情を結ぶ人間外交は、同国出発の直前まで続いた。
スウェーデンSGIのアンナ・ミルステンさん(支部婦人部長)は、先生が滞在した5日間、女子部の白蓮グループとして諸行事を支えた。
外交官の父は当時、海外赴任を終え、スウェーデン外務省に勤務していた。国立東洋美術館での写真展には来賓として招待された。
先生は、来賓の一人一人と握手を交わしながら、丁重に謝意を述べていった。父の番が来ると、ミルステンさんも一緒に並んであいさつ。先生は慈愛のまなざしを注ぎながら、彼女と固く握手を交わし、「ご両親を大切にしてください」と。
ミルステンさんは家族の中で一人だけ、2年前に入会していた。自分に自信が持てないのが、彼女の悩みだった。その苦しみは入会後も続き、外見ばかりを気にして、いつからか拒食症に陥った。
そんな中での先生との出会い。温かな手の感触に、「自分で自分を卑下しても、先生は私を信じてくれていると感じました」。
ミルステンさんは親孝行に徹しつつ、悩みにも信心で向き合い、心身の健康を取り戻していった。仕事では、美容や健康の分野を経て、現在、医療業務に従事する。
自宅を広布の会場に提供し、"料理教室"を開くなど、近隣との友好も広げる。
プライベートを重んじるこの国では、悩みを誰にも打ち明けられず、抱え込む人が多くいる。ミルステンさんも、そうだった。だからこそ今、自身の体験を語りながら、そうした人の心に日々、寄り添っている。
◇幸の妙宮
89年6月3日、ストックホルムの中心部から約20キロの町・サルツシュバーデンの丘の上に、スウェーデン文化会館がオープンした。
開館式に出席し、代表と共にテープカットに臨んだ先生は、芳名録にこう記した。
「世界の王宮よりも/すばらしき/人間の 幸の妙宮の開所を/私は心より祝したい」
この日、白亜の会館に到着した先生を迎えたのは、少年少女による合唱。その中に、当時10歳だったナタリー・ノードクイストさん(スウェーデンSGI婦人部員)がいた。
テープカットの後、会館内に設置された"核の脅威展"を見学する際も、先生はノードクイストさんらをそばに招き、並んで歩いた。展示の一枚一枚を共に観賞しながら、彼女にこう語り掛けた。
「必ずや、平和の世界を実現しなければならない」「あなたたちが、その未来を開いていく存在なんだよ」
ノードクイストさんは4歳から始めたバレエで、プロのダンサーを目指していた。「世界中の人に希望を送るために踊ろうと、強く誓いました」
その2カ月後、バレエ学校に入学。厳しい競争を勝ち抜き、19歳の時には、スウェーデン・ロイヤル(王立)バレエ団への入団を果たした。
体を酷使したことにより、膝の故障やけがなどにたびたび見舞われた。御本尊に向かい、先生との誓いを思い起こしては、自らを鼓舞した。
2001年、同団のソリストに昇格。05年には主役である「プリンシパル」に選ばれ、「白鳥の湖」「眠れる森の美女」など、数々の作品に出演した。
同団を休職し、モナコ公国モンテカルロ・バレエ団の一員だった09年、日本を訪れた際に本部幹部会に参加した。参加者を代表し、「創価芸術賞」を受賞したノードクイストさん。初めて主役を演じた際の写真と記念の品を「これまで激励してくださったことへの、感謝の気持ちです」と先生に手渡した。
「ありがとう! 真心に感謝します」と先生。両手を大きく広げて"バレエ"の仕草をすると、場内は朗らかな笑いに包まれた。
先生は、彼女に語った。"人の心を伝えるのは、芸術です。だから芸術は、広宣流布のために重要なんです"
この言葉を思い出すたびに、ノードクイストさんの心には勇気が湧く。"バレエを通して仏法の素晴らしさを伝えたい"と祈り、演技に臨むと、表現も豊かになると実感する。
多忙でも、時間を見つけて学会活動に参加し、悩める同志に励ましを送ってきたノードクイストさん。
成長を期待し、待っていてくれる師に応えたい——世界的なバレリーナとなった今も、この思いが、一番の原動力になっている。
◇仏法カレッジ
スウェーデン文化会館の開館式でスピーチした先生は、「近隣友好」「文化・風習等の尊重」「誠実に友情を広げる」との三つの指針を示し、焦らずにじっくりと、「良き人」の連帯を広げていこうと呼び掛けた。
そして、「一人も残らず、幸福と成仏への『仏法カレッジ』の学生として、伸び伸びと、朗らかに、また仲良く、行学の前進を」と念願した。
この会合には、他の北欧の国からも、メンバーが参加していた。その一人がアウド・ディゲルネスさん(ノルウェーSGI理事長)である。
幼い頃から信心に励んでいたが、社会運動に夢中になった高校時代、"宗教は必要ない"と考えるように。集会やデモに参加して平和を訴えたが、心は満たされなかった。
スウェーデンで先生との出会いを刻んだのは、再び信心に励むようになって、間もない時だった。
ユーモアを交えてスピーチする先生。会場の前方に座っていたディゲルネスさんを見つけると、先生は身振り手振りを交えて、彼女に励ましを送った。
信心から離れたことをうしろめたく感じていたディゲルネスさんは、とっさに、先生から目をそらしてしまった。だが先生は2度、3度と、彼女を激励した。
ディゲルネスさんが先生を見ると、先生はにっこりとうなずいた。
また彼女は、先生が信仰の在り方について語ったのを、今も覚えている。
「会館の壁には、富士山の絵が掲げられていました。でも、それを見られた先生は"ここは日本じゃないんだよ。スウェーデンらしくやればいいんだよ"と言われました」
「私に対する温かな励ましも、"あなたらしく頑張るんだよ"というメッセージだったのだと思います」
大学、そして大学院へと進学したディゲルネスさん。難民支援に関わる仕事を経て、文化イベントを主催するNGO団体に就職し、現在も働いている。
SGIでは、ノルウェーの女子部長、青年部長を務めた。経済水準も、国民の幸福度も高いこの国で、"心の豊かさ"を示す仏法の哲理を広める使命は大きいと感じている。
◇心を砕いて
デンマークSGI副理事長のリーネ・スラボウスカさんは当時、同国の白蓮グループの責任者。諸行事を支えるため、スウェーデンに駆け付けた。
83年、20歳の時に仏法に出あった。唱題を始めて数週間後、希望していた条件の会社に就職し、信心の功徳を実感する。
心の中にも変化があった。自己肯定感が低い青春時代だったが、学会には、そんな自分を信頼してくれる人がいた。同志の励ましの中で、自らも、人の幸福に尽くすことを喜びと思えるように。自身の人生にも、感謝できるようになった。
スウェーデンを訪問した先生を、スラボウスカさんは宿舎のロビーで迎えた。「先生、ようこそ!」と笑顔で語る彼女と、先生は優しく握手した。
滞在中、メンバーの中に分け入って、一人一人に慈愛の励ましを送る先生を目の当たりにした。「まだ入会して数年でしたが、皆の幸福のために心を砕かれる姿に、リーダーの在り方を学びました」
その後、全国女子部長などを務めたスラボウスカさん。温かく、人間味あふれる先生の姿を模範として、メンバーの励ましに全力を注いでいった。
芸術、ファッションの粋が集まる首都コペンハーゲンで、服飾デザイナーとして長年、活躍し、信心の実証を示してきた。
長男に続いて授かった子を、流産で失う悲しみもあった。「変毒為薬」を強盛に祈り、5年後に待望の長女が誕生した。信仰の素晴らしさと、人生の師匠を持てる感謝を、二人の子に語り継ぐ。
誉れの"仏法カレッジ"で学ぶ喜びにあふれた、スウェーデン文化会館の開館式。
その翌日に開かれたのが、「第1回SGI北欧総会」。スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、フィンランドの代表が、師のもとに集った。北欧の同志にとって大きな転機となる。
☆虹を懸ける 池田先生と北欧�=完 2018年8月30日
◇師弟の絆は心に燦然と
スウェーデンの首都ストックホルムに、北欧5カ国の同志が集った「第1回SGI北欧総会」(1989年6月4日)。
参加者の喜びは幾重にも広がり、民族衣装を着ての踊りや民謡などが、生き生きと披露されていった。
熱演の一つ一つに、池田先生は立ち上がって拍手を送り、時に一緒にリズムを刻みながら、メンバーと心の交流を結んだ。
祝福のスピーチを、先生はこう始めた。
「きょうは、小雨にライラックの花が美しい……」
先生の話に、イングリッド・ワールボーンさん(スウェーデン、地区婦人部長)は驚いた。
副女子部長として、諸行事の準備に奔走していたワールボーンさん。だが待ちに待った総会の日は、あいにくの雨。彼女たちは内心、落胆していた。
「先生は、そんな私たちの心を知り、励ましを送ってくださったのだと感じました」
続けて先生が語ったのは、「一本の樹」の大切さであった。
「この(ライラックの)花は、まず一つの花樹を完全に大きくして、根を張り、花を咲かせ、種をつくる。その『一樹』があれば、あとは時を得、環境を得て、いくらでも大きく広がっていく」
「仏法の広がりも、"勝利の一人"から始まる。仏種が熟して、立派な人格者となり、社会に、また生活に深く根を張りながら、美しい信仰勝利の万花を咲かせていく。
その『一本の信心の大木』さえあれば、そこから妙法の種は広がり、幸福の花は限りなく広がり咲いていく。人数ではない。真実の『一人』の存在が大事である」
この先生の指針が、ワールボーンさんの大きな力になったのは、総会の翌90年。世界有数の通信機器・サービス会社で、ソフトウエア開発の仕事に携わることになったのだ。
IT関係の教育を受けていない彼女の採用は、当時は異例のことだった。多くの人は、無謀だと言った。
それでもワールボーンさんは、使命の場所で"勝利の一人"になるとの誓いを胸に、誠実に業務に励んだ。
学会活動で自身を磨き、協調性を身に付けたことが仕事にも生きた。信頼を広げ、マネジャーを9年間務めるまでに。現在は、人事の業務を担当する。
学会の組織では女子部長などを歴任。多忙の合間を縫って友の激励に走った青年部時代が、人生の宝である。
◇信心の大樹に
先生はスピーチで、総会に集った全員が、それぞれの地で「不動の信心の大樹」となりゆくよう望んだ。
デンマークから総会に参加していたハンネ・ホルムさん(婦人部本部長)は10代の頃、人生の目的を見いだせずにいた。さまざまな宗教を試したが、心は満たされず、どれも長続きしなかった。
友人の紹介でSGIを知った。会合に行くと、自分だけでなく、他者の幸福のために行動する多くの人に出会った。「この人たちと一緒に活動すれば、私も変われるのではと思い、入会しました」
そんな信頼する同志が、口々に語る「センセイ」。"私も、師との原点を築きたい"。89年6月、女子部・白蓮グループの一員として、スウェーデンへ。
総会だけでなく、宿舎で先生を迎えた時にも忘れ得ぬ出会いが。「ようこそ!」と元気にあいさつする彼女に、先生は深い感謝を述べながら、慈愛のまなざしを注いだ。
89年の先生との出会いを、彼女は「暗かった心に、明かりがともされたようでした」と振り返る。
後年、ホルムさんはヨーロッパや日本など、さまざまな国に住んだ。
新たな場所に行くたびに、その地で学会活動に励んだ。「不動の信心の大樹に」との心意気で——。
「デンマークはヨーロッパ広布の『原点』の地です。その誇りを胸に、私たちが創価の人間主義を大きく広げていきます」
同じくデンマークから総会に集ったジョン・ハンセンさん(副本部長)。総会で、先生が会場内のステージに立ち、手品を披露した光景を鮮明に覚えている。
「大きな会場ではなかったため、どの位置からも、先生の様子がよく見えました。先生は参加者とやりとりしながら、一人一人と交流するかのように手品をされました」
ハンセンさんは幼い頃、母からよく先生の話を聞いて育った。「世界的な指導者である先生が、メンバーに寄り添い、心を砕く姿に深く感銘を受けました。この時、私は先生を人生の師匠と決めました」
心に師匠をもった人は強い。ハンセンさんは20代半ばで歯科医を志し、大学で学び直した。そして卒業直後の2004年には、歯科医院を開業した。
何度も経営難に直面したが、諸天を揺り動かす強い題目で、苦境を開いてきた。現在、コペンハーゲン近郊に二つの医院を持ち、数千人の利用者がいる。
09年3月、デンマーク・南大学から先生に「名誉博士号」が贈られた。東京・八王子市の創価大学で行われた授与式に、ハンセンさんはデンマークSGIの代表として参加し、先生の数列後ろに座りながら、師への栄誉に目頭が熱くなった。
式典中、ぐるっと周囲を見渡した先生。ハンセンさんと目が合った。先生はにっこりと笑みを浮かべ、うなずいた。
そのまなざしは、"頑張るんだよ!"と言わんばかりに温かかった。
◇愛称を贈ろう
ヘンリエッテ・ホルムさん(デンマーク、婦人部副本部長)が信心を始めたのは、20歳の時だった。自分を卑下する心や、他人を信じられない心……さまざまな苦しみに縛られていた。
未来に対しても、不安が募る。映像作家を夢見ていたが、"私には無理"と思うばかりで、一歩も踏み出せずにいた。
転機となったのは、1989年6月、北欧総会での先生との出会い。ホルムさんは白蓮グループとして、行事の運営を支えた。
総会の途中、デンマークSGIのリーダーに連れられ、先生のいるテーブルへと向かった。先生は彼女と固く握手を交わし、陰の労苦をねぎらった。
その場を立ち去ろうとするホルムさんに、先生はさらに声を掛けた。「あなたに愛称を贈りたいのですが、よろしいですか」
突然の提案に戸惑いながらも、「はい!」と彼女が答えると、先生は「『信心のプリンセス』はどうだろうか」と。
そしてこう続けた。
「どうか、妙法の歴史をつづり、妙法の大きな勝利を開きゆく人生を送ってください。皆さんの努力に、心から感謝します」
感動で、胸がいっぱいになったホルムさん。「ありがとうございます!」と震える声を振り絞った。
この折のスウェーデン訪問で、先生は国王や首相など国家要人と会見している。その先生が、入会間もない一人の青年をこれほど励ましてくれた……。
「広宣流布のために生涯、戦おうと誓った原点です。先生に頂いた"新しい名前"とともに、"新しい人生"が始まりました」
この直後、ホルムさんは、最難関である演劇学校の監督科への挑戦を決めた。"先生が自分を信じてくれている"。そう思えば、勇気が湧いた。そして応募者の中でただ1人、入学を勝ち取る。
卒業後は20年以上にわたり、舞台監督として活躍してきたホルムさん。広宣流布を祈りの中心に置く時、大きく人生が開ける——そのことを、身をもって感じている。
◇人間の光彩
真実の「一人」がいれば、そこから幸福の花園は広がる——。
先生はスピーチで、「これが、今日までの広宣流布の不動の方程式であった」と語り、「北欧の地も絶対に例外ではない」と力強く訴えた。
それは北欧の各地で一人立ち、広布の草創を開いた同志への、心からの励ましだった。そして、これから先、その道に続く人たちへのエールであった。
先生が訪問したデンマーク、ノルウェー、スウェーデン。そしてアイスランド、フィンランド。どの国でも、一人の勇者によってともされた仏法の灯は、全土を照らす人間主義の光となった。
師の励ましを受けた少年少女や青年部が、今、各国の広布のリーダーに育った。信仰で人生を開き、平和貢献や学問の道、文化・芸術の舞台で活躍する同志が多くいる。
かつて先生は、北欧訪問からの帰路、飛行機の窓から夜空に光るオーロラを眺めた。
後年、先生はこうつづっている。
「宇宙は、こんなにも輝きに満ちている。小宇宙である人間もまた、本来、まばゆい光に満ちているはずである。その人間の光彩をめざして、人間のなかへ、生命のなかへ、私は励ましの旅を、断固として続けよう」
半世紀を超える先生の励ましの旅。その中で育まれた"心の絆"は、北欧の同志の心の宇宙に燦然と輝く。
この師弟の絆を"導きの星"として、友はこれからも、勝利の人生を朗らかに進む。
希望は生まれ広がる。
「苦楽ともに思い合わせて」
妙法を唱え抜き
負けじ魂の一歩前進を!
