◇今週のことば
広布に走る宝の友へ
温かな労いと励ましを!
「当に仏を敬うが如く」
真心こもる一言から
希望の波動が広がる。
2018年10月08日
聖人御難事 P1190
『月月日日につより給へすこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし』
【通解】
月々日々に信心を強めていきなさい。少しでもたゆむ心があれば、魔がそのすきにつけこんで襲ってくるであろう。
〈寸鉄〉 2018年10月8日
皆が勝った!轟く歓喜の中国方面総会。開拓魂を赤々と新時代建設へ船出
「我れ等は仏に疑いなし」御書。故に何があろうと怯まず。宿命に打ち勝て
限界を乗り越えるには勇気ある努力が必要—哲人不屈の挑戦を青年らしく
気温変化が大きい季節。体調管理を賢く。朝夕の勤行で生活リズム整えて
河川の増水被害に備えて全国で水位計増設。公明が主導。命守る対策更に
☆世界に魂を 心に翼を 第8回 東京国際音楽コンクール(上)
◇次代を担う若き指揮者を楽壇へ
静寂のホールにタクトが一閃。
指揮者の指先に導かれるように、オーケストラから旋律が紡がれる。
3年に1度、民音の主催で開催される「東京国際音楽コンクール〈指揮〉」。今年は42カ国・地域、238人の応募の中から、書類・映像の審査を通過した18人が、10月8日から始まる予選・本選に臨む。
同コンクールの淵源は、1966年に始まった「民音コンクール」。声楽、指揮、室内楽、作曲などの分野でそれぞれコンクールが行われ、88年に「東京国際音楽コンクール」と改称されて現在に至る。
指揮者コンクールの初代審査委員長を務めたのは、チェロ奏者、指揮者として活躍した齋藤秀雄氏(1902年〜74年)。日本の音楽教育の先駆者であり、この人を抜きにして戦後日本の音楽は語り得ない。
齋藤氏を師匠と慕う人は数多く、世界的指揮者の小澤征爾氏も、その一人である。
東京・信濃町の民音文化センターで行われた齋藤氏の生誕100年を記念する特別展示(2002年5月〜7月)には、小澤氏も足を運んだ。
氏のドキュメンタリー番組を制作するために、テレビ局のスタッフも同行していた。
階段を上がった展示室には、齋藤氏が愛用したブリュートナー社製のピアノが。小澤氏が立ち止まり、「ああ、懐かしいなあ」と目を細める。
隣の展示室では、齋藤氏が指揮するベートーベンの交響曲第5番「運命」が上映されていた。
「懐かしい。そうそう、こういう指揮なんだよな」
番組のリポーターが「小澤先生にとって、齋藤先生はどういう存在でしたか?」と尋ねた瞬間だった。
「少し黙っていてよ。今、先生とお会いしてるんだから」
じっと姿勢を崩さず、目を潤ませる姿に、見守るスタッフは皆、襟を正した。師が逝いてなお、その絆は不変だった。
◇ ◆ ◇
小澤氏が、フランスのブザンソン国際指揮者コンクールで優勝したのは1959年。
当時、海外留学は"特別な出来事"だった。氏は「生きては帰れないんじゃないかとか、親が年をとっているともう会えないんじゃないかと、本当に泣きの涙で深刻な思いで行ったんだ」と述懐している。(「月刊みんおん」84年3月号)
氏はパリに到着して初めて、指揮のコンクールがあることを知った。
当時、指揮者を志して大学の指揮科を卒業しても、オーケストラを指揮できる機会は、ほぼなかった。
コンクールで優勝し、飛躍の足がかりを築いた氏は、若き逸材を探し出す指揮者コンクールの重要性を肌身で感じてきた。
民音の指揮者コンクールに、氏がイタリアのフィレンツェからビデオメッセージを寄せたことがある。
「私の師匠でもあり、日本の音楽を底から持ち上げてきた齋藤秀雄先生が……」
