2017年6月30日金曜日

2017.06.30 わが友に贈る

逆境であればあるほど
負けじ魂が燃え上がる。
互いに讃え励まし合う。
それが創価の心意気だ。
共戦の大行進をいざ!

太田入道殿御返事 P1009
『病の起る因縁を明すに六有り、一には四大順ならざる故に病む二には飲食節ならざる故に病む三には坐禅調わざる故に病む四には鬼便りを得る五には魔の所為六には業の起るが故に病む』

☆女性に贈ることば 六月三十日
よい環境はよい人間をつくる。自ら、そうしたよい環境、よい人間のつながりを求めていく人は、かぎりなく伸びていける。

☆今日のことば365 六月三十日
戦うという勇気
平和 平凡を愛する勇気
力ある青年は 両者があって
正しい勇気の持ち主といえまいか

☆希望航路―池田先生と進む人生旅― アメリカ・サンフランシスコ③ 2017年6月20日
◇生命に勇気の太陽を
会場は、熱気と歓喜に包まれていた。
1980年(昭和55年)10月5日。サンフランシスコ市内のイベントホール「ガレリア」で、アメリカ広布20周年を記念する総会が開かれ、北カリフォルニアの各地から、3500人が集ったのである。
サンフランシスコの同志は、この日を格別な思いで迎えた。
20年前の同日、同地を初訪問していた池田先生は、市内を見下ろすテレグラフヒルに立った。「20年、50年たてば、この日は偉大な記念日となるだろう」
この先生の展望のままに、約30人で出発したサンフランシスコの広布の連帯は、幾重にも拡大した。
20年の節を刻み、迎えた総会。先生は語った。「大聖人の仏法は、自己も幸福になり、他人をも幸福にし、社会をも安穏にしていく実践である」
さらにこう続けた。
――唱題し、御本尊の功力を一言一句でも語ることで、信仰の力が涌現し、現実生活と社会で幸福の実証を示すことができる。
ゆえに、社会的地位や財産の有無にかかわらず、唱題と折伏をし抜いた人が、生命の勲章を輝かせていけるのである、と。
ジョイス・ボイキンさん(多宝会圏婦人部責任者)は、その4年前に入会。仕事は小学校の教員だった。
当時の黒人女性では珍しく、大学院修士課程まで進んだ。だが、社会ではまだ、人種や性別を理由に、教育や仕事の機会が限られていると感じていた。
それだけに、「社会的地位や財産の有無にかかわらず」との先生の言葉は、深く胸に残ったという。
彼女自身、女手一つで2人の子を育てていた。好条件の職を探していたが、転職は思うに任せず、まとまりかけた話が、直前で立ち消えになった時もあった。
「"なぜ?"と思いましたが、もしその仕事に就いていれば、帰りが遅くなり、夜の会合には参加できませんでした。学会活動から離れないでいられたのだと、後にその意味に気付きました」
結果としてボイキンさんは、その後も教育に携わり続けた。唱題と折伏の実践を貫き、広布の庭で培った他者に尽くす精神は、そのまま教育に生かされたと実感している。
公立小学校の教員を35年、連邦政府の教育プログラムの教員を10年務め、子どもの可能性を最大に引き出せるよう心掛けてきた。

ボブ・ハンソンさん(圏長)は当時、壮年部のリーダーとして、総会に参加。壇上で、先生と固く握手を交わした。
大学を中退し、石油会社のトラック運転手として働いていた。同じく会場にいた妻のパットさん(支部副婦人部長)との間に、第1子が生まれて間もない頃である。経済的に困窮し、必死に生活をやりくりする中での、師との出会いだった。
先生は、"全ての人は、等しく日蓮大聖人の子です。必ず幸せになれるのです"と語り、メンバーに渾身の励ましを送り続けた。その師の姿を、二人は目に焼き付けた。
この前年、先生は第3代会長を辞任。師弟の絆を分断し、広布の組織を破壊しようとする障魔は、アメリカでも競い起こっていた。その中で実現した、サンフランシスコ訪問であった。
「学会精神とは何なのか。それを学び深めたいと願っていた私たちに、先生は、同志と学会を守り抜く心を教えてくださいました」(ボブさん)
「地区や青年部の活動が、一番困難だった時代に、先生は、新たな時代を開く手を打ってくださったのです」(パットさん)
夫妻は"師の代わりに"との思いで、広布の最前線でメンバーを励ました。その一日一日が、何よりの宝だったと声をそろえる。

総会の翌6日、先生はテレグラフヒルで、同志と記念撮影を。「今再び、21世紀への20年を目指そう」と力強く訴えた。
サンフランシスコの男女青年部の人事も発表され、若き力を先頭に、希望に満ちた出発となった。
この時、ケイ・ルードさん(多宝会圏婦人部責任者)には、思いがけない知らせが。広布の功労者であるルードさんの家を、先生が訪問するというのだ。
「驚きと喜びで頭が真っ白になりました。急いで帰宅して、家を片付けたんです」
彼女は笑顔で振り返る。
自宅は広布の会場に提供していた。到着した先生は、ルードさんたちに深々とお辞儀を。同志の幸福に尽くしてきた労をねぎらい、心から感謝した。
地元のメンバーらを交えて勤行をした後、先生は、世界広布の展望、アメリカ人の心をつかむ激励のあり方などを巡り、約1時間にわたって懇談した。
その際、3歳だったルードさんの次男が、先生にクッキーを手渡した。先生は、その半分を彼の口へ。心温まる光景に、「先生は、まるで父親のように、わが子を慈愛で包んでくださいました」とルードさん。
「何か質問はあるかい?」と促され、彼女は人間関係の悩みを打ち明けた。
先生は語った。
――悩みに真正面から挑み、御本尊に祈っていけば、境涯が広がり、必ず解決の道が見つかります。人生に苦難は付きものです。しかし、法華経の兵法で戦えば、必ず勝てるのです、と。
「生命に勇気の太陽が昇るようでした」とルードさん。この指針のままに、どんな時も強盛な信心を貫いてきた。
昨年で入会50年。2人の息子も立派に育てあげた。
広布一筋の彼女の姿を通し、師弟を学び、信仰の喜びを知った友は多い。

10月7日、サンフランシスコ滞在を終え、ワシントンDCへと出発する先生を、スティーブ・ホウさん(副支部長)は空港で見送った。
台湾出身。5歳の時に両親が離婚すると、荒れた青春を送った。明るい人生を取り戻す思いで、大学卒業後にアメリカに渡ったが、アジア人というだけでバカにされた。
「仕事で見返してみせる」と、一心不乱に働いた。だが成功を収めると、同僚たちを見下すように。自分にはその権利があると思い込んでいた。
人生観が変わったのは、妻のサンディーさん(地区副婦人部長)を通じて仏法を知ってからである。会合に行くと、多様な人種や国籍のメンバーがいるのが印象的だった。壁一つない、その世界こそ、探し求めていたものだった。
真面目に信心に打ち込んだ。アメリカSGIの中国語グループの運営に携わり、自分が必要とされる喜びを感じた。やがて同グループの全米責任者に就任し、長年、使命を果たしてきた。
夫妻がさらなる原点を刻むのは、93年3月のこと。3人の子を含む一家全員で、サンフランシスコに池田先生を迎えたのだ。
5度目となった先生の訪問。平和・教育・文化の分野で、SGIが社会に大きく開かれていく転機となる。