千日尼御返事 P1320
『故阿仏房一人を寂光の浄土に入れ給はずば諸仏は大苦に堕ち給うべし、ただをいて物を見よただをいて物を見よ、仏のまことそら事は此れにて見奉るべし』
【通解】
亡くなられた阿仏房一人を寂光の浄土に入れなければ、諸仏は大苦に堕ちるに違いない。よくよく物事を見極めなさい。よくよく物事を見極めなさい。
仏の教えが真実であるか虚妄であるかは、これによって判断していくべきである。
〈寸鉄〉 2018年9月9日
「いよいよ強盛の信力を」御書。変毒為薬の信心だ。勝利の人生を題目根本で
女子学生部の日。貴女の成長こそ世界の希望!師のもと福智の青春を前進
会合を陰で支える婦人部に感謝。全員に幸と栄光あれ!きょう香城会の日
北海道の皆様、引き続き余震に警戒を。通電火災も注意。どうかご無事で
公明議員よ迅速で的確な支援頼む。今こそ連帯力を生かして国民の命守れ
☆虹を懸ける 池田先生と北欧� 2018年8月27日
◇「良き人」の連帯を広げよ
1989年6月1日にスウェーデンを訪問した池田先生は、翌2日、首都ストックホルムの首相官邸を表敬し、カールソン首相と会見。また同日、国立東洋美術館で"自然との対話"写真展の特別鑑賞会に出席した。
さらに5日には、王宮でグスタフ国王と会見。信頼と友情を結ぶ人間外交は、同国出発の直前まで続いた。
スウェーデンSGIのアンナ・ミルステンさん(支部婦人部長)は、先生が滞在した5日間、女子部の白蓮グループとして諸行事を支えた。
外交官の父は当時、海外赴任を終え、スウェーデン外務省に勤務していた。国立東洋美術館での写真展には来賓として招待された。
先生は、来賓の一人一人と握手を交わしながら、丁重に謝意を述べていった。父の番が来ると、ミルステンさんも一緒に並んであいさつ。先生は慈愛のまなざしを注ぎながら、彼女と固く握手を交わし、「ご両親を大切にしてください」と。
ミルステンさんは家族の中で一人だけ、2年前に入会していた。自分に自信が持てないのが、彼女の悩みだった。その苦しみは入会後も続き、外見ばかりを気にして、いつからか拒食症に陥った。
そんな中での先生との出会い。温かな手の感触に、「自分で自分を卑下しても、先生は私を信じてくれていると感じました」。
ミルステンさんは親孝行に徹しつつ、悩みにも信心で向き合い、心身の健康を取り戻していった。仕事では、美容や健康の分野を経て、現在、医療業務に従事する。
自宅を広布の会場に提供し、"料理教室"を開くなど、近隣との友好も広げる。
プライベートを重んじるこの国では、悩みを誰にも打ち明けられず、抱え込む人が多くいる。ミルステンさんも、そうだった。だからこそ今、自身の体験を語りながら、そうした人の心に日々、寄り添っている。
◇幸の妙宮
89年6月3日、ストックホルムの中心部から約20キロの町・サルツシュバーデンの丘の上に、スウェーデン文化会館がオープンした。
開館式に出席し、代表と共にテープカットに臨んだ先生は、芳名録にこう記した。
「世界の王宮よりも/すばらしき/人間の 幸の妙宮の開所を/私は心より祝したい」
この日、白亜の会館に到着した先生を迎えたのは、少年少女による合唱。その中に、当時10歳だったナタリー・ノードクイストさん(スウェーデンSGI婦人部員)がいた。
テープカットの後、会館内に設置された"核の脅威展"を見学する際も、先生はノードクイストさんらをそばに招き、並んで歩いた。展示の一枚一枚を共に観賞しながら、彼女にこう語り掛けた。
「必ずや、平和の世界を実現しなければならない」「あなたたちが、その未来を開いていく存在なんだよ」
ノードクイストさんは4歳から始めたバレエで、プロのダンサーを目指していた。「世界中の人に希望を送るために踊ろうと、強く誓いました」
その2カ月後、バレエ学校に入学。厳しい競争を勝ち抜き、19歳の時には、スウェーデン・ロイヤル(王立)バレエ団への入団を果たした。
体を酷使したことにより、膝の故障やけがなどにたびたび見舞われた。御本尊に向かい、先生との誓いを思い起こしては、自らを鼓舞した。
2001年、同団のソリストに昇格。05年には主役である「プリンシパル」に選ばれ、「白鳥の湖」「眠れる森の美女」など、数々の作品に出演した。
同団を休職し、モナコ公国モンテカルロ・バレエ団の一員だった09年、日本を訪れた際に本部幹部会に参加した。参加者を代表し、「創価芸術賞」を受賞したノードクイストさん。初めて主役を演じた際の写真と記念の品を「これまで激励してくださったことへの、感謝の気持ちです」と先生に手渡した。
「ありがとう! 真心に感謝します」と先生。両手を大きく広げて"バレエ"の仕草をすると、場内は朗らかな笑いに包まれた。
先生は、彼女に語った。"人の心を伝えるのは、芸術です。だから芸術は、広宣流布のために重要なんです"
この言葉を思い出すたびに、ノードクイストさんの心には勇気が湧く。"バレエを通して仏法の素晴らしさを伝えたい"と祈り、演技に臨むと、表現も豊かになると実感する。
多忙でも、時間を見つけて学会活動に参加し、悩める同志に励ましを送ってきたノードクイストさん。
成長を期待し、待っていてくれる師に応えたい——世界的なバレリーナとなった今も、この思いが、一番の原動力になっている。
◇仏法カレッジ
スウェーデン文化会館の開館式でスピーチした先生は、「近隣友好」「文化・風習等の尊重」「誠実に友情を広げる」との三つの指針を示し、焦らずにじっくりと、「良き人」の連帯を広げていこうと呼び掛けた。
そして、「一人も残らず、幸福と成仏への『仏法カレッジ』の学生として、伸び伸びと、朗らかに、また仲良く、行学の前進を」と念願した。
この会合には、他の北欧の国からも、メンバーが参加していた。その一人がアウド・ディゲルネスさん(ノルウェーSGI理事長)である。
幼い頃から信心に励んでいたが、社会運動に夢中になった高校時代、"宗教は必要ない"と考えるように。集会やデモに参加して平和を訴えたが、心は満たされなかった。
スウェーデンで先生との出会いを刻んだのは、再び信心に励むようになって、間もない時だった。
ユーモアを交えてスピーチする先生。会場の前方に座っていたディゲルネスさんを見つけると、先生は身振り手振りを交えて、彼女に励ましを送った。
信心から離れたことをうしろめたく感じていたディゲルネスさんは、とっさに、先生から目をそらしてしまった。だが先生は2度、3度と、彼女を激励した。
ディゲルネスさんが先生を見ると、先生はにっこりとうなずいた。
また彼女は、先生が信仰の在り方について語ったのを、今も覚えている。
「会館の壁には、富士山の絵が掲げられていました。でも、それを見られた先生は"ここは日本じゃないんだよ。スウェーデンらしくやればいいんだよ"と言われました」
「私に対する温かな励ましも、"あなたらしく頑張るんだよ"というメッセージだったのだと思います」
大学、そして大学院へと進学したディゲルネスさん。難民支援に関わる仕事を経て、文化イベントを主催するNGO団体に就職し、現在も働いている。
SGIでは、ノルウェーの女子部長、青年部長を務めた。経済水準も、国民の幸福度も高いこの国で、"心の豊かさ"を示す仏法の哲理を広める使命は大きいと感じている。
◇心を砕いて
デンマークSGI副理事長のリーネ・スラボウスカさんは当時、同国の白蓮グループの責任者。諸行事を支えるため、スウェーデンに駆け付けた。
83年、20歳の時に仏法に出あった。唱題を始めて数週間後、希望していた条件の会社に就職し、信心の功徳を実感する。
心の中にも変化があった。自己肯定感が低い青春時代だったが、学会には、そんな自分を信頼してくれる人がいた。同志の励ましの中で、自らも、人の幸福に尽くすことを喜びと思えるように。自身の人生にも、感謝できるようになった。
スウェーデンを訪問した先生を、スラボウスカさんは宿舎のロビーで迎えた。「先生、ようこそ!」と笑顔で語る彼女と、先生は優しく握手した。
滞在中、メンバーの中に分け入って、一人一人に慈愛の励ましを送る先生を目の当たりにした。「まだ入会して数年でしたが、皆の幸福のために心を砕かれる姿に、リーダーの在り方を学びました」
その後、全国女子部長などを務めたスラボウスカさん。温かく、人間味あふれる先生の姿を模範として、メンバーの励ましに全力を注いでいった。
芸術、ファッションの粋が集まる首都コペンハーゲンで、服飾デザイナーとして長年、活躍し、信心の実証を示してきた。
長男に続いて授かった子を、流産で失う悲しみもあった。「変毒為薬」を強盛に祈り、5年後に待望の長女が誕生した。信仰の素晴らしさと、人生の師匠を持てる感謝を、二人の子に語り継ぐ。
誉れの"仏法カレッジ"で学ぶ喜びにあふれた、スウェーデン文化会館の開館式。
その翌日に開かれたのが、「第1回SGI北欧総会」。スウェーデン、デンマーク、ノルウェー、アイスランド、フィンランドの代表が、師のもとに集った。北欧の同志にとって大きな転機となる。
☆虹を懸ける 池田先生と北欧�=完 2018年8月30日
◇師弟の絆は心に燦然と
スウェーデンの首都ストックホルムに、北欧5カ国の同志が集った「第1回SGI北欧総会」(1989年6月4日)。
参加者の喜びは幾重にも広がり、民族衣装を着ての踊りや民謡などが、生き生きと披露されていった。
熱演の一つ一つに、池田先生は立ち上がって拍手を送り、時に一緒にリズムを刻みながら、メンバーと心の交流を結んだ。
祝福のスピーチを、先生はこう始めた。
「きょうは、小雨にライラックの花が美しい……」
先生の話に、イングリッド・ワールボーンさん(スウェーデン、地区婦人部長)は驚いた。
副女子部長として、諸行事の準備に奔走していたワールボーンさん。だが待ちに待った総会の日は、あいにくの雨。彼女たちは内心、落胆していた。
「先生は、そんな私たちの心を知り、励ましを送ってくださったのだと感じました」
続けて先生が語ったのは、「一本の樹」の大切さであった。
「この(ライラックの)花は、まず一つの花樹を完全に大きくして、根を張り、花を咲かせ、種をつくる。その『一樹』があれば、あとは時を得、環境を得て、いくらでも大きく広がっていく」
「仏法の広がりも、"勝利の一人"から始まる。仏種が熟して、立派な人格者となり、社会に、また生活に深く根を張りながら、美しい信仰勝利の万花を咲かせていく。
その『一本の信心の大木』さえあれば、そこから妙法の種は広がり、幸福の花は限りなく広がり咲いていく。人数ではない。真実の『一人』の存在が大事である」
この先生の指針が、ワールボーンさんの大きな力になったのは、総会の翌90年。世界有数の通信機器・サービス会社で、ソフトウエア開発の仕事に携わることになったのだ。
IT関係の教育を受けていない彼女の採用は、当時は異例のことだった。多くの人は、無謀だと言った。
それでもワールボーンさんは、使命の場所で"勝利の一人"になるとの誓いを胸に、誠実に業務に励んだ。
学会活動で自身を磨き、協調性を身に付けたことが仕事にも生きた。信頼を広げ、マネジャーを9年間務めるまでに。現在は、人事の業務を担当する。
学会の組織では女子部長などを歴任。多忙の合間を縫って友の激励に走った青年部時代が、人生の宝である。
◇信心の大樹に
先生はスピーチで、総会に集った全員が、それぞれの地で「不動の信心の大樹」となりゆくよう望んだ。
デンマークから総会に参加していたハンネ・ホルムさん(婦人部本部長)は10代の頃、人生の目的を見いだせずにいた。さまざまな宗教を試したが、心は満たされず、どれも長続きしなかった。
