前進を阻む最大の敵は
周囲の環境ではない。
自身の臆病の心だ。
「師子王の心を取り出し」
今やるべき事に全力を!
日興遺誡置文 P1618
『下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事』
【通解】
たとえ位の低い者であっても、自分より智慧がすぐれている人を、師匠と仰いで仏法を学ぶべきである。
〈寸鉄〉 2018年8月31日
創価の青年が同世代を触発してほしい—大臣。哲学持つ君達こそ社会の柱
「煩悩の薪を焼いて菩提の慧火現前」御書。悩みの時こそ強盛に祈り成長
学生部の日。最高の同志と共に大いに学び大胆に語れ!先駆の使命は永遠
防災週間。緊急時に何を持ち、どこに避難するか。危険マップなど使い確認
夏の疲れが出る時期。食事・睡眠・適度な運動—聡明に健康に充実の秋へ
☆誓いの天地 石川・金沢市 2018年8月20日
◇使命の舞台で勝利の証しを
加賀百万石の城下町として栄えた金沢。兼六園、金沢城や茶屋街など、その歴史が人々を引き付ける一方、金沢駅の鼓門をはじめ、円形デザインの金沢21世紀美術館といった近代的な建築物も多い。
伝統と現代が融合する町。3年前の北陸新幹線の延伸開業によって、観光都市としても発展を続ける。
市内の百貨店にあるブランドショップで、婦人服の販売をしている山岸早紀さん(金沢南圏、女子部部長)。「金沢は町並みもすてきですが、一番の魅力は『人』だと思います」
石川県七尾市で生まれ育ち、短期大学への進学を機に金沢市へ。女子部の先輩の温かさに触れ、学会活動を始めた。大学に編入し、卒業後はアパレル企業に就職した。
彼女が試練に襲われたのは3年前。帰宅途中に交通事故に巻き込まれ、重傷を負った。
すぐさま学会の同志が見舞いに。女子部からは真心の寄せ書きも届けられ、題目を送ってくれた。
山岸さんは、"絶対に乗り越えて、広布の舞台に戻ろう"と決意し、真剣に唱題を重ねた。
ケガは順調に回復し、退院。3カ月後、職場に復帰することができた。
これまで以上に真心の接客を心掛け、顧客との信頼を結んでいった。気付けば、以前よりも店の売り上げは伸び、100以上ある店舗のうち、五指に入る業績を上げるようになった。
学会活動にも励み、本年から白蓮グループの班長に。仏法対話に果敢に挑戦している。「感謝の心を忘れず、華陽のスクラムを広げていきます」
◇
現在、「師弟誓願 拡大月間」を朗らかに前進する北陸の友(9月8日まで)。月間の開幕を勢いよく飾ったのは男子部の拡大だ。今月12日、北陸男子部大会が金沢市の石川平和会館で盛大に行われた。
対話に挑み、人材を大きく拡大して大会当日を迎えた一人が、太田正則さん(金沢喜多圏、男子部本部長)。大手製薬会社の営業職として、市内をはじめ、富山県や岐阜県北部のエリアを担当する。
大阪・枚方市の出身。創価大学を卒業後、仕事のため、6年前に金沢へ。誰も知り合いがおらず、心細かったが、学会の同志が温かく迎えてくれた。
4年前の創価青年大会では、演目の一つであった、よさこいの出演メンバーに。練習に励む中、より良い条件の会社に転職することもできた。
仕事では「『自身』が変われば『世界』が変わる。『わが一念の変革』が、すべての変革の鍵なのです」との池田先生の言葉を胸に、誠実第一で迅速な対応を心掛けた。顧客との信頼が深まり、昨年は全国2位の営業成績を収めた。
今、3人の友人と一緒に唱題に励んでいる太田さん。「職場でも地域でも勝利の実証を示し、師匠・池田先生にお応えします」と誓いの青春を歩む。
◇栄光の共戦譜
●誓願に生きる人生は最極なり
「わが師・戸田城聖先生は、私の生命の最も奥深くに、いつも御一緒である。そしてまた、恩師の故郷・北陸の同志も、私の胸奥から瞬時として離れることはない」
石川県は、第2代会長・戸田先生の生誕の地。池田先生が、石川の同志に寄せる思いは、限りなく深く、大きい。
第3代会長を辞任した直後の1979年(昭和54年)5月3日、池田先生は「誓」としたためた。その「誓」の一字を、82年(同57年)9月、石川の地でも大書した。その思いを先生は「わが魂を北陸に置き留め、同志を守り抜かんとの決意で」と述べている。
これまで池田先生が石川県を訪れたのは8回。初訪問は、57年(同32年)10月26日のこと。金沢市内の指導会に出席した。
