2017年6月21日水曜日

2017.06.21 わが友に贈る

広布に生きる人生は
毎日が新しい出発なり。
前進だ! 挑戦だ!
「今」この瞬間から
みずみずしい決意で!

新池御書 P1444
『何に賎しき者なりとも法華経を説かん僧を生身の如来の如くに敬ふべし、是れ正く経文なり』

☆女性に贈ることば 六月二十一日
人間関係には、その人の境涯が表れる。人間関係を広げることは、境涯を広げることに通じる。

☆今日のことば365 六月二十一日
人を身なりで判断しては決してならない。その人が、将来どうなるか、どんな使命を持った人か、身なりなんかで絶対に判断がつくはずがない。家や、身なりで人を判断することだけは、してはいけない。

☆生老病死を見つめて 悔いなき日々を 2017年6月17日
◇「臨終只今」の心で、きょうも広布へ
連載「生老病死を見つめて」では、創価学会員が信心根本に、生老病死という「四苦」を乗り越えてつかんだ信仰の確信と仏法の哲理を紹介する。今回は24歳の娘を亡くした壮年の体験を通して考察したい。

◇心に刻む御聖訓
百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ(崇峻天皇御書、1173ページ)

◇突然の「末期がん」の宣告
御書には「所詮臨終只今にありと解りて信心を致して南無妙法蓮華経と唱うる人を『是人命終為千仏授手・令不恐怖不堕悪趣』と説かれて候」(1337ページ)とある。かつて池田先生は、この御文を通して次のように語った。
「『所詮臨終只今』ということは、只今に全生命をかけていくということにほかならない。日々を懸命に生きていく、広宣流布に、一生成仏に、我が生命を燃焼させながら、戦い抜いていくということであります」と。
今、この時を、力の限り悔いなく生き抜く――。岡山池田総県総合長の長江章行さん(61)は、この決意で学会活動に奔走している。脳裏には、今は亡き長女・章子さんの面影が鮮やかに残っている。
◇ ◆ ◇
岡山県総社市で生まれ育った長江さんは2歳で家族と共に入会。幼い頃から学会の庭で育ち、男子部として薫陶を受けてきた。1980年(昭和55年)には妻・信江さん(61)=圏副婦人部長=を折伏して結婚し、その後、1男1女に恵まれる。青年部時代、また壮年部に移行後も広布の第一線で戦ってきた長江さんだったが、2006年(平成18年)4月、突然の試練に襲われた。長女・章子さんが末期の肝臓がんとの宣告を受けたのである。章子さんは当時24歳だった。
長江さんは語る。
「『腰が痛い』と言っていた娘が病院で診断を受けたところ、肝臓にピンポン球のようながんが二つあることが分かりました。がんは末期で、大腸と肺にも転移しており、手術は不可能とのこと。医者からは『もって2カ月』と言われました」
病の宣告を受けた長江さん夫妻は、その晩、意を決して章子さんに病状を伝えた。妻・信江さんが振り返る。
「章子は大きなショックを受けていましたが、すぐに病魔と闘う決意を固めたようでした。仲の良い友達に、がんが見つかったことを伝え、『絶対に病気に負けないから!』と力強く語っていました。その姿に触れて、私たち夫婦も"必ず宿命転換しよう!"と決意しました」