友人の紹介でSGIを知った。会合に行くと、自分だけでなく、他者の幸福のために行動する多くの人に出会った。「この人たちと一緒に活動すれば、私も変われるのではと思い、入会しました」
そんな信頼する同志が、口々に語る「センセイ」。"私も、師との原点を築きたい"。89年6月、女子部・白蓮グループの一員として、スウェーデンへ。
総会だけでなく、宿舎で先生を迎えた時にも忘れ得ぬ出会いが。「ようこそ!」と元気にあいさつする彼女に、先生は深い感謝を述べながら、慈愛のまなざしを注いだ。
89年の先生との出会いを、彼女は「暗かった心に、明かりがともされたようでした」と振り返る。
後年、ホルムさんはヨーロッパや日本など、さまざまな国に住んだ。
新たな場所に行くたびに、その地で学会活動に励んだ。「不動の信心の大樹に」との心意気で——。
「デンマークはヨーロッパ広布の『原点』の地です。その誇りを胸に、私たちが創価の人間主義を大きく広げていきます」
同じくデンマークから総会に集ったジョン・ハンセンさん(副本部長)。総会で、先生が会場内のステージに立ち、手品を披露した光景を鮮明に覚えている。
「大きな会場ではなかったため、どの位置からも、先生の様子がよく見えました。先生は参加者とやりとりしながら、一人一人と交流するかのように手品をされました」
ハンセンさんは幼い頃、母からよく先生の話を聞いて育った。「世界的な指導者である先生が、メンバーに寄り添い、心を砕く姿に深く感銘を受けました。この時、私は先生を人生の師匠と決めました」
心に師匠をもった人は強い。ハンセンさんは20代半ばで歯科医を志し、大学で学び直した。そして卒業直後の2004年には、歯科医院を開業した。
何度も経営難に直面したが、諸天を揺り動かす強い題目で、苦境を開いてきた。現在、コペンハーゲン近郊に二つの医院を持ち、数千人の利用者がいる。
09年3月、デンマーク・南大学から先生に「名誉博士号」が贈られた。東京・八王子市の創価大学で行われた授与式に、ハンセンさんはデンマークSGIの代表として参加し、先生の数列後ろに座りながら、師への栄誉に目頭が熱くなった。
式典中、ぐるっと周囲を見渡した先生。ハンセンさんと目が合った。先生はにっこりと笑みを浮かべ、うなずいた。
そのまなざしは、"頑張るんだよ!"と言わんばかりに温かかった。
◇愛称を贈ろう
ヘンリエッテ・ホルムさん(デンマーク、婦人部副本部長)が信心を始めたのは、20歳の時だった。自分を卑下する心や、他人を信じられない心……さまざまな苦しみに縛られていた。
未来に対しても、不安が募る。映像作家を夢見ていたが、"私には無理"と思うばかりで、一歩も踏み出せずにいた。
転機となったのは、1989年6月、北欧総会での先生との出会い。ホルムさんは白蓮グループとして、行事の運営を支えた。
総会の途中、デンマークSGIのリーダーに連れられ、先生のいるテーブルへと向かった。先生は彼女と固く握手を交わし、陰の労苦をねぎらった。
その場を立ち去ろうとするホルムさんに、先生はさらに声を掛けた。「あなたに愛称を贈りたいのですが、よろしいですか」
突然の提案に戸惑いながらも、「はい!」と彼女が答えると、先生は「『信心のプリンセス』はどうだろうか」と。
そしてこう続けた。
「どうか、妙法の歴史をつづり、妙法の大きな勝利を開きゆく人生を送ってください。皆さんの努力に、心から感謝します」
感動で、胸がいっぱいになったホルムさん。「ありがとうございます!」と震える声を振り絞った。
この折のスウェーデン訪問で、先生は国王や首相など国家要人と会見している。その先生が、入会間もない一人の青年をこれほど励ましてくれた……。
「広宣流布のために生涯、戦おうと誓った原点です。先生に頂いた"新しい名前"とともに、"新しい人生"が始まりました」
この直後、ホルムさんは、最難関である演劇学校の監督科への挑戦を決めた。"先生が自分を信じてくれている"。そう思えば、勇気が湧いた。そして応募者の中でただ1人、入学を勝ち取る。
卒業後は20年以上にわたり、舞台監督として活躍してきたホルムさん。広宣流布を祈りの中心に置く時、大きく人生が開ける——そのことを、身をもって感じている。
◇人間の光彩
真実の「一人」がいれば、そこから幸福の花園は広がる——。
先生はスピーチで、「これが、今日までの広宣流布の不動の方程式であった」と語り、「北欧の地も絶対に例外ではない」と力強く訴えた。
それは北欧の各地で一人立ち、広布の草創を開いた同志への、心からの励ましだった。そして、これから先、その道に続く人たちへのエールであった。
先生が訪問したデンマーク、ノルウェー、スウェーデン。そしてアイスランド、フィンランド。どの国でも、一人の勇者によってともされた仏法の灯は、全土を照らす人間主義の光となった。
師の励ましを受けた少年少女や青年部が、今、各国の広布のリーダーに育った。信仰で人生を開き、平和貢献や学問の道、文化・芸術の舞台で活躍する同志が多くいる。
かつて先生は、北欧訪問からの帰路、飛行機の窓から夜空に光るオーロラを眺めた。
後年、先生はこうつづっている。
「宇宙は、こんなにも輝きに満ちている。小宇宙である人間もまた、本来、まばゆい光に満ちているはずである。その人間の光彩をめざして、人間のなかへ、生命のなかへ、私は励ましの旅を、断固として続けよう」
半世紀を超える先生の励ましの旅。その中で育まれた"心の絆"は、北欧の同志の心の宇宙に燦然と輝く。
この師弟の絆を"導きの星"として、友はこれからも、勝利の人生を朗らかに進む。
2018年9月8日土曜日
2018.09.08 わが友に贈る
北海道・関西はじめ
各地で被災された方々の
早期復興を祈ります。
救援・激励に当たる
皆様も絶対無事故で!
立正安国論 P32
『汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや』
【通解】
あなたは一刻も早く、誤った信仰の寸心を改めて、速やかに実乗(法華経)の一善に帰依しなさい。
そうすれば、この三界(欲界・色界・無色界)は皆、仏国土である。仏国土であるならば、どうして衰微することがあろうか。
十方の国土はことごとく宝土である。宝土であれば、どうして破壊されることがあろうか。
〈寸鉄〉 2018年9月8日
歴史的な日中提言50周年永久に輝く信義と友誼。我らが「金の橋」を未来へ
『新・人間革命』が完結。さあ心も新たに栄光凱歌の日記文書を!師と共に
宮崎の日。妙法に行き詰まりはない!地域照らす"励ましの太陽"と光れ
「いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ」御書。試練こそ成長の因
世界で14億人が運動不足—調査。友の為に歩く学会活動は心身共の健康法
☆虹を懸ける 池田先生と北欧� 2018年8月15日
◇幸福の波は一人から
池田先生とSGIメンバーの出会いをつづる「虹を懸ける」。今回から4回にわたり、北欧のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンで刻まれた共戦のドラマを紹介する。
初代会長の牧口常三郎先生が、『創価教育学体系』の序文の中で言及した師弟がある。"近代デンマーク精神の父"と呼ばれる教育者グルントヴィと、弟子のコルである。
19世紀、グルントヴィは「国民高等学校」を構想。その設立と普及に努めたのが、師の構想を継いだコルだった。牧口先生はこの史実に触れながら、『創価教育学体系』の発刊も、戸田城聖先生の奮闘なくしてはありえなかったと述べている。そして、その愛弟子の姿に、「創価教育学の前途に一点の光明を認めた」と記した。
恩師・戸田先生の遺志を胸に、世界に仏法の種をまき続けた池田先生の闘争もまた、各国で広布の「一点の光明」となりゆく同志を励ます旅であった。
先生のヨーロッパ激励行の第一歩は、デンマークにしるされた。
◇地涌の菩薩よ
「北欧の玄関口」と呼ばれる、デンマークの首都コペンハーゲン。池田先生を乗せた飛行機が、この地に降り立ったのは1961年10月5日。現地時間の午前7時過ぎだった。
当時、デンマークにまだメンバーはいなかった。コペンハーゲン市内を歩きながら、先生は"やがて地涌の菩薩が出現するように"と、大地に題目を染み込ませていった。
3年後の64年10月、先生は再びデンマークを訪れている。
同国SGI理事長のヤン・モラーさんが、仏法を知ったのはその頃のこと。アスコーにある国民高等学校に入り、寮でルームメートになった日本人が学会員だった。
題目に興味を持ったモラーさんは、創価学会のことをもっとよく知りたいと、単身、日本へと向かう。シベリア鉄道から船へと乗り継ぎ、68年5月、横浜港に到着した。
直後の6月1日、東京・台東体育館で開催された男子部幹部会。モラーさんにとって、生まれて初めて参加する学会の会合だった。
壇上にいた池田先生は、会場を埋め尽くす若人の中に金髪のモラー青年を見つけた。
あいさつに立つやいなや、「きょうは、外国人の同志も参加されています」と。モラーさんを前方に招き、固い握手を交わした。
この時、先生は「壇上からあいさつするかたちになってしまい、申し訳ない。でも御本尊の前では、みんな平等だからね」と。
モラーさんは「先生の大きな心に包まれた感動は、今でも忘れられません」と語る。
日本に滞在した半年間、多くの座談会に参加した。「日本語は分かりませんでしたが、いつも明るく、躍動感に満ちていました」
デンマークに帰国すると、コペンハーゲン大学に入って日本語や日本文化を学んだ。御書を研さんし、先生の指導を学び深めながら、同国広布の草創を開いていく。
デンマークは自由を重んじる国。同時に、宗教に疑問を抱く人は多い。弘教はなかなか進まなかった。
悩みに直面するたびに、師との原点を思い出し、自らを鼓舞したモラーさん。"必ず、広布の道を開いてみせる"と強盛に祈った。メンバーがいると聞けば、車やフェリーを使って、デンマーク全土を励ましに駆けた。
やがてその労苦は、花を咲かせ始める。新会員と新たな活動者が誕生し、広布の水かさは増していった。
◇断じて行く
2度目のデンマーク訪問に先立つ64年10月16日、先生はノルウェーを初訪問した。
東南アジア、中東、ヨーロッパの10カ国を回る旅は最終盤に入っていた。先生の体調を気遣い、ノルウェー訪問の中止を進言する同行幹部もいた。
だが先生は、即座に言った。"たった一人で頑張っている人がいるからこそ、私は断じて行く"と。
その「一人」とは、ヒロシ・イシバシさん(ノルウェーSGI最高参与)。当時、首都オスロの日本大使館で、調理師として働いていた。
千葉県出身のイシバシさんは、15歳で東京・銀座の料亭に弟子入り。料理の師匠の紹介で信心を始めた。
しばらくして、セイロン(現在のスリランカ)の日本大使館に調理師として勤務するように。61年1月、先生がインドに向かう途中、セイロンの首都コロンボに立ち寄った折、出会いを結んだ。
大使のノルウェー転任に伴い、同国へ渡ったイシバシさん。ほとんど会員がいない国で奮闘するイシバシさんに会うため、先生はノルウェー行きを決めたのだ。
オスロの空港で迎えたイシバシさんを見つけると、先生は、笑顔で再会を喜んだ。イシバシさんと一緒に来ていた大使館の運転手である青年も招き、宿舎の一室で懇談。
オスロ滞在中、先生はフログネル公園や、北極、南極の探検船を展示した博物館などを訪れている。イシバシさんと並んで歩きながら、生活の苦労の話に耳を傾けた。
ある時、宿舎の近くを散策していた先生は小さな石を拾い、大事そうに上着のポケットに入れた。その光景を、イシバシさんは今も心にとどめている。
