2017年6月16日金曜日

2017.06.16 わが友に贈る

最も苦しい時に
最大の力を出すのが
学会精神の真髄だ!
確信の題目を根本に
敢然と人間革命の劇を!

日興遺誡置文 P1618
『身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事』

☆女性に贈ることば 六月十六日
自分自身の心の決意の仕方で、いかようにも、人生は勝利できる。幸福になれる。それは、歴史が証明している。

☆今日のことば365 六月十六日
人生において、友人ほど大切なものはなしい、また友情ほど美しいものはない。どういう友人を持っているかで、その人柄がわかるとも言われるほどだ。

☆誓いの天地 埼玉・所沢 2017年6月9日
◇歴史をつくる新たな飛翔を 天空高く勝鬨あげゆけ
埼玉の南西部に位置する所沢市。近年、市内への大手企業の誘致や、所沢駅周辺の再開発事業が進む。
東村山、東大和、武蔵村山など東京各市と隣接し、所沢駅からは、豊島・中野・新宿・杉並・練馬区などにも直通で結ばれている。
観光名所も多く、市の南部には、映画「となりのトトロ」の舞台にもなった狭山丘陵が広がる。また、プロ野球・埼玉西武ライオンズの本拠地球場・メットライフドームもある。
さらに、所沢は「日本の航空発祥の地」としても知られている。日本で最初の飛行場は、1911年に開設された「所沢飛行場」。その跡地は、「所沢航空記念公園」として、市民に親しまれている。
91年8月11日、池田先生は、初訪問した所沢文化会館で語った。
「『所沢』の名は、私どもの世代にとって、勇壮な飛行機の姿を思い起こさせる、皆の憧れの地であった」
「学会とともに生き抜いた人は、皆、幸福の大空へと飛翔された。想像もしなかったような、限りない境涯を広げられた」と。
また、先生は、埼玉新聞に掲載された特別寄稿(4月25日付)の中で、大宮の鉄道博物館と所沢市の航空発祥記念館を紹介しつつ、「郷土の誉れの歴史に触れる中で、陸に空に夢を広げゆく舞台」と、埼玉の教育力をたたえた。
今、人材を育む揺籃の天地・所沢から、平和の空へと羽ばたく若き男女青年部が陸続と誕生。地域の青年会議所などで、要職を担うメンバーもいる。
先月21日、市内で、第6回「戦国滝の城まつり」が開催された。会場の「滝の城跡」は、県指定文化財。約150人が甲冑に身を包む武者行列が人気だ。
祭りの恒例演目として、「よさこい踊り」を披露するのが「東所沢若獅子会」。東所沢圏ヤング男子部員を中心に構成されている。本格的な演舞とはつらつとした姿が好評で、市内の祭りや行事に引っ張りだこ。隣接する東京都の市から招待を受けたこともある。
若獅子会は10年以上前、ヤング男子部の人材育成の場として発足した。今、会をまとめているのは、同圏ヤング男子部長の板橋伸広さん。板橋さんも、若獅子会への参加を機に、学会活動に積極的になった。
市内の病院に准看護師として勤める板橋さん。職場の人間関係に悩み、悶々とする日々が続いていた。
若獅子会の先輩に悩みを打ち明けると、「患者さんのことを一番に考えていこうよ」と。「はっとしました。環境のせいにして、果たすべき使命を見失っている自分に気付いたのです」
心新たに仕事に臨んだ。学会活動にも励み、友人に弘教を成就した。
職場では、患者さんに慕われるようになり、人間関係も一変。行く先々の病棟で、「ここに残ってほしい」と言われるほど、信頼を得ることもできた。
一人のために徹する。学会で学んだ精神を胸に、板橋さんは、苦悩する人々に寄り添い続ける。

所沢市で育った浜田ゆいさん(女子部副本部長)は、保育士として市内の保育園に勤務する。
中学2年の時、母・優子さんに乳がんが見つかった。手術するも1年半後に再発。医師からは余命が告げられた。その中、母は折伏を受け、入会する。
浜田さんは、「入会後、日に日に母の言葉や表情が変わっていきました。『絶対に病気に負けない』と、力強く話すようになったんです」と。
壮絶な抗がん剤治療。病魔に立ち向かう母の姿に触れ、浜田さんは、妹と共に入会し、信心を始めた。学会活動に励む姿、白蓮グループで着任する姿を、母は心から喜んでくれた。
家族のように寄り添い続けてくれた地域の同志にも支えられ、母は、見事な更賜寿命の実証を示し、霊山へと旅立ったのである。
浜田さんは、母の信心を継ぎ、東京・足立区の友人に仏法対話を進めるなど、華陽の連帯を広げている。
母が遺してくれた「心の財」。その大切な宝物を抱き締めて、浜田さんは、きょうも広布に走る。