◇わが使命を果たしたい!
――章子さんは地元・岡山の高校から、創価女子短期大学に16期生として入学。鍛えの日々を送り、卒業後は地元・岡山の信用金庫に同短大卒業生として初めて採用された。
入行以来、章子さんの営業成績は常にトップで、「後輩のために道を開きたい」と奮闘してきた。職場での面倒見もよく、将来を嘱望されていたという。
学会の庭では女子部本部長、白蓮グループの県委員長として仕事と活動の両立に挑戦。未来部員の励ましにも足しげく通っていた。
病が判明してから、章子さんはすぐに入院し、抗がん剤治療を受けた。だが、治療の効果は現れず、同年7月下旬には、医者から「できる限りのことはしましたが、状況が厳しくなりました。もっても、残り1週間ほどだと思います」と告げられる。
「医者も一度はさじを投げました。しかし、章子は"自分の使命を果たしたい"と、電話で友人と対話し、聖教新聞の購読も推進しました。ある時、『どうしても折伏したい人がいる』と言って、勤め先の同僚を病室に呼んで仏法対話をしました。その同僚は入会を決意し、御本尊を受持することができました」(長江さん)
この間、奇跡的にがん細胞の数値が下がり、章子さんは別の病院で、再び抗がん剤治療を受け始めた。9月になると、がん細胞が徐々に死滅し、治療の効果が現れ始める。だが、抗がん剤の影響で章子さんの体の抵抗力は落ち、体力的にもギリギリの状態になっていた。
06年10月13日の夜、病室で章子さんと一緒に勤行をした信江さんは、「さあ、寝ようか。頑張って使命を果たそうよ!」と声を掛けた。章子さんは、笑顔で「はい!」と返事をすると、そのまま意識を失って倒れた。
2日後の10月15日、家族に見守られながら、章子さんは眠るように静かに息を引き取った。病気の判明からわずか6カ月半。享年24歳だった。
「病気が分かった時、医者から『激しい痛みに苦しむことになる』と言われましたが、章子は最期まで苦しむこともなく亡くなりました。その姿や臨終の相に接して、成仏を確信できました」(信江さん)

◇友に励ましを送り続ける
長江さん夫妻にとって、章子さんを失った衝撃は大きかった。
「あまりにも早い別れと、壮絶な闘病生活に、しばらく現実を受け入れられませんでした。ただ、本当に多くの同志が闘病中をはじめ、娘が亡くなった後も励ましてくれ、心から感謝しています」(長江さん)
長江さん夫妻は、章子さんが亡くなってから、あらためて知ったことがある。それは、章子さんが多くの人を励まし続けていたという事実である。
弔問に来た学会の同志や会社の同僚から、「章子さんの励ましに支えられた」「勇気づけられた」という話を何度も聞いた。また、「章子さんの笑顔が忘れられない」という声も多数あった。
「臨終只今」――師から学んだこの生き方を、章子さんは、病を得る前から、そして、闘病の中にあっては、なおさら強く貫いて生きた。
その生命は、両親の胸中に生き続けている。
信江さんは言う。
「娘を失った悲しみは筆舌に尽くしがたいものでした。でも、章子が白蓮グループとして、常に笑顔で会館に着任していたことを思い出し、私も会館に行く時は笑顔になろうと決意し、涙をぬぐってきました」
長江さんも、章子さんの在りし日の思い出を聞かされるたびに、「娘に負けない人生を生きよう!」と自身を奮い立たせたという。そして、「百二十歳まで長生きしても悪い評判を残して一生を終わるよりは、生きて一日でも名をあげることこそ大切である」(御書1173ページ)との「崇峻天皇御書」の一節を何度も拝して御本尊に祈り、地域広布に走り抜いてきた。
長江さんは語る。
「最期まで戦い抜いた章子の姿から、私たち夫婦が学んだことは、一日一日を大切に生き抜くということです。病魔との闘いで、章子も怯んだり、負けそうになったりしたことがあったと思います。それでも、決して諦めずに戦い続けた娘を誇りに思います。私たち夫婦も娘に負けないように、さらに多くの人に励ましを送り、自他共の幸福のために生き抜いていきます」

◇取材メモ
長女・章子さんが亡くなって4カ月後の2007年(平成19年)2月、池田先生から長江さん夫妻に一首の和歌が届けられた。その脇書きには、「ご夫妻共に/断じて負けないで/最愛の娘は必ず環ってくる/仏法の方程式を信じて/娘に叱られないように/大勝利の人生を!」と、したためられていた。
「葬儀などでも決して泣きませんでしたが、この時ばかりは池田先生の真心に号泣しました。同時に、三世の生命観の上から『章子は必ず生まれ変わってくる』と心から確信することができ、"娘の分まで広布に生き抜こう"という腹が決まりました」
その後、長江さんは県長・総県長を8年にわたり務めたが、この間、折に触れて章子さんの闘病の様子を語り、同志に「負けない信心」の大切さを訴えてきた。
長江さん自身、娘を失った悲しみは今もある。だが、それ以上に、病魔と闘い、使命に生き抜いた娘を誇りに思う。だからこそ、「章子に負けないように!」との決意で、きょうも広布に走り抜いている。(秀)