2018年8月5日日曜日

2018.08.05 わが友に贈る

教学研鑽に励む青年よ!
広布の前進は常に
御書と共にある。
勝利の原動力たる
信心の利剣を磨こう!

開目抄下 P237
『日蓮は日本国の諸人にしうし(主師)父母なり』

【通解】
日蓮は日本国諸人にとっての主であり、師であり、親である。

〈寸鉄〉 2018年8月5日
長崎で不戦会議が開幕。核兵器廃絶目指す青年の連帯!君らこそ人類の光
折伏は自分の為、悩む人の為—恩師。自他共の幸の軌道ここに。堂々語れ
汝の力に目覚めよ!汝の力で立て—作家。その力は皆に必ず。仏法で開花
豪雨、天候不良で全国の農作物に被害。農漁光部負けるな!変毒為薬祈る
お盆の時期、各地の交通機関で混雑予想。計画は余裕持って。無事故第一

☆誓いの天地 名古屋市中川区 2018年7月25日
◇地域の人々と手を携えて
名古屋市の中西部に位置する中川区。
区名の由来となった中川運河をはじめ、庄内川、新川など七つの河川が流れる。1932年に完成した「松重閘門」は"東洋のパナマ運河"と呼ばれ、往時の様子を偲ばせる。
東部は中川運河沿いに製造業が発展。西部には豊かな農地が広がっているが、近年、区画整理により宅地化が進み、マンション等が建設されている。
3児の父である冨田正城さん(中川大勝区、男子部部長)。2年半前に引っ越してきた住まいは、新しい分譲住宅が立ち並ぶ一角にある。
昨年、地域で自治会設立の準備が進んでいることを知った。
「これからずっと関わっていく地域。どうにか役に立っていきたいと考えていた時でした」
以来、中心者による話し合いの場に顔を出すように。今年、周囲から推薦されて自治会の副会長に就任。近隣のパトロールや、河川の清掃などに尽力している。
6年前、会社の人間関係に悩み、退職。将来の進路に行き詰まりを感じていた時、男子部の先輩が足しげく通い、励ましてくれた。
「必ず再就職を勝ち取ろう。その"決勝点"を決めて祈っていこう」と、共に何度も勤行を。その中で自動車関連の会社に再就職を果たした。
2014年(平成26年)には真希さんと結婚。真心の対話を重ね、入会に導くこともできた。
現在の職場では夜勤もあるが、時間をこじ開け、訪問・激励や創価班の任務に率先する。
「近隣の方々と手を携え、住みよい街づくりに力を注いでいきます」

瀬川輝美さん(中川王者区、女子地区リーダー)は、精神障がい者の通所事業所で、生活支援員として働く。
学会3世として岩手・花巻市に生まれ、創価家族の温かさの中で育った。
大学を卒業後、就職で名古屋に。しかし1年目は、都会での1人暮らしになかなか馴染めなかった。
"実家に帰りたい"と思っていた時、支えてくれたのは中川区の創価家族だった。女子部の先輩、婦人部の友が何度も励ましに訪ねてくれた。常に自分のことを気に掛けてくれる皆の真心に触れ、「名古屋が私の使命の場」と、持ち前の明るさを取り戻した。
仕事では努力を重ね、昨年、精神保健福祉士の資格を取得。休日には、市内の障がい者スポーツのイベントでボランティアとして貢献し、車いすバスケットボールなどを通して障がい理解の啓発活動にも携わっている。
学会活動にも励み、勇気の対話に挑戦する瀬川さん。「人との出会いを大切に、どこまでも悩みに寄り添える自分に成長していきます」。朗らかな笑顔で、職場と地域を照らす。

◇栄光の共戦譜
●我らが決めた「この道」を勇敢に
1953年(昭和28年)12月、名古屋に第一歩をしるした池田先生は、市内での座談会に出席。"折伏が進まない"と語る友に烈々たる気迫で語った。
「やりやすいところなどありません。"名古屋だけ折伏はできない"と思っている、そのこと自体が、できない原因なのです!」
友の一念を一変させる師子吼から、中部広布の「この道」は開かれた。
以来65星霜。幾多の師弟のドラマを刻みながら、"広布の堅塁"は築かれてきたのである。

