2017年4月4日火曜日

2017.04.04 わが友に贈る

煩悩即菩提の信心だ。
悩みがあるから
大きく成長できる。
試練の嵐を突き抜け
歓喜の人生を飾りゆけ!

一生成仏抄 P383
『若し心外に道を求めて万行万善を修せんは譬えば貧窮の人日夜に隣の財を計へたれども半銭の得分もなきが如し』

☆女性に贈ることば 四月四日
母よ 大楽観主義者の母よ!
誰でも あなたの名を呼ぶとき
暖かな春が 胸に よみがえる
誰でも あなたの声を開くとき
懐かしい故郷から 生きる力を得る

☆今日のことば365 四月四日
将来、社会人として経験する、−−会社の先輩、後輩も、競争相手も、表面に見る姿は、千差万別であるが、その基底に、人間としての理解があってこそ、はじめて、それを生かしていくこともできるのであろう。

☆誓いの天地 東京・目黒区 2017年3月26日
多彩な人材が光る若者の街
勝利の旗翻る「不二の故郷」

東京・目黒区は、都内でも有数の"おしゃれな街"。なかでも、自由が丘と共に、中目黒には若者に人気の店が集まる。
中目黒駅から区の北端に位置する駒場までの地域が、酒井康成さん(目黒戸田区、男子部本部長)の広布の舞台だ。
芸能関係やアパレルなど、多彩な分野で活躍する人材が多い。酒井さんも、昨年5月3日、念願のイタリアンレストランを世田谷区内にオープン。生パスタ専門店として、注目を集める。
学生時代、バンド活動に情熱を注ぎ、大学卒業後はアルバイトをしながら、ミュージシャンを目指した。ところが、母が体調を崩したため、家計を支えようと、イタリア料理店で働き始めた。
夢を諦め、母を看病しながらの生活。人には言えないつらさもあった。その時に、壮年・男子部の先輩が何度も励ましに来てくれた。温かな言葉の数々に、"今こそ、この信心で宿命転換していこう"と腹が決まった。次々と弘教も実らせた。
その間、職場では店長に。4年連続で前年を上回る売り上げを達成し、信頼を勝ち取った。
一方で、母の体調には変化が見られなかった。ある日、自宅で転倒し、検査で脳出血が見つかった。意識が戻らず、医師からは"障がいが残る可能性"も指摘された。
寝る間を惜しんで、母の回復を祈り続けた。その後、意識が戻り、後遺症も一切なく、無事に退院。以来、見違えるように母は元気になった。
「先輩から教わった御書の『地獄の苦みぱっときへて』(1000ページ)の一節を実感しました」
2年前には、母子がそれぞれに弘教を達成。多くの方々の励ましがあって、今の自分がある——。感謝を胸に、酒井さんはきょうも、目黒を駆ける。

柿の木坂、碑文谷、青葉台など、目黒には閑静な住宅街もある。治安も良く、女性の"憧れの街"だ。
コールマン・明美・ティファニーさん(目黒池田区、女子部部長)は、桜の木々が立ち並ぶ八雲の住宅街で活動に励む。
父が経営する、フェレットなどの動物の輸入販売会社で働く。北海道から九州まで、全国のペットショップと取引を行っている。
父は米国人、母は日本人。幼い頃は、自身の肌の色で、周囲からさまざまに言われたが、高校生になると一転、「格好いい」と言われるように。
人の評価は、その時々で変わると感じた。だからこそ、"自分らしく生きなければ"と思った。だが、人間関係に行き詰まり、高校卒業後、自宅に引きこもった。
家族は、そっと見守り続けた。心配した友人が、何回も自宅に訪ねてくれた。その友人は、明美さんが再び立ち上がることを願い、自ら進んで入会した。
明美さんも「冬は必ず春となる」(御書1253ページ)の御聖訓を胸に、祈り続けた。やがて、少しずつ元気を取り戻し、学会活動にも挑戦できるようになった。
昨年、白蓮グループで薫陶を。女子部部長の任命も受けた。その時から、夜の勤行は家族で行うようになった。
"何でも語り合える華陽姉妹の連帯を"との思いで、訪問激励に歩く明美さん。周囲には、友の笑顔が広がっている。
——先日、全国で最も早く東京で、桜(ソメイヨシノ)の開花が宣言された。目黒川沿いは、区内だけでも約4キロにわたり、約800本の桜が咲き誇る。来月に開催される"桜まつり"は毎年、多くの花見客でにぎわう。
桜花舞う「4・2」から栄光の「5・3」、そして青年の月・7月へ、大東京をリードする目黒青年部の痛快な勝利劇が、あの地、この地で始まっている。