「セイロンでも、ノルウェーでも、先生はたった一人の私を励ましに来てくださった。ただの石でもダイヤモンドのように大切にされるのが、先生のお心だと知りました」
オスロを発つ前、先生はイシバシさんに語った。「それぞれの国で誰か一人が立ち上がれば、必ず次の人が出てくる。幸福の波が広がっていく。あなたが立てばいいんだよ」
この指針を胸に、妻のエミコさんと共に、国土の7割を占める山を越え、広布に奔走したイシバシさん。大使の離任後も、料理人としてノルウェーに残った。とはいえ、日本食文化は社会にまだ根付いておらず、ホテルでウエーターの下働きから始まった。
苦しい時も、広布の"一粒種"となり、日本料理の"第一人者"になるとの師への誓願が背中を押した。包丁を握るチャンスが訪れれば、自慢の腕を振るった。やがてコック長にも抜てきされた。
独立し、「桜」という名前のレストランを開いた。さらに会社を立ち上げ、系列の和食レストランを12店舗にまで広げた。
「自分の決めた広布の道、料理の道を真っすぐに進んでくることができました」とイシバシさん。師への感謝の心が輝く。
◇冥益の人生
ノルウェーの隣国・スウェーデンでも、広布の灯がともったのは60年代であった。
同国SGI婦人部のヤエコ・シューグレンさんが64年、結婚を機に首都ストックホルムに移った時、一人の信心の先輩がいた。上原鏡子さんである。
上原さんは日本で入会し、60年、勤め先の関係で、スウェーデンに渡った。
62年、先生は本の扉に「冥益」と書き、上原さんに贈った。翌63年1月にも、ヨーロッパ総支部とパリ支部の結成大会に出席したパリで、上原さんを励ましている。
地道な信仰を貫き、大きな福徳を積みゆく"冥益の人生"——師が示したままに広布に生きる喜びを、上原さんはスウェーデンの同志と分かち合った。
シューグレンさんもその一人。上原さんと会い、勤行と教学研さんに励むことが信心の滋養となった。「御本尊と先生から離れてはだめよ」と語る上原さんから、水の流れるような信心を教わった。
上原さんはストックホルムだけでなく、メンバーが住む西部の都市イエーテボリ、南部の都市マルメにも足を運んだ。彼女の励ましの中で生活苦を勝ち越え、広布の草創を支えた人が多くいる。
広布の伸展を見届けながら、上原さんは79年、故郷の鹿児島で生涯を閉じた。後年、先生はその生涯について言及している。
「(スウェーデンの広布を支えたのは)上原鏡子さんという、鹿児島出身の女子部員です。『スウェーデンは私一人で開いていきます』と言ってくれた」
「頼れる人もいない。言葉もそれほど上手ではない。しかし彼女は掃除や皿洗いをしながら生活費を切り詰めて戦ったんだ。無名の、このような人々をこそ、私は励まし、宣揚したい」
スウェーデンの副婦人部長などを歴任したシューグレンさんは、86歳の今も元気に広布に走る。次代の青年の成長を、うれしそうに見つめながら。
どの国でも、地涌の使命を自覚した一人から、今日の世界広布は開かれた。その道に続く人を励まし、たたえる先生との師弟の共戦譜は、さらに続く。
☆虹を懸ける 池田先生と北欧� 2018年8月19日
◇"創価家族"の和楽の前進
池田先生がデンマークとノルウェーを訪問した1960年代、両国をはじめ北欧の各地で、広布の礎が築かれていった。
ムツコ・ディゲルネスさん(ノルウェーSGI総合婦人部長)は66年、日本で入会。船舶会社に勤めていたノルウェー人の夫は信心に反対で、生まれた2人の子どもについても「入会は認めないよ」との一点張りだった。
夫の転勤でタイに住み始めると、ディゲルネスさんは英語版機関誌「セイキョウ・タイムズ」を毎月、読んでは信仰に励んだ。
そんなある日、「僕も信心をやるよ」と夫が一言。知らないところで、机に置かれたセイキョウ・タイムズを読み、仏法への理解を深めていたのだ。念願だった、一家和楽が実現する。
75年2月、家族でノルウェーに移住。同年5月、夫は先生が出席したフランス・パリでの会合に参加する機会があった。
終了後、夫のもとに歩み寄った先生は、肩を抱きながら、「(ノルウェー広布の"一粒種"の)イシバシさんを支えて、ノルウェーを頼むよ」と温かな励ましを送った。
この直後、夫に肺がんが見つかった。それでも先生の励ましに勇気をもらい、命を振り絞って、広布の活動に励んだ。更賜寿命し、77年1月に生涯を閉じた夫は、生前、ディゲルネスさんに語った。「子どもたちを、広布の人材に育てるんだよ。それが先生との約束だから」と。
その後、ディゲルネスさんは言葉の壁や経済苦に直面しながら、"唱題の人は、勝利の人"との先生の指針を胸に、歯を食いしばった。清掃業や老人ホームでの仕事で生計を立てながら、広布を開拓していった。2000年から9年間、同国の婦人部長を務めた。
亡き夫の遺志を継いだ子どもたちも、広布の庭で育った。長女のアウドさんは同国の女子部長、青年部長を経て、今、理事長として全土を駆ける。
◇自分らしく
サツキ・イノウエさん(デンマークSGI婦人部アドバイザー)は68年、日本で入会した。大学卒業後、デンマークの国民高等学校でデンマーク語と英語を学ぶ。その後も首都コペンハーゲンで、住み込みの家事手伝いとして働いた。
当時、同国の会員はまだ少なかった。イノウエさんらはフェリーに乗り、コペンハーゲンと海峡の対岸にあるスウェーデンのマルメにも通いながら、学会活動に励んだ。
73年5月、パリで参加した会合で、池田先生との出会いがあった。先生は、イノウエさんに「よく来たね」と優しく語り掛けた。
当時、自分に自信がないことが悩みだったイノウエさん。先生の激励を胸に、"自分らしく生きよう"と心が決まった。就職活動にも生き生きと臨み、日系の航空会社から採用を得た。
同じくパリで師との出会いを刻んだ夫と、74年に結婚。生後間もない長男を亡くす悲しみにも遭ったが、夫婦で乗り越えた。夫はデンマークの青年部長、書記長を務めながら、ヨーロッパ各地を奔走した。
その夫が93年、病のため、44歳の若さで亡くなった。当時、次男のサトルさんは15歳、三男のキヨシさんは12歳。悲しみに暮れるイノウエさんに、希望を送り続けたのは先生であった。
その年、日本で海外のメンバーと懇談した先生は、イノウエさんの状況を聞き、"頑張るんだよ。お題目を送っているよ"と渾身の励ましを。イノウエさんは大粒の涙を流しながら、一歩も引かないと誓った。
仕事と子育て、そして広布の活動に挑戦し抜いた。航空会社とその関連会社には40年間勤め、信頼を広げた。
2人の息子も広布後継の人材に。サトルさんは、デンマーク男子部長を務めた。共にデザイナーとして活躍する2人は2004年、独自のブランドを設立。新進気鋭のアーティストとして今、注目を集める。
本年、イノウエさんは入会50年。「家族皆で広布の人生を歩めたことが、何よりの幸せです。感謝を胸に、青年部の成長を見守り、応援していきます」
◇広布のロマン
東京出身のヨウコ・ハーディングさん(スウェーデンSGI総合婦人部長)も、高等部時代、世界広布のロマンに夢を膨らませた。
スウェーデンに会員がいることを学会書籍で知り、1971年に初めて同国を訪れた。そして77年、ビザを取得して首都ストックホルムに移住した。
その直前、思いがけず先生との出会いがあった。出発の報告をすると、先生は「そうか、スウェーデンに行くんだね」とうれしそうにうなずき、真心の励ましを送った。
当時、スウェーデンの活動はストックホルム、イエーテボリ、マルメが中心。哲学と議論が好まれる同国の社会に、生命尊厳の仏法の哲理を広げていた。
ハーディングさんは信心に励みながら、スウェーデンで「公認ガイド」の資格を取得した。79年にフリーランスのガイド、通訳として仕事を始め、国内外に活躍の舞台を広げてきた。
81年、フランスのトレッツで行われた会合に参加した時のこと。先生は、スウェーデンでの生活や気候について尋ねながら、「困ったことがあれば、何でも言うんだよ」と。
ハーディングさんは「先生はずっと見守ってくださっていたのだと、感動で胸がいっぱいでした」と語る。
84年、スウェーデンで「核兵器——現代世界の脅威」展が開かれた。この頃には、日本から渡って草創期を支えたメンバーと共に、現地で生まれ育ったメンバーも多く信心に励むようになっていた。
そうした広布のうねりの中で、スウェーデン、そして北欧の同志は、大きな節目を迎える。89年6月の、池田先生のスウェーデン訪問である。
この年、先生は1カ月以上にわたってヨーロッパを歴訪した。イギリスに次ぐ訪問地として、ストックホルムの空港に到着したのは6月1日の午後5時半ごろだった。
当時、ハーディングさんは全国婦人部長。2児の母でもあった。宿舎で先生を歓迎した時、それまでの苦労が報われた思いがし、感極まって涙があふれた。そんな彼女を先生は、温かく包み込むように激励した。
先生の滞在中、ハーディングさんは陰で行事運営を支えながら、宝の原点を刻んだ。
◇親孝行の人生
この訪問で先生は、グスタフ国王、カールソン首相ら国家要人との会見、国立東洋美術館での"自然との対話"写真展の特別鑑賞会などに出席。その間隙を縫って6月3日、スウェーデン文化会館の開館式に出席した。
その折、忘れ得ぬ出会いを結んだのが、男子部長だったフレドリック・フルトマンさん(スウェーデンSGI理事長)である。
学生時代に信心を始めたフルトマンさん。両親は別居し、フルトマンさんは12歳の時から、父のカールアクセルさんと暮らしていた。息子から信心の話を聞き、父はまず1年間、題目三唱を実践するようになった。
英語の御書を読み始めた父は、弁護士だったこともあり、仏法の論理性にも興味を持った。毎日の唱題は、やがて2時間に。82年、晴れて入会した。
89年、二人はスウェーデン文化会館で先生を迎えた。親子そろっての懇談で、先生は、カールアクセルさんに「息子さんに一つ、アドバイスをしてもいいですか」と。そして、フルトマンさんの目を見て言った。「お父さんを徹底して守っていきなさい。もっと親孝行するんだよ」
フルトマンさんは、意外な思いがした。「私は父に、仏法を教えることができた。これ以上の親孝行はないと思っていました」
実はこの前日、父は先生と言葉を交わしていた。「息子に感謝しています。私を折伏してくれたんです」と話すカールアクセルさんに、先生は「それだけでは、親孝行は十分ではないのです」と応じた。
当時を振り返るたびに、フルトマンさんは師の慈愛の深さに胸を熱くする。
「幼少期、父と離れて暮らしていた私は、さびしい思いをしていました。そのわだかまりは、ずっと心に残っていました」「一方で私にとって、池田先生は父のような存在です。その先生が、"あなたはお父さんの息子なのだよ"と、伝えてくれたのではないかと思ったのです」
先生との出会いの7年後、カールアクセルさんは、がんで生涯を終えた。生前、親子で先生との思い出を振り返った。病床の父は、フルトマンさんに言った。「お前以上の息子はいない。私は私の人生に、何の後悔もないよ」と。
"2人の父"から受けた愛情と優しさを受け継ぎ、今、フルトマンさんは理事長として同志を励ます。自らも父となり、長男は男子部本部長を務める。
フルトマンさんは、ストックホルム市内に三つの建物を持つレンタルオフィス会社を経営し、社会でも実証を示す。
先生のスウェーデン訪問の折に生まれた、いくつもの出会いのドラマ。ここから、北欧の"創価家族"の和楽の前進が始まる。
各地で被災された方々の
早期復興を祈ります。
救援・激励に当たる
皆様も絶対無事故で!