中川の
 友を祈りて
  今日の旅

池田先生が中川区の友に贈った句である。
71年(同46年)1月30日の夕刻、前日から中部入りしていた先生は急きょ、中川会館(当時)を訪問した。
先生は居合わせた数十人と勤行。その場には病苦や経済苦と闘う友もいた。一人一人の話にじっと耳を傾けつつ、力強く語った。
「題目をあげていきなさい。必ず解決しますよ」
「皆さん方の健康と、ご一家の繁栄をいつも真剣に祈っています」
そして、皆と記念のカメラに納まった。さらに会館を後にした先生は、先の句を贈ったのである。
当時、中川区の男子部のリーダーだった池田洋さん(中川大勝区、総県主事)。前日の中部文化祭で体操の責任者を務め、中川会館の訪問後に行われた、師との懇談の場に集った。
先生は、青年の熱演を心からたたえ、ここでも記念撮影を。師の真心を、池田さんは胸に深くとどめた。
59年(同34年)、母と共に、15歳で入会。翌年、先輩に連れられて参加した中部体育大会で、師と初めての出会いを刻んだ。
輸送班(当時)として会員厳護に徹し、男子部のリーダーとしても弘教拡大の先頭に立ってきた。
壮年部へ移行し、学会の中川区長(当時)として奮闘していた95年(平成7年)5月、池田先生の100回目となる中部指導が実現。17日の中部総会で、先生は渾身の励ましを送った。
「私の願いは、ともかく全員が幸福になっていただきたいということである」
さらに翌18日には、車で中川文化会館を視察。車中から、同会館をカメラに収めた。
「"先生は中川の同志の戦いを全て見守ってくださっている"と感動で胸がいっぱいになりました」(池田さん)
以来、中川区の友は広布の拡大戦において、団結固く連続勝利の結果を示し続けてきた。
この時、池田さんの経営する溶接会社は、不況のあおりで苦境に立っていた。だが、"必ず社会で実証を示してみせる"と奮起。信心根本に仕事に挑み、乗り越えていった。
昨年、試作を重ね、自転車を立てるスタンドを考案した。これがヒットし、業績は好調を維持。74歳の現在も溶接の現場に立つ。
2人の子も、広布への志を継いでいる。師への報恩を胸に、妻の美由喜さん(中川大勝区、区副婦人部長)と共に、きょうも地域に信頼を広げる。

100回を超える池田先生の中部指導。先生はその度に、師弟の魂を堅塁の大地に打ち込んできた。
90年(同2年)10月に行われた第5回中部総会。先生は、伊勢湾台風や「言論問題」など、さまざまな苦難の坂を乗り越えてきた中部の同志をたたえた。
「一番、苦労した人が、一番、幸福になる。これが妙法である。一番、苦難と戦った人が、一番、境涯を開いていく。これが信心の大功徳である」
師の言々句々が、参加した沢井美枝子さん(中川王者区、区副婦人部長)の心に強く響いた。
58年(昭和33年)、貧乏のどん底の中で母と入会。幸福を追い求め、学会活動に励んだ。
20歳の頃、夏季講習会に参加し、池田先生と初めての出会いを結ぶ。「絶対にこの信心から離れてはいけないよ」「幸せになるんだよ」。師の温かさが胸に染みた。キャンプファイアを囲み、先生と共に「人生の並木路」を歌ったことは生涯の原点だ。
女子部では部隊長まで務め、25歳で結婚。子育てをしながら、中川の地で支部婦人部長、婦人部本部長として広布の最前線を駆けた。夫の信宏さんが病に倒れた時も献身的に支えた。信宏さんは命の危機を幾度も乗り越え、2007年(平成19年)に安らかに霊山へ旅立った。
その後、沢井さん自身も、がんや脳腫瘍など、病魔に襲われるたびに、"蘇生のドラマ"をつづってきた。その体験を語りながら、元気に訪問・激励に歩いている。

昨年12月の中部総会へのメッセージで、池田先生は呼び掛けた。
「我らが決めた栄光の『この道』に、地涌の青年を、ますますにぎやかに呼び寄せながら、いよいよ勇敢に、たゆみなく進もうではありませんか!」
中川の友は歩み続ける。自ら願い、師に誓った使命の人生を。誕生40周年となる「この道の歌」を朗らかに歌いながら。