◇栄光の共戦譜
65年前の5月3日に結婚した池田先生ご夫妻は最初、目黒区三田に居を構えた。
恩師・戸田先生の自宅の最寄り駅は目黒駅。そこから、先生は恩師の自宅へ通った。時には、雨の権之助坂を恩師と共に歩き、駅周辺で食事をしたこともあった。
池田先生の青春の思い出が刻まれた目黒。先生と目黒の友の"黄金の歴史"もまた、幾重にも刻まれてきた。
なかでも、間もなく迎える3月29日は、目黒の友の"魂の原点"。1973年(昭和48年)のこの日、目黒の代表が学会本部(当時)に集い、記念撮影会が開催された。
先生は、その場に集った青年部で、「目黒兄弟会」を結成することを提案。そして、こう語った。
"いかなる立場であれ、全員が目黒の責任者です"
前澤芳雄さん(目黒池田区、副本部長)は、この時の出会いが生涯の宝だ。「"目黒を頼む"との先生の思いに応えていく決意は、今も変わりません」
克枝さん(同、婦人部副本部長)と結婚後、伸一さん(新立川総区、総区男子部書記長)が誕生。伸一さんが東京創価小学校の1年の時、股関節が原因不明の血行障害で壊死するペルテス病を患った。
矯正用の装具を着けて通学する息子の姿。胸が引き裂かれる思いだった。"原因不明だからこそ、信心しかない"と、夫婦で真剣に祈り続けた。すると、股関節の骨が少しずつ再生。1年半後、見事に完治した。
前澤さん自身も、慢性硬膜下血腫や急性膵炎、脳梗塞と、数々の病魔に襲われたが、全て信心で乗り越えてきた。
昨年、目黒体育協会の理事に。地域のティーボール(野球に似た球技)連盟の副会長も務めるなど、地域活性化にも取り組む。
前澤さんは誓う。「『目黒兄弟会』の誇りに燃え、師恩に報いる道を進んでいきます」

40年前の77年(同52年)3月25日、先生は目黒平和会館(現・目黒国際文化会館)の開館記念勤行会に出席。"いかに時代が変わろうとも、学会精神だけは変わってはならない"と力説した。
加藤陽子さん(目黒戸田区、地区副婦人部長)は、この場に駆け付けた。
大学卒業後、小学校の教員に。教育に情熱を注ぐ日々は、充実していたが、当時71歳の母がアルツハイマー型認知症に。母の介護で眠れない日々が続き、職場で倒れたこともあった。
しかし、夫・英士さん(同、本陣長〈ブロック長〉)や同志の支えを力に、一歩も引かなかった。
クラスが思うようにまとまらない時も、朝、児童の成長を祈り、教壇に立った。今でも、その子らとの交流は続いている。
長年の介護の後、92歳で母は霊山へ。亡くなる直前まで、加藤さんは笑顔で見守り続けた。
今、朗らかに学会理解の輪を広げる。「困難な状況にある人に寄り添い、希望を送りたい」
その他者に尽くす心は、2人の娘にも受け継がれる。長女・久美子さんは総区女子部長、次女・恵子さんは女子部部長として、後継の道を進む。

目黒平和会館(当時)が開館して20日余りの77年4月15日。同会館で、本部幹部会が行われた。岩間市子さん(目黒戸田区、婦人部副本部長)は参加した一人だ。
戦後3年が経過した48年(同23年)の入会。女子部時代、香峯子夫人と共に、広布拡大にまい進したことは、誉れの歴史だ。
60年前の57年(同32年)7月12日の「東京大会」、同年9月8日に横浜・三ツ沢の陸上競技場で発表された戸田先生の「原水爆禁止宣言」、60年(同35年)5月3日の池田先生の第3代会長就任式など、数々の広布史の節目の場に参加した。
決して順風満帆な人生ではなかった。家計を支えるため、中学卒業後から働き始めた。離婚も経験したが、信心を貫き、女手一つで2人の子どもを育てた。
「広布に戦うのは当然です。先生から数々の励ましを頂いたんですから」と言葉に力を込めた。
80歳になった今、めっきり足腰が弱くなったというが、毎日、マンションの階段を上り下りしては、地域に対話の花を咲かせる。
「広宣流布が私の使命。まだまだ口は動くから、どんどんしゃべるよ」——岩間さんの「戦う魂」は今も燃え続けている。
20年前の1月、池田先生は目黒の同志に長編詩を贈った。
「ああ/縁も深き目黒!/それは 恩師と私/そして/私とわが同志の/民衆栄光の旗 翻る/不二の故郷なり」
さあ、今再び、壁を破ろう。目黒の底力で、"勝利の旗"を翻らせる時が来た。