集まった300人の大半は入会歴が浅く、病魔や経済苦と闘う人も多かった。先生は一人一人を包み込むように励ました。当時の日記には、こうある。
「如来の使いだ。誇り高くあれ」「北陸にも、広布の響き始まる」
この日は今、「石川広宣流布原点の日」となっている。
◇
64年(同39年)7月14日、石川県に初の会館となる金沢会館(当時)が誕生。落成入仏式に池田先生が出席した。
先生は石川の同志と勤行・唱題を行い、友の幸福を祈念。式典後も、場外にいた同志のもとへ赴き、温かく声を掛けた。
翌15日も、金沢会館での激励は続いた。入会してまだ2カ月だった織田末廣さん(金沢喜多圏、副支部長)も出会いを結ぶ。
先生は「君たち、仕事は大丈夫?」。一緒に来た男子部員が「今日は休みなんです」と答えると、「そうか、ありがとう。しっかり仕事を頑張るんだよ」と笑みを浮かべ、一人一人と、固い握手を交わした。
織田さんは当時、自動車の修理工場に勤めていたが、短気な性格が原因で職を転々としていた。先生との"誓いの握手"から、仕事への姿勢を顧みるように。その後、染色会社で25年間、勤め上げた。「先生の激励のおかげで忍耐強くなりました。人生勝利の要諦と、広布に生きる喜びを教えてくれた先生に、感謝は尽きません」
2度のがんも乗り越えた織田さん。長男は地区部長、長女は地区婦人部長、次女は副白ゆり長として、広布後継の道をさっそうと歩んでいる。
◇
76年(同51年)7月、金沢市内の小高い丘に、石川文化会館が完成した。先生は同年11月12日、初来館し、「荘厳な 夕日を浴びて 地涌たち 石川城に 凱歌あがれり」と詠んだ。
翌13日の夕刻、先生は金沢会館へ足を運び、管理者の本間勝美さん(金沢圏、副圏長)と妻の朋子さん(同、圏副婦人部長)に励ましを送った。
この9年前、本間さんは金沢市内のデザイン会社に就職したが、数カ月後に倒産。フリーのグラフィックデザイナーとして奮闘する一方、男子部のリーダーを務め、学会活動にも一歩も引かずに挑んだ。
そんな中、池田先生から一冊の書籍が届いた。そこには「君よ! 可愛い大切な北陸の友を生涯よろしく頼む」との言葉が記されていた。
青年の成長と勝利を信じる師の真心に涙があふれた。本間さんは"この使命の天地で、断じて宿命転換してみせる"と真剣に祈り、弘教に奔走。その後、夫婦で金沢会館の管理者となり、先生を迎えた。
館内を視察した池田先生は、陰の労苦に徹する夫妻をねぎらい、本間さんの2人の息子にも激励を。朋子さんに「子どもは伸び伸びと育てるんだよ」と語り、一家の広布への貢献を心からたたえた。
本間さんは師との出会いを原点に、愛する地域に尽くそうと決意。「森の都愛鳥会」の会長として42年間にわたり、環境保全活動に取り組んできた。また、日本生態系協会の評議員としても活躍する。
「自然を守ることは、子どもたちの未来を守ることにつながります。これからも、安心・安全の町づくりに努めていきたい」
◇
8・26「北陸の日」。その淵源は84年(同59年)8月26日、金沢市内で行われた第1回「北陸平和文化祭」にある。先生は会場に到着するなり、真っ先にグラウンドへ。両手を挙げ、体全体で参加者にエールを送った。
金津洋子さん(石川総県、総県婦人部総主事)も、その光景を目に焼き付けた。
当時、石川県の副婦人部長だった金津さんは翌27日、金沢市内で開かれた北陸広布30周年記念の集いで、香峯子夫人と懇談する機会に恵まれた。金津さんが「自分は気が小さく、人前で話すのが苦手で……」と率直な思いを伝えると、香峯子夫人は頷きながら「でも、それぞれに使命がありますから大丈夫ですよ」と。人と比べるのではなく、自分らしく進んでいくよう励ました。以来、金津さんは"聞き上手"になろうと決意し、広布一筋に走り抜いてきた。
石川県の婦人部長を務めた後、地域活動にも尽力。民生委員を9年間担い、本年4月には、老人会の会長となった。
池田先生が石川婦人部に示した「心清き人は永遠に幸の勝者なり」との指針を胸に、はつらつと希望の連帯を広げる。
◇
池田先生は、かつて石川の友に贈った。
「誓願に生きる人生は最極なり」
それは、先生自身が示してきた弟子の生き方であり、石川の同志が受け継ぐ師弟の魂である。