立正安国論 P32
『汝早く信仰の寸心を改めて速に実乗の一善に帰せよ、然れば則ち三界は皆仏国なり仏国其れ衰んや十方は悉く宝土なり宝土何ぞ壊れんや』
【通解】
あなたは一刻も早く、誤った信仰の寸心を改めて、速やかに実乗(法華経)の一善に帰依しなさい。
そうすれば、この三界(欲界・色界・無色界)は皆、仏国土である。仏国土であるならば、どうして衰微することがあろうか。
十方の国土はことごとく宝土である。宝土であれば、どうして破壊されることがあろうか。
〈寸鉄〉 2018年9月8日
歴史的な日中提言50周年永久に輝く信義と友誼。我らが「金の橋」を未来へ
『新・人間革命』が完結。さあ心も新たに栄光凱歌の日記文書を!師と共に
宮崎の日。妙法に行き詰まりはない!地域照らす"励ましの太陽"と光れ
「いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ」御書。試練こそ成長の因
世界で14億人が運動不足—調査。友の為に歩く学会活動は心身共の健康法
☆虹を懸ける 池田先生と北欧� 2018年8月15日
◇幸福の波は一人から
池田先生とSGIメンバーの出会いをつづる「虹を懸ける」。今回から4回にわたり、北欧のデンマーク、ノルウェー、スウェーデンで刻まれた共戦のドラマを紹介する。
初代会長の牧口常三郎先生が、『創価教育学体系』の序文の中で言及した師弟がある。"近代デンマーク精神の父"と呼ばれる教育者グルントヴィと、弟子のコルである。
19世紀、グルントヴィは「国民高等学校」を構想。その設立と普及に努めたのが、師の構想を継いだコルだった。牧口先生はこの史実に触れながら、『創価教育学体系』の発刊も、戸田城聖先生の奮闘なくしてはありえなかったと述べている。そして、その愛弟子の姿に、「創価教育学の前途に一点の光明を認めた」と記した。
恩師・戸田先生の遺志を胸に、世界に仏法の種をまき続けた池田先生の闘争もまた、各国で広布の「一点の光明」となりゆく同志を励ます旅であった。
先生のヨーロッパ激励行の第一歩は、デンマークにしるされた。
◇地涌の菩薩よ
「北欧の玄関口」と呼ばれる、デンマークの首都コペンハーゲン。池田先生を乗せた飛行機が、この地に降り立ったのは1961年10月5日。現地時間の午前7時過ぎだった。
当時、デンマークにまだメンバーはいなかった。コペンハーゲン市内を歩きながら、先生は"やがて地涌の菩薩が出現するように"と、大地に題目を染み込ませていった。
3年後の64年10月、先生は再びデンマークを訪れている。
同国SGI理事長のヤン・モラーさんが、仏法を知ったのはその頃のこと。アスコーにある国民高等学校に入り、寮でルームメートになった日本人が学会員だった。
題目に興味を持ったモラーさんは、創価学会のことをもっとよく知りたいと、単身、日本へと向かう。シベリア鉄道から船へと乗り継ぎ、68年5月、横浜港に到着した。
直後の6月1日、東京・台東体育館で開催された男子部幹部会。モラーさんにとって、生まれて初めて参加する学会の会合だった。
壇上にいた池田先生は、会場を埋め尽くす若人の中に金髪のモラー青年を見つけた。
あいさつに立つやいなや、「きょうは、外国人の同志も参加されています」と。モラーさんを前方に招き、固い握手を交わした。
この時、先生は「壇上からあいさつするかたちになってしまい、申し訳ない。でも御本尊の前では、みんな平等だからね」と。
モラーさんは「先生の大きな心に包まれた感動は、今でも忘れられません」と語る。
日本に滞在した半年間、多くの座談会に参加した。「日本語は分かりませんでしたが、いつも明るく、躍動感に満ちていました」
デンマークに帰国すると、コペンハーゲン大学に入って日本語や日本文化を学んだ。御書を研さんし、先生の指導を学び深めながら、同国広布の草創を開いていく。
デンマークは自由を重んじる国。同時に、宗教に疑問を抱く人は多い。弘教はなかなか進まなかった。
悩みに直面するたびに、師との原点を思い出し、自らを鼓舞したモラーさん。"必ず、広布の道を開いてみせる"と強盛に祈った。メンバーがいると聞けば、車やフェリーを使って、デンマーク全土を励ましに駆けた。
やがてその労苦は、花を咲かせ始める。新会員と新たな活動者が誕生し、広布の水かさは増していった。
◇断じて行く
2度目のデンマーク訪問に先立つ64年10月16日、先生はノルウェーを初訪問した。
東南アジア、中東、ヨーロッパの10カ国を回る旅は最終盤に入っていた。先生の体調を気遣い、ノルウェー訪問の中止を進言する同行幹部もいた。
だが先生は、即座に言った。"たった一人で頑張っている人がいるからこそ、私は断じて行く"と。
その「一人」とは、ヒロシ・イシバシさん(ノルウェーSGI最高参与)。当時、首都オスロの日本大使館で、調理師として働いていた。
千葉県出身のイシバシさんは、15歳で東京・銀座の料亭に弟子入り。料理の師匠の紹介で信心を始めた。
しばらくして、セイロン(現在のスリランカ)の日本大使館に調理師として勤務するように。61年1月、先生がインドに向かう途中、セイロンの首都コロンボに立ち寄った折、出会いを結んだ。
大使のノルウェー転任に伴い、同国へ渡ったイシバシさん。ほとんど会員がいない国で奮闘するイシバシさんに会うため、先生はノルウェー行きを決めたのだ。
オスロの空港で迎えたイシバシさんを見つけると、先生は、笑顔で再会を喜んだ。イシバシさんと一緒に来ていた大使館の運転手である青年も招き、宿舎の一室で懇談。
オスロ滞在中、先生はフログネル公園や、北極、南極の探検船を展示した博物館などを訪れている。イシバシさんと並んで歩きながら、生活の苦労の話に耳を傾けた。
ある時、宿舎の近くを散策していた先生は小さな石を拾い、大事そうに上着のポケットに入れた。その光景を、イシバシさんは今も心にとどめている。
「セイロンでも、ノルウェーでも、先生はたった一人の私を励ましに来てくださった。ただの石でもダイヤモンドのように大切にされるのが、先生のお心だと知りました」
オスロを発つ前、先生はイシバシさんに語った。「それぞれの国で誰か一人が立ち上がれば、必ず次の人が出てくる。幸福の波が広がっていく。あなたが立てばいいんだよ」
この指針を胸に、妻のエミコさんと共に、国土の7割を占める山を越え、広布に奔走したイシバシさん。大使の離任後も、料理人としてノルウェーに残った。とはいえ、日本食文化は社会にまだ根付いておらず、ホテルでウエーターの下働きから始まった。
苦しい時も、広布の"一粒種"となり、日本料理の"第一人者"になるとの師への誓願が背中を押した。包丁を握るチャンスが訪れれば、自慢の腕を振るった。やがてコック長にも抜てきされた。
独立し、「桜」という名前のレストランを開いた。さらに会社を立ち上げ、系列の和食レストランを12店舗にまで広げた。
「自分の決めた広布の道、料理の道を真っすぐに進んでくることができました」とイシバシさん。師への感謝の心が輝く。
◇冥益の人生
ノルウェーの隣国・スウェーデンでも、広布の灯がともったのは60年代であった。
同国SGI婦人部のヤエコ・シューグレンさんが64年、結婚を機に首都ストックホルムに移った時、一人の信心の先輩がいた。上原鏡子さんである。
上原さんは日本で入会し、60年、勤め先の関係で、スウェーデンに渡った。
62年、先生は本の扉に「冥益」と書き、上原さんに贈った。翌63年1月にも、ヨーロッパ総支部とパリ支部の結成大会に出席したパリで、上原さんを励ましている。
地道な信仰を貫き、大きな福徳を積みゆく"冥益の人生"——師が示したままに広布に生きる喜びを、上原さんはスウェーデンの同志と分かち合った。
シューグレンさんもその一人。上原さんと会い、勤行と教学研さんに励むことが信心の滋養となった。「御本尊と先生から離れてはだめよ」と語る上原さんから、水の流れるような信心を教わった。
上原さんはストックホルムだけでなく、メンバーが住む西部の都市イエーテボリ、南部の都市マルメにも足を運んだ。彼女の励ましの中で生活苦を勝ち越え、広布の草創を支えた人が多くいる。
広布の伸展を見届けながら、上原さんは79年、故郷の鹿児島で生涯を閉じた。後年、先生はその生涯について言及している。
「(スウェーデンの広布を支えたのは)上原鏡子さんという、鹿児島出身の女子部員です。『スウェーデンは私一人で開いていきます』と言ってくれた」
「頼れる人もいない。言葉もそれほど上手ではない。しかし彼女は掃除や皿洗いをしながら生活費を切り詰めて戦ったんだ。無名の、このような人々をこそ、私は励まし、宣揚したい」
スウェーデンの副婦人部長などを歴任したシューグレンさんは、86歳の今も元気に広布に走る。次代の青年の成長を、うれしそうに見つめながら。
どの国でも、地涌の使命を自覚した一人から、今日の世界広布は開かれた。その道に続く人を励まし、たたえる先生との師弟の共戦譜は、さらに続く。
☆虹を懸ける 池田先生と北欧� 2018年8月19日
◇"創価家族"の和楽の前進
池田先生がデンマークとノルウェーを訪問した1960年代、両国をはじめ北欧の各地で、広布の礎が築かれていった。
ムツコ・ディゲルネスさん(ノルウェーSGI総合婦人部長)は66年、日本で入会。船舶会社に勤めていたノルウェー人の夫は信心に反対で、生まれた2人の子どもについても「入会は認めないよ」との一点張りだった。
夫の転勤でタイに住み始めると、ディゲルネスさんは英語版機関誌「セイキョウ・タイムズ」を毎月、読んでは信仰に励んだ。
そんなある日、「僕も信心をやるよ」と夫が一言。知らないところで、机に置かれたセイキョウ・タイムズを読み、仏法への理解を深めていたのだ。念願だった、一家和楽が実現する。
75年2月、家族でノルウェーに移住。同年5月、夫は先生が出席したフランス・パリでの会合に参加する機会があった。
終了後、夫のもとに歩み寄った先生は、肩を抱きながら、「(ノルウェー広布の"一粒種"の)イシバシさんを支えて、ノルウェーを頼むよ」と温かな励ましを送った。
この直後、夫に肺がんが見つかった。それでも先生の励ましに勇気をもらい、命を振り絞って、広布の活動に励んだ。更賜寿命し、77年1月に生涯を閉じた夫は、生前、ディゲルネスさんに語った。「子どもたちを、広布の人材に育てるんだよ。それが先生との約束だから」と。
その後、ディゲルネスさんは言葉の壁や経済苦に直面しながら、"唱題の人は、勝利の人"との先生の指針を胸に、歯を食いしばった。清掃業や老人ホームでの仕事で生計を立てながら、広布を開拓していった。2000年から9年間、同国の婦人部長を務めた。
亡き夫の遺志を継いだ子どもたちも、広布の庭で育った。長女のアウドさんは同国の女子部長、青年部長を経て、今、理事長として全土を駆ける。
◇自分らしく
サツキ・イノウエさん(デンマークSGI婦人部アドバイザー)は68年、日本で入会した。大学卒業後、デンマークの国民高等学校でデンマーク語と英語を学ぶ。その後も首都コペンハーゲンで、住み込みの家事手伝いとして働いた。
当時、同国の会員はまだ少なかった。イノウエさんらはフェリーに乗り、コペンハーゲンと海峡の対岸にあるスウェーデンのマルメにも通いながら、学会活動に励んだ。
73年5月、パリで参加した会合で、池田先生との出会いがあった。先生は、イノウエさんに「よく来たね」と優しく語り掛けた。
当時、自分に自信がないことが悩みだったイノウエさん。先生の激励を胸に、"自分らしく生きよう"と心が決まった。就職活動にも生き生きと臨み、日系の航空会社から採用を得た。
同じくパリで師との出会いを刻んだ夫と、74年に結婚。生後間もない長男を亡くす悲しみにも遭ったが、夫婦で乗り越えた。夫はデンマークの青年部長、書記長を務めながら、ヨーロッパ各地を奔走した。
その夫が93年、病のため、44歳の若さで亡くなった。当時、次男のサトルさんは15歳、三男のキヨシさんは12歳。悲しみに暮れるイノウエさんに、希望を送り続けたのは先生であった。
その年、日本で海外のメンバーと懇談した先生は、イノウエさんの状況を聞き、"頑張るんだよ。お題目を送っているよ"と渾身の励ましを。イノウエさんは大粒の涙を流しながら、一歩も引かないと誓った。
仕事と子育て、そして広布の活動に挑戦し抜いた。航空会社とその関連会社には40年間勤め、信頼を広げた。
2人の息子も広布後継の人材に。サトルさんは、デンマーク男子部長を務めた。共にデザイナーとして活躍する2人は2004年、独自のブランドを設立。新進気鋭のアーティストとして今、注目を集める。
本年、イノウエさんは入会50年。「家族皆で広布の人生を歩めたことが、何よりの幸せです。感謝を胸に、青年部の成長を見守り、応援していきます」
◇広布のロマン
東京出身のヨウコ・ハーディングさん(スウェーデンSGI総合婦人部長)も、高等部時代、世界広布のロマンに夢を膨らませた。
スウェーデンに会員がいることを学会書籍で知り、1971年に初めて同国を訪れた。そして77年、ビザを取得して首都ストックホルムに移住した。
その直前、思いがけず先生との出会いがあった。出発の報告をすると、先生は「そうか、スウェーデンに行くんだね」とうれしそうにうなずき、真心の励ましを送った。
当時、スウェーデンの活動はストックホルム、イエーテボリ、マルメが中心。哲学と議論が好まれる同国の社会に、生命尊厳の仏法の哲理を広げていた。
ハーディングさんは信心に励みながら、スウェーデンで「公認ガイド」の資格を取得した。79年にフリーランスのガイド、通訳として仕事を始め、国内外に活躍の舞台を広げてきた。
81年、フランスのトレッツで行われた会合に参加した時のこと。先生は、スウェーデンでの生活や気候について尋ねながら、「困ったことがあれば、何でも言うんだよ」と。
ハーディングさんは「先生はずっと見守ってくださっていたのだと、感動で胸がいっぱいでした」と語る。
84年、スウェーデンで「核兵器——現代世界の脅威」展が開かれた。この頃には、日本から渡って草創期を支えたメンバーと共に、現地で生まれ育ったメンバーも多く信心に励むようになっていた。
そうした広布のうねりの中で、スウェーデン、そして北欧の同志は、大きな節目を迎える。89年6月の、池田先生のスウェーデン訪問である。
この年、先生は1カ月以上にわたってヨーロッパを歴訪した。イギリスに次ぐ訪問地として、ストックホルムの空港に到着したのは6月1日の午後5時半ごろだった。
当時、ハーディングさんは全国婦人部長。2児の母でもあった。宿舎で先生を歓迎した時、それまでの苦労が報われた思いがし、感極まって涙があふれた。そんな彼女を先生は、温かく包み込むように激励した。
先生の滞在中、ハーディングさんは陰で行事運営を支えながら、宝の原点を刻んだ。
◇親孝行の人生
この訪問で先生は、グスタフ国王、カールソン首相ら国家要人との会見、国立東洋美術館での"自然との対話"写真展の特別鑑賞会などに出席。その間隙を縫って6月3日、スウェーデン文化会館の開館式に出席した。
その折、忘れ得ぬ出会いを結んだのが、男子部長だったフレドリック・フルトマンさん(スウェーデンSGI理事長)である。
学生時代に信心を始めたフルトマンさん。両親は別居し、フルトマンさんは12歳の時から、父のカールアクセルさんと暮らしていた。息子から信心の話を聞き、父はまず1年間、題目三唱を実践するようになった。
英語の御書を読み始めた父は、弁護士だったこともあり、仏法の論理性にも興味を持った。毎日の唱題は、やがて2時間に。82年、晴れて入会した。
89年、二人はスウェーデン文化会館で先生を迎えた。親子そろっての懇談で、先生は、カールアクセルさんに「息子さんに一つ、アドバイスをしてもいいですか」と。そして、フルトマンさんの目を見て言った。「お父さんを徹底して守っていきなさい。もっと親孝行するんだよ」
フルトマンさんは、意外な思いがした。「私は父に、仏法を教えることができた。これ以上の親孝行はないと思っていました」
実はこの前日、父は先生と言葉を交わしていた。「息子に感謝しています。私を折伏してくれたんです」と話すカールアクセルさんに、先生は「それだけでは、親孝行は十分ではないのです」と応じた。
当時を振り返るたびに、フルトマンさんは師の慈愛の深さに胸を熱くする。
「幼少期、父と離れて暮らしていた私は、さびしい思いをしていました。そのわだかまりは、ずっと心に残っていました」「一方で私にとって、池田先生は父のような存在です。その先生が、"あなたはお父さんの息子なのだよ"と、伝えてくれたのではないかと思ったのです」
先生との出会いの7年後、カールアクセルさんは、がんで生涯を終えた。生前、親子で先生との思い出を振り返った。病床の父は、フルトマンさんに言った。「お前以上の息子はいない。私は私の人生に、何の後悔もないよ」と。
"2人の父"から受けた愛情と優しさを受け継ぎ、今、フルトマンさんは理事長として同志を励ます。自らも父となり、長男は男子部本部長を務める。
フルトマンさんは、ストックホルム市内に三つの建物を持つレンタルオフィス会社を経営し、社会でも実証を示す。
先生のスウェーデン訪問の折に生まれた、いくつもの出会いのドラマ。ここから、北欧の"創価家族"の和楽の前進が始まる。
2018年9月7日金曜日
2018.09.07 わが友に贈る
思いもよらぬ試練も
必ず変毒為薬できる!
皆が幸福になるための
人生であり信仰だ。
不屈の祈りを共々に!
