2019年1月3日木曜日

2019.01.03 わが友に贈る

新聞休刊日

日女御前御返事 P1244
『相構え相構えてとわりを我が家へよせたくもなき様に謗法の者をせかせ給うべし、悪知識を捨てて善友に親近せよとは是なり』

【通解】
よくよく心を引きしめて、遊女を我が家へ寄せつけたくないと思うのと同じように、謗法の者を防がなくてはならない。「悪知識を捨てて善友に親近しなさい」というのは、このことである。

☆新春特別企画 小説「新・人間革命」完結に寄せて ここから山本伸一は躍り出た
◇1949年1月3日 戸田先生の会社・日本正学館に池田先生が初出勤して70周年
◇冒険少年・少年日本の編集長 「少年に偉大なる夢を」

70年前の正月、1949年(昭和24年)1月3日に池田先生は、東京・西神田の日本正学館に初出勤した。師弟の運命的な出会いから1年4カ月余。戸田城聖先生は、自ら経営する出版社の一員に池田先生を加え、本格的な薫陶を開始する。小説『人間革命』『新・人間革命』の「山本伸一」はこの日、ここから、躍り出ていった。

東京のJR水道橋駅を降り、西口から南へ。千代田区西神田3丁目の五差路を右に曲がると、1台の公衆電話ボックスがある。普段は気に留める人も少ない。
昨年の4月30日、この電話ボックスを、池田先生はカメラに収めた。
今から70年前、そのすぐ奥に小さな建物があった。「日本正学館」。第2代会長・戸田城聖先生が経営する出版社である。
1949年の1月3日の朝。池田青年が扉の鍵を開けた。前日に、21歳になったばかり。
来るのは初めてではない。建物の2階には創価学会本部が置かれ、戸田先生が法華経講義を行った。池田青年も受講生であった。
それに、同じ駅の東口には、夜学生として学んだ東洋商業(現・東洋高校)があり、神田神保町の古書街にもよく足を運んだ。
だが、通い慣れた街の空気も、この日は、新鮮であったに違いない。新春というだけでなく、戸田先生の会社の一員として、初出勤する日だったからである。
入信して1年4カ月余。波乱激流を越え、広宣流布の道を切り開いていく師弟一体の劇は、ここから本格的に始まるのである。

初出勤の一日を、池田先生は鮮明に記憶している。
大森の自宅から弁当を持って午前8時に着くが、ほかに誰も来ていない。
無人で底冷えのする事務所で、黙々と掃除に精を出す。10時を過ぎても一人。"いったい、どうなっているのだ"といぶかしんでいると、訪ねる人がいた。電報の配達人だった。戸田先生宛てのもので、芝白金台町の自宅まで届けた。恩師の家を訪問するのは、それが初めてだった——。
入社後、池田先生が担当したのは、少年誌『冒険少年』の編集の仕事だった。
毎日のように叱られたが、恩師と一緒に働けることが何よりうれしかった。編集の仕事に携わるのは、少年時代からの夢でもあった。企画、原稿・挿絵などの依頼と受け取り、レイアウトから校正まで、一人で何でもやった。
目が回る忙しさの中でも、「日本一の雑誌に」「戸田先生を日本一の社長に」と、気宇壮大だった。
真剣、誠実な仕事ぶりが認められ、5月からは編集長を任されるようになる。
池田編集長が世に出したのは『冒険少年』の49年7、8月号(9月号は休刊)。改題した『少年日本』の10、11、12月号である。
荒廃した終戦後の世相の中で、子どもたちに「偉大なる夢」を贈りたかった。小学校の前まで行き、どんなものが読みたいか尋ねてみたこともある。
日記に書き残した。「少年よ、日本の少年よ。世界の少年達よ。願わくは、常に、一人も洩れなく明朗であれ、勇敢であれ、天使の如くあれ」
『冒険少年』『少年日本』に執筆した作家には、時代小説の山岡荘八、「銭形平次」の野村胡堂、日本SFの父・海野十三、「猿飛佐助」で知られる漫画家の杉浦茂、イラストの巨星・小松崎茂らがいた。
『少年日本』が休刊したため、幻に終わるが、大衆詩人の西條八十、推理小説家の横溝正史も、若き編集長の情熱を買って、執筆を快諾してくれた。
重要なのは、1年に満たない編集者の時代に、小説『人間革命』『新・人間革命』につながる線が見えることだ。『少年日本』10月号に載ったスイスの教育者ペスタロッチの伝記に、筆者「山本伸一郎」とある。依頼原稿が届かず、池田先生自ら、急きょ、書き下ろしたものである。
戸田先生も「なかなかいいじゃないか、山に一本の大樹が、一直線に天に向かって伸びてゆく」と、ペンネームを気に入っていた。
そこから「郎」を取った「山本伸一」が、小説『人間革命』に登場し『新・人間革命』の主人公となる。
絵を掲載した画家たちの一人には、三芳悌吉氏がいた。のちに『人間革命』の挿絵を担当した。
山岡氏が『少年日本』に書いた小説「紅顔三剣士」は未完となるが、その翌年、大長編『徳川家康』を開始。そのころ、氏が強調した言葉が「人間革命」である。同書第1巻のあとがきに「『徳川家康』に仮托して、人間革命の可能の限界を描こうとして気負っている」と書いた。
のちに山岡氏は、小説『高杉晋作』を聖教新聞に連載。完結の翌月、65年1月から始まった連載が、小説『人間革命』だった。

「ドッジ・ライン」によるデフレ不況の直撃を受け、戸田先生の出版事業は行き詰まり、『少年日本』は49年12月号で休刊となった。新しく始めた信用組合も、翌50年8月に業務停止。戸田先生は、創価学会の理事長も辞めざるを得なくなる。利なしと見て、多くの人間が去っていった。
そのただ中、池田先生は命を削って恩師に仕えた。
肺の病に苦しんだ。夜学(大世学院=東京富士大学の前身)も断念。給料も遅配が続く。靴下は全て破れ、自分で繕った。冬に着るコートもない。それでも恩師を信じ、慕い、支え、学会の第2代会長への道を開いていった。
戸田先生の真実、師弟の真髄は、自分でなければ描けない——恩師の膝下で池田先生が育んだ誓いの結晶が、小説『人間革命』『新・人間革命』である。
連載が完結した今も、創価の師弟を永遠ならしめんとする、その情熱が、衰えることはない。

◇小説「新・人間革命」第16巻「入魂」の章
戦後、学会の再建に着手した戸田城聖が、出版事業を再開し、日本正学館の事務所として購入した建物があったのが、今の千代田区の西神田であった。
この三階建ての社屋に学会本部を置き、一九五三年(昭和二十八年)十一月に、信濃町に学会本部が移転するまで、ここが広宣流布の電源地となってきたのである。
また、伸一にとっても千代田区は、青春時代の黄金の思い出を刻んだ天地であった。
戸田が、西神田に事務所を構えたころ、伸一は現在の千代田区三崎町にある、東洋商業の夜学に通い始めている。さらに、信心を始めた彼が、戸田から法華経講義を受けたのも、西神田の学会本部であった。
そして、一九四九年(昭和二十四年)一月に日本正学館に勤務するようになった伸一は、この建物を舞台に、師弟共戦の苦闘と栄光に彩られた、青春の日々を送っていくことになるのである。
特に戸田の事業が苦境に陥った一九四九年秋から一年半ほどの間の、まさに劇のごとき日々は、決して忘れることはできなかった。