◇栄光の共戦譜
池田先生が所沢を初訪問したのは、1978年7月。第1次宗門事件の渦中であり、先生が会長を辞任する9カ月前だった。
また、先生が、所沢文化会館を訪れた91年8月は、邪宗門の鉄鎖を断ち切り、「魂の独立」を勝ち取る3カ月前のことである。
広布史に刻まれる破邪顕正の法戦を、師と共に戦い抜いてきた——。それが、所沢の同志の無上の誇りであり、永遠の決意である。
78年7月5日、先生は、所沢会館(当時)の開館1周年を記念する集いに出席。入場の直前、駆け付けてきた関根寛治さん(地区幹事)を、「関根君だろう。覚えているよ」と、温かく迎え入れた。
関根さんは脳性小児まひに悩み、13歳で入会。青果市場で働きつつ、大学に進学。他宗の檀家総代だった祖父母らを入会に導いた。
"あの八百屋は、創価学会"と笑われたこともあった。折伏に歩けば、塩をまかれ、水を掛けられたが、関根さんは、ますます信心の炎を燃え上がらせた。
22歳の時、学会本部(東京・信濃町)での記念撮影会へ。「健康になるんだよ。所沢の関根君だね。覚えておくよ」。先生は抱き締めてくれた。所沢会館での再会は、その10年後だった。
関根さんは、妻の豊子さん(支部副婦人部長)と二人三脚で、地域広布に尽くしてきた。2人の娘は今、所沢女子部のリーダーとして活躍。一家和楽の実証を示している。

先生が所沢会館を訪れた日は30度を超す真夏日。壇上役員だった上藤和之さん(県副総合長)は、「猛暑の中、先生は流れる汗をぬぐいつつ、渾身の指導をしてくださいました」と語る。
先生は訴えた。「この天地を、功徳に満ち満ちた『信心の理想郷』に」と。
上藤公枝さん(総県婦人部総合長)は述懐する。
「この原点を機に、拡大のうねりが起こりました。年間60世帯を超える弘教を実らせる支部も誕生し、所沢は"埼玉一"の広布拡大を成し遂げるのです」
上藤さん夫妻は、91年8月に誕生した「所沢県」の初代県長・県婦人部長に就任。今も地域広布の原動力として、東奔西走の日々を送っている。

82年9月18日、所沢市の西武ライオンズ球場(当時)で、第2回「世界平和文化祭」が開幕した。19日は雨。先生は、球場内を周りながら、「風邪をひかないでくださいね」と、来場者に声を掛けていった。
川崎淳二さん(副県長)は、整理役員として、その先生の慈愛を心に刻んだ。
川崎さんは札幌の出身。上京後に入会したが、両親は快く思っていなかった。だが、テレビ放送された文化祭の様子を見て、学会への理解を深め、入会。晩年を所沢広布にささげた。
川崎さんは、念願の一級建築士に。独立し、市内に建築設計事務所を立ち上げるが、不況の影響などで経営難が続いた。
妻の洋子さん(支部副婦人部長)と広布に奔走し、苦境を打開。事務所は明年、設立30周年を迎える。
3人の娘は、全員が創価学園を卒業。長女は所沢、次女は横浜、三女は東京・大田区で後継の道を歩む。

文化祭の数日前、球場近くに住む盛崎敏子さん(婦人部副本部長)は、数人の同志と共に、近隣の家々に入場整理券を配り歩いた。
文化祭後は、映写機を背負って地域を回り、行く先々で文化祭の上映会を。地道な対話を重ね、近隣17世帯に弘教を実らせた。
94年、盛崎さんは、膠原病を患い、全身の激痛と闘った。さらに10年後には、脳出血を発症した。
「信心で必ず治す」と誓った盛崎さん。地域の同志も懸命に祈ってくれた。
治療し、1週間後の検査。医師が驚く。「脳出血の症状が消えています」。盛崎さんは、1カ月のリハビリを経て、退院。その日から膠原病の痛みも消えた。
盛崎さんは、自治会の理事や婦人部長を歴任し、地域貢献に励んでいる。

先生が所沢文化会館を訪問した91年、同会館の管理者を務めていた、平塚亘さん(故人)・多美枝さん(婦人部副本部長)夫妻。
夫妻は、「守る会」の友らと協力し、日々、会館を丹念に清掃していた。その中での先生の訪問だった。
多美枝さんは、「先生は会館に到着されると、『きれいな会館だね。素晴らしい会館だ』と語っておられました」と振り返る。
平塚さん夫妻は、こうした先生の励ましを「生涯の財産」とし、13年間、所沢文化会館を守り抜いた。
「夫は、亡くなるその時まで、先生への感謝を語り、"会館を守り抜く"との信念を貫きました」
今、多美枝さんは、亡き夫の遺志を継ぎ、愛する所沢の地を駆けている。

日蓮大聖人を迫害した鎌倉幕府の滅亡は、1333年。新田義貞は、所沢・小手指ケ原で幕府軍との初戦を戦い、その後11日間で、都を攻め落とした。所沢には、時代変革の突破口を開いた歴史が刻まれている。
かつて、先生は、所沢の友に詠み贈った。「万人が 見つめる偉大な 所沢 天空高く 勝鬨あげゆけ」
先生が所沢を初訪問した原点の月「7月」へ。所沢の同志は、立正安国の旗を掲げ、破竹の勢いで進む。