経王殿御返事 P1124
『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ』
【通解】
(この御本尊は)日蓮が魂を墨に染めながして書き認めたのである。信じていきなさい。
〈寸鉄〉 2018年9月7日
信心ほど強く偉大な力はない—恩師。祈りが奥底にあれば全て前進の礎に
甚大な北海道の地震。被災者に心からお見舞い。全国の同志が題目を送る
鹿児島の日。歴史回天の地から正義の師子吼を!今こそ圧巻の拡大劇綴れ
私達が一日一日やっていることが歴史に—革命家励ましの語らいを今日も
風疹患者、昨年の3倍に。30代〜40代の男性が特に多く。予防接種等で対策
☆総県長会議での原田会長の指導(要旨) 2018年9月1日
◇異体同心で勝利へ 「励まし」と「座談会」を一段と充実
一、本年の折伏・弘教は、広宣流布大誓堂完成から「世界広布新時代」と銘打って以降、最高の水準で拡大が進んでおり、近年最高の結果となっています。この点について、全方面・県の大奮闘に心からの御礼を申し上げます。
いよいよ大誓堂完成5周年の「11・18」は目前です。各組織の折伏目標の達成、世帯増・部員増で荘厳してまいりたい。
また上半期は「SOKAキッズフェスタ」が好評を博しましたが、下半期も「七五三勤行会」の充実を図るなど、未入会家族の入会も応援していきたい。何より、「弘教を実らせることほど、すばらしい人生の栄光はありません」との指針を今再び確認して、一人でも多くの方が仏法対話に挑戦し、功徳の花が満開となるよう、最大に激励していきたいと思います。
そして全国最高協議会の折には、私たちが目指す次なる目標を2020年、創立90周年の「11・18」と定めました。「化城即宝処」(御書732ページ)の法理のままに、大いなる目標に向かい、大きく仏縁を広げてまいりたい。
◇誓願の貫徹を
一、9月8日——戸田先生の「原水爆禁止宣言」発表の日であり、池田先生の日中国交正常化提言から50周年という佳節の日に、小説『新・人間革命』は完結を迎え、今秋、第30巻の下巻が発刊となります。
先日の随筆には「『人間革命』『新・人間革命』は、わが全宝友と分かち合う黄金の日記文書なり、との思いで、私は綴ってきた。ゆえにそれは、連載の完結をもって終わるものでは決してない。我らは、これからも、未来永遠に、師弟共戦の『誓願』という主題を貫徹しながら、自他共の生命に栄光凱歌の日記文書を厳然と刻みゆくのだ!」と書き残してくださいました。
『新・人間革命』が完結してからこそが、池田門下の弟子が総立ちとなって、これまで以上の師弟共戦で新たな歴史を開きゆく、重要な時を迎えます。
まずは下半期を勝利で飾り、そして2020年の創立90周年へ断固、連続勝利していく。「人間革命 光あれ」の大叙事詩を師と共につづりゆく強き決意で、大前進していきたい。
一、拡大と勝利のために、ここで改めて、私たちの活動の根本は「一対一の激励」であり、最重要は「座談会」であることを確認したい。
下半期は、まず9月下旬まで広布部員の申し込みが行われます。お一人お一人に大きく福運が積まれるよう、申し込み時点から丁寧に進めてまいりたい。
訪問・激励に徹し、大誓堂完成5周年という意義深き時に、信心を深め、また信心に目覚め、学会活動に励んでいけるよう、最大に励ましていきたい。
そして今一重、座談会の充実にも力を入れたいと思います。新入会の方から、さまざまなご意見を頂戴する中で、入会の際に、座談会が最も印象の良い機会であり、座談会こそが最高の学会理解の場であることが、改めて浮き彫りになりました。
しかしながら、入会された後に「座談会は苦手」という方が意外に多いことも分かりました。具体的な声として「一方的に話を聞くだけで、絆が強まらない」「参加者の顔や名前が分からない」という声もいただきました。
当然、これは座談会への「期待の裏返し」でもあり、またリーダーが活動を真剣に訴えることも重要です。そのうえで、より大事なのは、文字通り"座談"の場となり、皆が信心を深め、学会理解を広げることにあります。
「大白蓮華」9月号に、池田先生は「人間革命の光は座談会から!」との巻頭言を贈ってくださいました。
会合内容についても、「体験」や「VOD」に加え、参加者同士の会話や質問会でコミュニケーションを深める。「友人や未入会家族の参加」「家族皆で参加」など、当日までの訪問・激励を強化して新たな参加者を増やす。
「みんなで祈り、自在に『随縁真如の智』を出し合って、世界一楽しい、わが地域の座談会を目指していこう!」との巻頭言での呼び掛けの通り、こうしたさまざまな智慧を出し、工夫を凝らして「座談会革命」に挑みながら、拡大と勝利への歩みを進めていきたいと思います。
◇「今日も元気で」50年
一、本日(8月31日)は、学会歌「今日も元気で」の発表から50周年という佳節です。婦人部の皆さん、大変におめでとうございます!(拍手)
また、来る本部幹部会は、8・24「壮年部の日」を記念する全国壮年部幹部会です。壮年部の皆さん、大変におめでとうございます!(拍手)
先生が繰り返し教えてくださっている通り、一切の勝利の鍵は「異体同心の団結」です。各部一体の団結、正役職と副役職の団結、そして、リーダー同士の団結であります。
小説『新・人間革命』第27巻「激闘」の章には「広宣流布をわが使命とし、異体同心のスクラムを組むなかで、創価学会仏の一員となり、崩れざる幸福を築くことができる」と明快につづられています。
さあ、『新・人間革命』を命に刻みながら、異体同心の団結で、大誓堂完成5周年から創立90周年へ断固、連続勝利していこうではありませんか!(拍手)
必ず変毒為薬できる!
皆が幸福になるための
人生であり信仰だ。
不屈の祈りを共々に!
経王殿御返事 P1124
『日蓮がたましひをすみにそめながしてかきて候ぞ信じさせ給へ』
【通解】
(この御本尊は)日蓮が魂を墨に染めながして書き認めたのである。信じていきなさい。
〈寸鉄〉 2018年9月7日
信心ほど強く偉大な力はない—恩師。祈りが奥底にあれば全て前進の礎に
甚大な北海道の地震。被災者に心からお見舞い。全国の同志が題目を送る
鹿児島の日。歴史回天の地から正義の師子吼を!今こそ圧巻の拡大劇綴れ
私達が一日一日やっていることが歴史に—革命家励ましの語らいを今日も
風疹患者、昨年の3倍に。30代〜40代の男性が特に多く。予防接種等で対策
☆総県長会議での原田会長の指導(要旨) 2018年9月1日
◇異体同心で勝利へ 「励まし」と「座談会」を一段と充実
一、本年の折伏・弘教は、広宣流布大誓堂完成から「世界広布新時代」と銘打って以降、最高の水準で拡大が進んでおり、近年最高の結果となっています。この点について、全方面・県の大奮闘に心からの御礼を申し上げます。
いよいよ大誓堂完成5周年の「11・18」は目前です。各組織の折伏目標の達成、世帯増・部員増で荘厳してまいりたい。
また上半期は「SOKAキッズフェスタ」が好評を博しましたが、下半期も「七五三勤行会」の充実を図るなど、未入会家族の入会も応援していきたい。何より、「弘教を実らせることほど、すばらしい人生の栄光はありません」との指針を今再び確認して、一人でも多くの方が仏法対話に挑戦し、功徳の花が満開となるよう、最大に激励していきたいと思います。
そして全国最高協議会の折には、私たちが目指す次なる目標を2020年、創立90周年の「11・18」と定めました。「化城即宝処」(御書732ページ)の法理のままに、大いなる目標に向かい、大きく仏縁を広げてまいりたい。
◇誓願の貫徹を
一、9月8日——戸田先生の「原水爆禁止宣言」発表の日であり、池田先生の日中国交正常化提言から50周年という佳節の日に、小説『新・人間革命』は完結を迎え、今秋、第30巻の下巻が発刊となります。
先日の随筆には「『人間革命』『新・人間革命』は、わが全宝友と分かち合う黄金の日記文書なり、との思いで、私は綴ってきた。ゆえにそれは、連載の完結をもって終わるものでは決してない。我らは、これからも、未来永遠に、師弟共戦の『誓願』という主題を貫徹しながら、自他共の生命に栄光凱歌の日記文書を厳然と刻みゆくのだ!」と書き残してくださいました。
『新・人間革命』が完結してからこそが、池田門下の弟子が総立ちとなって、これまで以上の師弟共戦で新たな歴史を開きゆく、重要な時を迎えます。
まずは下半期を勝利で飾り、そして2020年の創立90周年へ断固、連続勝利していく。「人間革命 光あれ」の大叙事詩を師と共につづりゆく強き決意で、大前進していきたい。
一、拡大と勝利のために、ここで改めて、私たちの活動の根本は「一対一の激励」であり、最重要は「座談会」であることを確認したい。
下半期は、まず9月下旬まで広布部員の申し込みが行われます。お一人お一人に大きく福運が積まれるよう、申し込み時点から丁寧に進めてまいりたい。
訪問・激励に徹し、大誓堂完成5周年という意義深き時に、信心を深め、また信心に目覚め、学会活動に励んでいけるよう、最大に励ましていきたい。
そして今一重、座談会の充実にも力を入れたいと思います。新入会の方から、さまざまなご意見を頂戴する中で、入会の際に、座談会が最も印象の良い機会であり、座談会こそが最高の学会理解の場であることが、改めて浮き彫りになりました。
しかしながら、入会された後に「座談会は苦手」という方が意外に多いことも分かりました。具体的な声として「一方的に話を聞くだけで、絆が強まらない」「参加者の顔や名前が分からない」という声もいただきました。
当然、これは座談会への「期待の裏返し」でもあり、またリーダーが活動を真剣に訴えることも重要です。そのうえで、より大事なのは、文字通り"座談"の場となり、皆が信心を深め、学会理解を広げることにあります。
「大白蓮華」9月号に、池田先生は「人間革命の光は座談会から!」との巻頭言を贈ってくださいました。
会合内容についても、「体験」や「VOD」に加え、参加者同士の会話や質問会でコミュニケーションを深める。「友人や未入会家族の参加」「家族皆で参加」など、当日までの訪問・激励を強化して新たな参加者を増やす。
「みんなで祈り、自在に『随縁真如の智』を出し合って、世界一楽しい、わが地域の座談会を目指していこう!」との巻頭言での呼び掛けの通り、こうしたさまざまな智慧を出し、工夫を凝らして「座談会革命」に挑みながら、拡大と勝利への歩みを進めていきたいと思います。
◇「今日も元気で」50年
一、本日(8月31日)は、学会歌「今日も元気で」の発表から50周年という佳節です。婦人部の皆さん、大変におめでとうございます!(拍手)
また、来る本部幹部会は、8・24「壮年部の日」を記念する全国壮年部幹部会です。壮年部の皆さん、大変におめでとうございます!(拍手)
先生が繰り返し教えてくださっている通り、一切の勝利の鍵は「異体同心の団結」です。各部一体の団結、正役職と副役職の団結、そして、リーダー同士の団結であります。
小説『新・人間革命』第27巻「激闘」の章には「広宣流布をわが使命とし、異体同心のスクラムを組むなかで、創価学会仏の一員となり、崩れざる幸福を築くことができる」と明快につづられています。
さあ、『新・人間革命』を命に刻みながら、異体同心の団結で、大誓堂完成5周年から創立90周年へ断固、連続勝利していこうではありませんか!(拍手)
2018年9月6日木曜日
2018.09.06 わが友に贈る
なにげない一言が
人を傷つけもすれば
心に光をともすことも。
ゆえに言葉を大切に!
一人の気持ちを大切に!
