海・川・山での
事故が急増する夏。
天候の変化に注意し
体調管理も万全に。
油断は絶対に禁物だ!
御講聞書 P819
『今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉る者、無上宝聚不求自得の長者に非ずや』
【通解】
日蓮門下の、南無妙法蓮華経と唱える者は、「これ以上はないという『宝の聚まり』を、求めることなく、自ずから得た長者」なのである。
〈寸鉄〉 2018年8月3日
完結へ『新・人間革命』の連載進む。我らも綴らん。師弟共戦の黄金の自分史
「水のごとく信ぜさせ給へ」御書。今日も溌剌と。弛まぬ信心に人生の栄冠
私の最大の楽しみは若い人を育てる事—戸田先生宝の未来部に皆で励まし
誰も見ぬ所で力を出すのが真の武勇—文人。学会守る牙城会・王城会の姿
熱中症の対策の鍵は朝食と。酷暑の時こそリズム正しく。強き祈り根本に
☆歌声高く 第7回 地涌の讃歌
◇愛する天地に幸福の虹を
地涌の菩薩——それは、法華経の会座において、大地から涌出して、末法における広宣流布を誓った菩薩である。その意義を、池田先生はこう語る。
「『人間の底力』『民衆の底力』を、晴ればれと、巍々堂々と満天下に示していく」ために現れたのだ——と(『法華経の智慧』)。
中国方面の歌「地涌の讃歌」とは、いかなる苦難にも屈せずに、絶望を希望へと転じゆく崇高な「人間生命」「民衆の連帯」への讃歌にほかならない。
西日本豪雨の被害が大きかった広島と岡山をはじめ、山口、鳥取、島根の中国方面5県の友は今、誕生から40周年を迎えたこの歌を歌うたび、「この地愛さん」と歌詞につづった師の思いを噛み締める。
40年前の1978年(昭和53年)7月も、列島各地で平年より早く梅雨が明け、蒸し暑い日が続いていた。その中を、先生は、友の激励に駆けた。
関西指導を終えた先生は19日、岡山文化会館(現・岡山南文化会館)へ。到着するなり「中国の歌を作るよ!」と力強く。ロビーに座り、作詞が始まった。協議会や懇談会などの合間を縫って作詞は続けられ、19日夜、歌詞がほぼ固まった。
翌20日、先生は岡山をたち、特急列車に乗って、本部幹部会の開催地である鳥取・米子へ向かった。当時、第1次宗門事件の烈風の嵐が吹き荒れていた中国にあって、特に悪侶による激しい迫害のあった地が、鳥取だった。
歯を食いしばり耐えてきた、けなげな同志を何としても励ましたい——先生の熱情は、言の葉の奔流となってほとばしった。移動の車中で、方面歌の歌詞に筆を入れ始めたのである。
米子文化会館に到着した頃には、日は西に傾いていた。先生は同志と懇談しながら、方面歌の曲について思案を巡らせ、作曲者に調整を依頼した。
夜が更け、先生は会館の庭へ。天は満月。宙には無数の蛍が舞う。伯耆富士・大山のシルエットが月夜に浮かんでいた。先生は湧き出る詩興にまかせて、曲入りの歌のテープを聴きながら、さらに歌詞に手を加えた。「此の時の姿の絵巻は 終生忘ることはなし」と、後に述懐している。
22日、ヒマワリに彩られた本部幹部会(米子文化会館)の席上、方面歌が発表されると、友の歓喜は爆発した。天も地も、人の心も美しい詩情豊かな中国に、師弟共戦の歌が誕生した。
♪地涌の讃歌の 歌声も
勝利の空へ
こだません こだません
ああ虹かかる
生命晴れたり……
40年を経て、中国の地涌の友は、誓いも新たに歌声を響かせる。
苦難の風雨に打たれた天地にこそ、幸福の虹は必ずかかる。最も苦しんだ人が、最も幸せになれる——この確信の太陽を、わが生命に赫々と昇らせながら。
MEMO
「地涌の讃歌」の発表は鳥取での7月の本部幹部会。5月には広島で本幹が行われていた。2カ月の間に方面で2回、"最重要の行事"が開かれ、中国として「黄金不滅の歴史」を刻んだ。同歌の誕生の経緯は、小説『新・人間革命』第28巻「広宣譜」の章に描かれる。またSOKAチャンネルVODで同歌のコーラス入り映像を配信。VODが利用できる会館等や「SOKAチャンネル モバイルSTB」で視聴できる。
一、轟く歓喜の 中国に
広布の船出も にぎやかに
ああ紅に
友は燃え 友は燃え
進み跳ばなん 手と手結びて
二、この地愛さん 中国の
幸の花咲く 友どちと
笑顔も嬉しや
爛漫と 爛漫と
指揮とる顔 光燦たれ
三、陽出ずる中国 人の城
地涌の讃歌の 歌声も
勝利の空へ
こだません こだません
ああ虹かかる 生命晴れたり
四、いざや中国 万年の
甘露の雨に そそがれて
この道確かと
走りゆけ 走りゆけ
ここに広布の 歴史輝く