四条金吾殿御返事 P1192
『さてもさても敵人にねらはれさせ給いしか、前前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし』
【通解】
まったくのところ、あなたは敵人に狙われたにちがいない。普段からの用心といい、また勇気といい、また法華経への信心が強盛な故に、無事に存命することができたことは、本当にめでたいことである。
〈寸鉄〉 2018年9月6日
時の到来とともに戦いの雄叫びを上げて進むのだ—恩師。さあ創立の月へ
物を教ゆる師なくば畜生—御書。人生勝利の道は師弟に。青年よ学び続け
本幹中継の役員の皆様に感謝。仏の会座を支える功徳は燦然。必ず陽報と
多様な大人の中で過ごすと子供の語彙力が向上—専門家。学会の庭で育成
公明が参院議員歳費削減を提案。庶民目線で続々手を打て。立党精神胸に
☆第37回本部幹部会・壮年部幹部会への池田先生のメッセージ
◇創価の師弟は生死を超えた共戦の同志
◇不退の前進! 「いまだこりず候」と
一、ここ鶴見は、私が草創の神奈川の父母たちと広宣流布へ走り、「比類なき同志の団結」を築き広げてきた天地です。
1954年(昭和29年)の9月1日、私は鶴見支部での御書講義に臨みました。顕仏未来記を学び、「待ちに待った後半の闘争だ。さあ、この一年を悔いなく勝ち飾ろう!」と出発しました。
そして、その勢いのまま、翌年には新たな「立正安国」の勝利の金字塔を打ち立てたのです。
今日は、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパ、台湾、インド、アフリカ、韓国より、誉れの同志をお迎えすることができました。
尊き求道の旅を、心からねぎらい、熱烈に歓迎するとともに、全世界の創価家族とスクラムを組んで、「栄光」そして「勝利」の大前進を晴れやかに開始しようではありませんか!(大拍手)
◇不撓不屈の師子吼
一、本日は我ら壮年部の幹部会でもあります。その記念として、また皆さん方に応援をいただいた小説『新・人間革命』の完結の感謝を込めて、以前に書き留めた三つの書をお贈りします(大拍手)。
「人生不撓乃波」「人生円熟之輝」「生死不退乃心」との揮毫です。
御本仏・日蓮大聖人は、壮年門下の曾谷教信に仰せになられました。
「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候」(御書1056ページ)と。
戸田先生は、この一節を講義され、声を大にして「これだよ! 『いまだこりず候』だよ。わが創価学会の精神もここにある」と強調されました。
あの「原水爆禁止宣言」も、夕張炭労事件、大阪事件という迫害が打ち続く中で、1957年の9月8日、世界の民衆の生存を脅かす元凶の魔性に対し、いやまして不撓不屈の大精神で轟かせた師子吼であります。
さらに、東西冷戦の真っ只中で、私が「日中国交正常化」を提言したのは、原水爆禁止宣言より11年後の9月8日です。
平和へ、正義へ、人道へ、創価の世界市民は、草の根の対話の波を起こし、たゆまぬ行動の波を重ねてきました。まさに「人生不撓乃波」です。
核兵器の廃絶へ生涯を捧げられたパグウォッシュ会議のロートブラット博士も、我らの行動と連帯に深い信頼を寄せてくださいました。
一人一人が今いる場所から波を起こし、社会を変えていく力を結集することによって、「最後には、民衆が勝利するのです」と笑顔で語られておりました。
◇自行化他の題目を
一、若き日、ここ鶴見でも一軒また一軒、家庭訪問に歩いたことは、私の「今生人界の思出」(同467ページ)です。
病魔と闘う実直な壮年には、御聖訓を通して激励を贈りました。この当時はまだ、創価学会版の御書全集が発刊される前でしたので、御文を手帳に書き記して、一緒に声に出して拝読しました。
それは、四条金吾夫妻への仰せです。
「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ、これあに自受法楽にあらずや」(同1143ページ)
どんなに苦しくとも、自行化他の題目を唱え抜く生命に、打開できない試練などない。煩悩即菩提の信心で乗り越えた分、境涯を開き、悩める友や後輩たちを力強く励ませる。これが人間革命による「人生円熟之輝」です。
この希望の輝きによって、眷属も社会も未来も、赫々と照らし晴らしていけるのです。
今日は、団地部、地域部、勝利島部をはじめ、地域友好・地域広布の黄金のモデルと光るリーダーの皆さん方が出席されています。いつもいつも使命の最前線で、偉大な負けじ魂の開拓、本当にありがとう!(大拍手)
今、お隣の韓国の釜山では「法華経展」が意義深く開催されております。
法華経の肝要たる寿量品には、「我常在此娑婆世界、説法教化」(創価学会版法華経479ページ)とあります。仏は常に、生死の苦悩が渦巻く娑婆世界に在って、衆生のために妙法を説法教化すると示されております。
創価の師弟は、皆、久遠元初より、御本仏に直結する広宣流布の「誓願」を立て、この末法濁悪の娑婆世界に勇んで躍り出ました。まぎれもなく、三世永遠の絆で結ばれた正義と共戦の同志なのであります。
◇広布の誓願を貫く
一、1964年の12月2日、小説『人間革命』を沖縄で書き起こした日、私は凜々しき学生部の英才たちと固い握手を交わしました。皆、立派な広布と社会の指導者に大成してくれました。
その中の一人で、「この世で果たさん使命」を成し遂げ、多くの青年を育てて亡くなった沖縄健児は、生前、語っていました。
「次も沖縄に生まれてきたい。そして、広宣流布のために師弟で戦い勝って、愛する沖縄に、みんなの『人間革命』の大歓喜の舞を踊り広げたい」と。
生死を超えて広布の誓願を貫く「不退乃心」ほど、強いものはありません。
大聖人は、健気な母の「不退乃心」を讃えられつつ、「日蓮一度もしりぞく心なし」(御書1224ページ)と断言されました。
大聖人から「世界広布」と「立正安国」を託された地涌の菩薩の我らです。命の限り、「生死不退乃心」を燃やして、一人一人が朗らかに「円熟之輝」を放ちながら、人類の幸福と平和へ人間革命の「不撓乃波」を、いよいよ万波と起こしていこうではありませんか!
全同志の健康長寿と一家和楽の「人生の旅」を、そしてまた各国・各地の無事安穏と平和繁栄の大行進を祈りに祈って、私のメッセージといたします(大拍手)。
人を傷つけもすれば
心に光をともすことも。
ゆえに言葉を大切に!
一人の気持ちを大切に!
四条金吾殿御返事 P1192
『さてもさても敵人にねらはれさせ給いしか、前前の用心といひ又けなげといひ又法華経の信心つよき故に難なく存命せさせ給い目出たし目出たし』
【通解】
まったくのところ、あなたは敵人に狙われたにちがいない。普段からの用心といい、また勇気といい、また法華経への信心が強盛な故に、無事に存命することができたことは、本当にめでたいことである。
〈寸鉄〉 2018年9月6日
時の到来とともに戦いの雄叫びを上げて進むのだ—恩師。さあ創立の月へ
物を教ゆる師なくば畜生—御書。人生勝利の道は師弟に。青年よ学び続け
本幹中継の役員の皆様に感謝。仏の会座を支える功徳は燦然。必ず陽報と
多様な大人の中で過ごすと子供の語彙力が向上—専門家。学会の庭で育成
公明が参院議員歳費削減を提案。庶民目線で続々手を打て。立党精神胸に
☆第37回本部幹部会・壮年部幹部会への池田先生のメッセージ
◇創価の師弟は生死を超えた共戦の同志
◇不退の前進! 「いまだこりず候」と
一、ここ鶴見は、私が草創の神奈川の父母たちと広宣流布へ走り、「比類なき同志の団結」を築き広げてきた天地です。
1954年(昭和29年)の9月1日、私は鶴見支部での御書講義に臨みました。顕仏未来記を学び、「待ちに待った後半の闘争だ。さあ、この一年を悔いなく勝ち飾ろう!」と出発しました。
そして、その勢いのまま、翌年には新たな「立正安国」の勝利の金字塔を打ち立てたのです。
今日は、アメリカ、ブラジル、ヨーロッパ、台湾、インド、アフリカ、韓国より、誉れの同志をお迎えすることができました。
尊き求道の旅を、心からねぎらい、熱烈に歓迎するとともに、全世界の創価家族とスクラムを組んで、「栄光」そして「勝利」の大前進を晴れやかに開始しようではありませんか!(大拍手)
◇不撓不屈の師子吼
一、本日は我ら壮年部の幹部会でもあります。その記念として、また皆さん方に応援をいただいた小説『新・人間革命』の完結の感謝を込めて、以前に書き留めた三つの書をお贈りします(大拍手)。
「人生不撓乃波」「人生円熟之輝」「生死不退乃心」との揮毫です。
御本仏・日蓮大聖人は、壮年門下の曾谷教信に仰せになられました。
「此法門を日蓮申す故に忠言耳に逆う道理なるが故に流罪せられ命にも及びしなり、然どもいまだこりず候」(御書1056ページ)と。
戸田先生は、この一節を講義され、声を大にして「これだよ! 『いまだこりず候』だよ。わが創価学会の精神もここにある」と強調されました。
あの「原水爆禁止宣言」も、夕張炭労事件、大阪事件という迫害が打ち続く中で、1957年の9月8日、世界の民衆の生存を脅かす元凶の魔性に対し、いやまして不撓不屈の大精神で轟かせた師子吼であります。
さらに、東西冷戦の真っ只中で、私が「日中国交正常化」を提言したのは、原水爆禁止宣言より11年後の9月8日です。
平和へ、正義へ、人道へ、創価の世界市民は、草の根の対話の波を起こし、たゆまぬ行動の波を重ねてきました。まさに「人生不撓乃波」です。
核兵器の廃絶へ生涯を捧げられたパグウォッシュ会議のロートブラット博士も、我らの行動と連帯に深い信頼を寄せてくださいました。
一人一人が今いる場所から波を起こし、社会を変えていく力を結集することによって、「最後には、民衆が勝利するのです」と笑顔で語られておりました。
◇自行化他の題目を
一、若き日、ここ鶴見でも一軒また一軒、家庭訪問に歩いたことは、私の「今生人界の思出」(同467ページ)です。
病魔と闘う実直な壮年には、御聖訓を通して激励を贈りました。この当時はまだ、創価学会版の御書全集が発刊される前でしたので、御文を手帳に書き記して、一緒に声に出して拝読しました。
それは、四条金吾夫妻への仰せです。
「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとな(唱)へゐ(居)させ給へ、これあに自受法楽にあらずや」(同1143ページ)
どんなに苦しくとも、自行化他の題目を唱え抜く生命に、打開できない試練などない。煩悩即菩提の信心で乗り越えた分、境涯を開き、悩める友や後輩たちを力強く励ませる。これが人間革命による「人生円熟之輝」です。
この希望の輝きによって、眷属も社会も未来も、赫々と照らし晴らしていけるのです。
今日は、団地部、地域部、勝利島部をはじめ、地域友好・地域広布の黄金のモデルと光るリーダーの皆さん方が出席されています。いつもいつも使命の最前線で、偉大な負けじ魂の開拓、本当にありがとう!(大拍手)
今、お隣の韓国の釜山では「法華経展」が意義深く開催されております。
法華経の肝要たる寿量品には、「我常在此娑婆世界、説法教化」(創価学会版法華経479ページ)とあります。仏は常に、生死の苦悩が渦巻く娑婆世界に在って、衆生のために妙法を説法教化すると示されております。
創価の師弟は、皆、久遠元初より、御本仏に直結する広宣流布の「誓願」を立て、この末法濁悪の娑婆世界に勇んで躍り出ました。まぎれもなく、三世永遠の絆で結ばれた正義と共戦の同志なのであります。
◇広布の誓願を貫く
一、1964年の12月2日、小説『人間革命』を沖縄で書き起こした日、私は凜々しき学生部の英才たちと固い握手を交わしました。皆、立派な広布と社会の指導者に大成してくれました。
その中の一人で、「この世で果たさん使命」を成し遂げ、多くの青年を育てて亡くなった沖縄健児は、生前、語っていました。
「次も沖縄に生まれてきたい。そして、広宣流布のために師弟で戦い勝って、愛する沖縄に、みんなの『人間革命』の大歓喜の舞を踊り広げたい」と。
生死を超えて広布の誓願を貫く「不退乃心」ほど、強いものはありません。
大聖人は、健気な母の「不退乃心」を讃えられつつ、「日蓮一度もしりぞく心なし」(御書1224ページ)と断言されました。
大聖人から「世界広布」と「立正安国」を託された地涌の菩薩の我らです。命の限り、「生死不退乃心」を燃やして、一人一人が朗らかに「円熟之輝」を放ちながら、人類の幸福と平和へ人間革命の「不撓乃波」を、いよいよ万波と起こしていこうではありませんか!
全同志の健康長寿と一家和楽の「人生の旅」を、そしてまた各国・各地の無事安穏と平和繁栄の大行進を祈りに祈って、私のメッセージといたします(大拍手)。
2018年9月5日水曜日
2018.09.05 わが友に贈る
苦難に直面する友を
皆で心から応援しよう!
「困っていることは何か」
耳を傾け同苦することが
不屈の前進の原動力だ!
白米一俵御書 P1596
『いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり』
【通解】
命というものは一切の宝の中で第一の宝である。
〈寸鉄〉 2018年9月5日
男は師子王の如き貫禄を築け—恩師。壮年・男子が後世に輝く拡大の歴史を
婦人部・白ゆり合唱団の結成記念日。希望と勇気贈る創価の母達に大感謝
一日だって無駄に過ごしてはならぬ—文豪。目標は具体的に行動は大胆に
画面操作しながらの車両運転、一瞬の隙が命奪う。絶対にするな、させるな
飲酒経験、中学生が16%、高校生が3割と。心身に悪影響。未来の主役守れ
☆御書と歩む� 第33回 友の心に「信頼の橋」を
『日蓮は此の法門を申し候へば他人にはにず多くの人に見て候へ』(妙法比丘尼御返事、1418ページ)
◇通解
日蓮はこの法門を弘めるので、他の人とは比較にならないほど多くの人に会ってきた。
◇同志への指針
御本仏が示された広布の金の道——それは「人と会う」ことである。法のため、友のため、社会のため、創価の交流・対話は大聖人に直結している。動けば命が躍動する。会えば心を触発し合える。
相手の仏性を敬う不軽の語らいは、鏡の如く自らの仏性を輝かせ、自他共に境涯を広げる。題目で勇気と智慧を漲らせ、「友情と信頼の橋」を架けゆこう!
☆9月度座談会拝読御書 四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)
「苦楽ともに思い合せて」広宣流布へ
揺るぎない自身を築くための信仰
◇本抄について
本抄は、建治2年(1276年)6月、日蓮大聖人が身延の地から鎌倉の四条金吾に宛てて送られたお手紙です。別名を「衆生所遊楽御書」といいます。
2年前の文永11年(1274年)、大聖人が流罪の地・佐渡から戻られたことに歓喜した金吾は、主君の江間氏を折伏しました。
しかし、江間氏は大聖人に敵対する極楽寺良観の信奉者であったため、金吾は主君の不興を買い、遠ざけられることになりました。さらに、同僚からの中傷もあり、金吾は江間家の中で孤立し、命まで狙われる事態となりました。
当時、金吾が「大難雨の如く来り候」(御書1136ページ)と漏らしていることからも、大変苦しい状況に置かれていたことがうかがえます。
大聖人は本抄で、法華経如来寿量品の「衆生所遊楽」の文を引かれ、題目を唱えていくことが一切衆生にとって真実の遊楽であることを強調されています。
◇拝読御文
『苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ』
御書全集 1143ページ5行目〜6行目
◇唱題根本
苦しくとも、楽しくとも、どんな時にも唱題根本に進んでいくことが、信仰者にとって最も肝要な姿勢です。
私たちは、自身の生活上の課題について、ともすると自分の力や経験で何とかできると考えたり、信心とは別の問題と捉えたりして、朝晩の祈りと生活を切り離して考えることがあるかもしれません。
しかし、日蓮大聖人は、生活のあらゆる場にあって、御本尊への祈りを根本に置いて行動していくべきことを、次のように指導されています。
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、『諸余怨敵・皆悉摧滅』の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」(御書1192ページ)
これは武士であった四条金吾に対しての御指導ですので、「兵法」「兵法剣形の大事」等と表現されていますが、広く言えば「兵法」とは「仕事や生活のうえでの具体的方策」ということです。
そうした方策を生み出す根本は全て妙法に具わっていることを示されて、生活にあっても御本尊への祈りを根本として、その上に、あらゆる方策・手段を用いていくよう教えられています。
◇衆生所遊楽
拝読御文の「自受法楽」は「自ら法楽を受く」と読みます。法楽とは、仏の覚りを享受する最高絶対の幸福のこと、妙法の功徳を自身が受けることをいいます。
日蓮大聖人は本抄で、法華経如来寿量品の「衆生所遊楽」の文は、この自受法楽のことを言っているのであると示されています(御書1143ページ)。
「衆生所遊楽」は、仏が住む国土の様子について述べた部分に出てくる言葉で、「衆生の遊楽する所なり」と読みます。経文には"仏の住むこの国土は安穏であり、常に喜びの衆生で満ちている"とあり、例えば、植物が豊かに生い茂るような楽しい場所である、と説明されています。
法華経以外の爾前経では、仏の住む世界を「浄土」とし、これは、衆生が苦悩を耐え忍ぶ現実世界の「穢土」とは懸け離れた"別世界"であると説いてきました。
ところが、法華経では、仏も衆生も同じくこの現実世界に住んでおり、衆生がさまざまな悩みや苦難と向き合い、乗り越えようと挑戦しているこの世界こそ「衆生所遊楽」すなわち、衆生が遊び、楽しむ場所であると説き明かされたのです。
「一生成仏抄」に「浄土といい穢土といっても、土に二つの隔てがあるわけではない。ただわれらの心の善悪によるのである」(同384ページ、通解)とあります。
「浄土」「穢土」といっても、別々に存在するのではない。衆生の「心の善悪」によって決まるものである、との意味です。
自らが妙法根本に一念を変革することによって、「穢土」である現実世界をそのまま「浄土」へと変革していくことができます。
第2代会長の戸田城聖先生は、「衆生所遊楽」を引用して、「御本尊を信じきった時に、生きていること自体が楽しい、何をやっても楽しいという人生になるのである」と語っています。
◇日々挑戦の信心
日蓮大聖人は御書の随所で、強盛な信心を奮い起こして前進していく大切さを御指導されています。
私たちの生命は、どこかに固定的にとどまるものではありません。また、どこかに終点があって、そこに安住できるというものでもありません。ゆえに、信心は、一瞬一瞬、自身に勝利する持続の実践が必要となるのです。
大聖人は「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(御書1190ページ)と油断や停滞を戒められ、また「今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」(同750ページ)と、間断ない精神闘争の中に真実の安楽の境涯が開かれることを教えられています。
こうしたことから大聖人のお手紙には、長く信心を続けてきた門下に対して、それまでの信心の実践をたたえつつ、さらに、いよいよ信心を奮い起こしていくよう励まされた仰せが数多くあります。
「弥信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし」(同1071ページ)
「いよいよ強盛の御志あるべし」(同1221ページ)
今から未来へと、常に前進していくあり方が、本当の信心の姿であり、人生に勝利するための尊い姿勢なのです。
★池田先生の指針から 強盛な祈り、持続の祈りを
伸一は、さらに、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(御書1143ページ)の箇所について語った。
「人生には、迫害の嵐、宿命の嵐が吹き荒れ、苦悩に苛まれることもあります。
『苦』に直面した時には、その現実をありのままに見つめ、逃げたり、退いたりするのではなく、"よし、信心で打開しよう"と、ひたすら唱題に励んでいくことです。また、楽しい時、嬉しい時にも、感謝の心をもって御本尊に向かい、題目を唱え、歓喜を、さらなる歓喜の要因としていくんです。苦楽ともに唱題し抜く。その弛みなき精進のなかに、持続の信心のなかに、宿命の転換も、人間革命もあるんです。"題目を唱えることが、楽しくて、嬉しくてしょうがない"と実感できるようになれば本物です」
強盛な信心とは、強盛な祈りであり、持続の唱題である。
"唱題第一の人"は——揺るがない。臆さない。退かない。敗れない。胸中に、不屈の闘魂と歓喜の火が、赤々と燃えているからだ。(小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章)
◇ ◆ ◇
四条金吾は、日蓮大聖人が竜の口で処刑されんとするとき、まっ先に駆けつけた。大聖人が乗られている馬の轡にしがみつき、大聖人に何かあったならば、自分も腹を切って、死んで大聖人にお供申し上げようとした強信者です。
師子の道を、まっしぐらに走った、強き強き信心の門下です。
その金吾にさえ、大聖人は「いよいよ強盛の信力を」と言われているのです。
「いよいよ」です。過去ではない、「今これから」です。
「信力」です。「信」は「力」です。人間のもつ最強のエネルギーなのです。
信力と行力に応じて、御本尊の仏力・法力を頂戴できます。「信心」こそ、宇宙を回転させる根源の力と日常生活を、しっかり結合させる秘術なのです。(『永遠の経典「御書」に学ぶ』第3巻)
参考文献
〇…『永遠の経典「御書」に学ぶ』第3巻に所収の「四条金吾殿御返事」(聖教新聞社)
皆で心から応援しよう!
「困っていることは何か」
耳を傾け同苦することが
不屈の前進の原動力だ!
白米一俵御書 P1596
『いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり』
【通解】
命というものは一切の宝の中で第一の宝である。
〈寸鉄〉 2018年9月5日
男は師子王の如き貫禄を築け—恩師。壮年・男子が後世に輝く拡大の歴史を
婦人部・白ゆり合唱団の結成記念日。希望と勇気贈る創価の母達に大感謝
一日だって無駄に過ごしてはならぬ—文豪。目標は具体的に行動は大胆に
画面操作しながらの車両運転、一瞬の隙が命奪う。絶対にするな、させるな
飲酒経験、中学生が16%、高校生が3割と。心身に悪影響。未来の主役守れ
☆御書と歩む� 第33回 友の心に「信頼の橋」を
『日蓮は此の法門を申し候へば他人にはにず多くの人に見て候へ』(妙法比丘尼御返事、1418ページ)
◇通解
日蓮はこの法門を弘めるので、他の人とは比較にならないほど多くの人に会ってきた。
◇同志への指針
御本仏が示された広布の金の道——それは「人と会う」ことである。法のため、友のため、社会のため、創価の交流・対話は大聖人に直結している。動けば命が躍動する。会えば心を触発し合える。
相手の仏性を敬う不軽の語らいは、鏡の如く自らの仏性を輝かせ、自他共に境涯を広げる。題目で勇気と智慧を漲らせ、「友情と信頼の橋」を架けゆこう!
☆9月度座談会拝読御書 四条金吾殿御返事(衆生所遊楽御書)
「苦楽ともに思い合せて」広宣流布へ
揺るぎない自身を築くための信仰
◇本抄について
本抄は、建治2年(1276年)6月、日蓮大聖人が身延の地から鎌倉の四条金吾に宛てて送られたお手紙です。別名を「衆生所遊楽御書」といいます。
2年前の文永11年(1274年)、大聖人が流罪の地・佐渡から戻られたことに歓喜した金吾は、主君の江間氏を折伏しました。
しかし、江間氏は大聖人に敵対する極楽寺良観の信奉者であったため、金吾は主君の不興を買い、遠ざけられることになりました。さらに、同僚からの中傷もあり、金吾は江間家の中で孤立し、命まで狙われる事態となりました。
当時、金吾が「大難雨の如く来り候」(御書1136ページ)と漏らしていることからも、大変苦しい状況に置かれていたことがうかがえます。
大聖人は本抄で、法華経如来寿量品の「衆生所遊楽」の文を引かれ、題目を唱えていくことが一切衆生にとって真実の遊楽であることを強調されています。
◇拝読御文
『苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、いよいよ強盛の信力をいたし給へ』
御書全集 1143ページ5行目〜6行目
◇唱題根本
苦しくとも、楽しくとも、どんな時にも唱題根本に進んでいくことが、信仰者にとって最も肝要な姿勢です。
私たちは、自身の生活上の課題について、ともすると自分の力や経験で何とかできると考えたり、信心とは別の問題と捉えたりして、朝晩の祈りと生活を切り離して考えることがあるかもしれません。
しかし、日蓮大聖人は、生活のあらゆる場にあって、御本尊への祈りを根本に置いて行動していくべきことを、次のように指導されています。
「なにの兵法よりも法華経の兵法をもちひ給うべし、『諸余怨敵・皆悉摧滅』の金言むなしかるべからず、兵法剣形の大事も此の妙法より出でたり、ふかく信心をとり給へ、あへて臆病にては叶うべからず候」(御書1192ページ)
これは武士であった四条金吾に対しての御指導ですので、「兵法」「兵法剣形の大事」等と表現されていますが、広く言えば「兵法」とは「仕事や生活のうえでの具体的方策」ということです。
そうした方策を生み出す根本は全て妙法に具わっていることを示されて、生活にあっても御本尊への祈りを根本として、その上に、あらゆる方策・手段を用いていくよう教えられています。
◇衆生所遊楽
拝読御文の「自受法楽」は「自ら法楽を受く」と読みます。法楽とは、仏の覚りを享受する最高絶対の幸福のこと、妙法の功徳を自身が受けることをいいます。
日蓮大聖人は本抄で、法華経如来寿量品の「衆生所遊楽」の文は、この自受法楽のことを言っているのであると示されています(御書1143ページ)。
「衆生所遊楽」は、仏が住む国土の様子について述べた部分に出てくる言葉で、「衆生の遊楽する所なり」と読みます。経文には"仏の住むこの国土は安穏であり、常に喜びの衆生で満ちている"とあり、例えば、植物が豊かに生い茂るような楽しい場所である、と説明されています。
法華経以外の爾前経では、仏の住む世界を「浄土」とし、これは、衆生が苦悩を耐え忍ぶ現実世界の「穢土」とは懸け離れた"別世界"であると説いてきました。
ところが、法華経では、仏も衆生も同じくこの現実世界に住んでおり、衆生がさまざまな悩みや苦難と向き合い、乗り越えようと挑戦しているこの世界こそ「衆生所遊楽」すなわち、衆生が遊び、楽しむ場所であると説き明かされたのです。
「一生成仏抄」に「浄土といい穢土といっても、土に二つの隔てがあるわけではない。ただわれらの心の善悪によるのである」(同384ページ、通解)とあります。
「浄土」「穢土」といっても、別々に存在するのではない。衆生の「心の善悪」によって決まるものである、との意味です。
自らが妙法根本に一念を変革することによって、「穢土」である現実世界をそのまま「浄土」へと変革していくことができます。
第2代会長の戸田城聖先生は、「衆生所遊楽」を引用して、「御本尊を信じきった時に、生きていること自体が楽しい、何をやっても楽しいという人生になるのである」と語っています。
◇日々挑戦の信心
日蓮大聖人は御書の随所で、強盛な信心を奮い起こして前進していく大切さを御指導されています。
私たちの生命は、どこかに固定的にとどまるものではありません。また、どこかに終点があって、そこに安住できるというものでもありません。ゆえに、信心は、一瞬一瞬、自身に勝利する持続の実践が必要となるのです。
大聖人は「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」(御書1190ページ)と油断や停滞を戒められ、また「今日蓮等の類いの修行は妙法蓮華経を修行するに難来るを以て安楽と意得可きなり」(同750ページ)と、間断ない精神闘争の中に真実の安楽の境涯が開かれることを教えられています。
こうしたことから大聖人のお手紙には、長く信心を続けてきた門下に対して、それまでの信心の実践をたたえつつ、さらに、いよいよ信心を奮い起こしていくよう励まされた仰せが数多くあります。
「弥信心をいたし給うべし、信心をいたし給うべし」(同1071ページ)
「いよいよ強盛の御志あるべし」(同1221ページ)
今から未来へと、常に前進していくあり方が、本当の信心の姿であり、人生に勝利するための尊い姿勢なのです。
★池田先生の指針から 強盛な祈り、持続の祈りを
伸一は、さらに、「苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ」(御書1143ページ)の箇所について語った。
「人生には、迫害の嵐、宿命の嵐が吹き荒れ、苦悩に苛まれることもあります。
『苦』に直面した時には、その現実をありのままに見つめ、逃げたり、退いたりするのではなく、"よし、信心で打開しよう"と、ひたすら唱題に励んでいくことです。また、楽しい時、嬉しい時にも、感謝の心をもって御本尊に向かい、題目を唱え、歓喜を、さらなる歓喜の要因としていくんです。苦楽ともに唱題し抜く。その弛みなき精進のなかに、持続の信心のなかに、宿命の転換も、人間革命もあるんです。"題目を唱えることが、楽しくて、嬉しくてしょうがない"と実感できるようになれば本物です」
強盛な信心とは、強盛な祈りであり、持続の唱題である。
"唱題第一の人"は——揺るがない。臆さない。退かない。敗れない。胸中に、不屈の闘魂と歓喜の火が、赤々と燃えているからだ。(小説『新・人間革命』第28巻「大道」の章)
◇ ◆ ◇
四条金吾は、日蓮大聖人が竜の口で処刑されんとするとき、まっ先に駆けつけた。大聖人が乗られている馬の轡にしがみつき、大聖人に何かあったならば、自分も腹を切って、死んで大聖人にお供申し上げようとした強信者です。
師子の道を、まっしぐらに走った、強き強き信心の門下です。
その金吾にさえ、大聖人は「いよいよ強盛の信力を」と言われているのです。
「いよいよ」です。過去ではない、「今これから」です。
「信力」です。「信」は「力」です。人間のもつ最強のエネルギーなのです。
信力と行力に応じて、御本尊の仏力・法力を頂戴できます。「信心」こそ、宇宙を回転させる根源の力と日常生活を、しっかり結合させる秘術なのです。(『永遠の経典「御書」に学ぶ』第3巻)
参考文献
〇…『永遠の経典「御書」に学ぶ』第3巻に所収の「四条金吾殿御返事」(聖教新聞社)
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