豊かな白髪をかき上げ、師匠との思い出、欧州での修業の日々、若い世代への期待を一気に、よどみなく語り、こう結んだ。
「民音の方には本当に感謝しております。齋藤先生が生きていらしたら本当にうれしがるだろうと……。このコンクールが始まる前から、先生がやりたいという気持ちを僕は知っていたんで、素晴らしいことをしていただいたと思っております」
小澤氏は指揮者コンクールの第1回以来、21年にわたって審査員を務め、現在も組織委員として若き人材の成長を見守っている。
◇ ◆ ◇
「青春時代、手回しの蓄音機で聴いたベートーベンの名曲に、どれほど心を励まされ、苦闘の日々を生き抜く力を得たことだろう」
民音創立者の池田先生は、折々に音楽の思い出を語っている。
先生が創価学会の会長に就任した1960年当時、クラシック音楽やオペラ、舞台などの公演は、チケットが高額で、一般の庶民にはなかなか手が出なかった。
「民衆の時代だ。芸術は一部の特権階級のための、閉ざされたものでは決してない。人類共通の宝である最高の音楽を、民衆の手に届くものにしたい——」
この願いが込められた五つのスローガンとともに、63年10月18日、民音は創立された。
その一つに、「日本の音楽家を育成し、その優秀な作品、並びに演奏を、広く内外に紹介する」とある。
民音では、読売日本交響楽団などで定期演奏会を企画し、従来に比べて3分の1ほどの入場料を実現することができた。鑑賞の機会を大きく広げるとともに、優れた人材の発見・育成を通して、音楽文化発展への貢献を模索。66年5月には、早くも民音コンクール〈声楽〉を実現している。
声楽家の伊藤武雄氏に相談し、二期会創設者である柴田睦陸氏、中山悌一氏、畑中良輔氏をはじめ、薗田誠一氏、木下保氏、藤原義江氏らが審査を担当することに。日本の声楽界を代表する重鎮ばかりである。
そして翌67年の指揮者コンクール創設へ向け、民音の担当者が訪ねたのが、齋藤秀雄氏であった。
音楽教育の普及に奔走し、桐朋学園の創立に尽力。この年、65歳を迎えた齋藤氏は日本指揮者協会会長に就任している。指揮を振りつつ、教育にも一層の熱意を燃やしていた。
氏は熱心な指導で知られ、その厳愛の叱咤を生涯の思い出とする人々のエピソードは、枚挙にいとまがない。
民音の担当者が氏のもとを訪ね、指揮者コンクールの構想を伝えると、氏は黙って考え込んだ。
重ねて創立者の理念を訴えると、氏はおもむろに「分かった。やりましょう」。
齋藤氏を中心に、審査員の選考が始まった。
秋山和慶氏、朝比奈隆氏、大町陽一郎氏、小澤征爾氏、金子登氏、外山雄三氏、森正氏、山田一雄氏、若杉弘氏、渡邉暁雄氏ら、一流の指揮者がコンクールの趣旨に賛同した。
当時、民音の企画部長として指揮者コンクールに携わっていた佐伯孝明さんは振り返る。
「創立当初は"なぜ宗教団体が音楽活動をするのか"といった誤解や中傷もありました。ですが、一流の音楽家、芸術家ほど、そうした偏見とは無縁でした。むしろ音楽に真剣な方ほど、信仰への理解も深かったように思います。日本の指揮界が、齋藤先生を中心に一つにまとまったような気がしました」
◇ ◆ ◇
指揮者コンクールといえば、ブザンソン国際指揮者コンクールやトスカニーニ国際指揮者コンクールといった欧州での開催が有名だが、民音の指揮者コンクールは、日本はもちろん、アジアでも初の試みであった。
開催期間や審査方法、参加規定、会場の手配……。山積する課題の中でも、とりわけ難問だったのがオーケストラの確保である。
声楽のコンクールと異なり、指揮にはオーケストラが不可欠。そのオーケストラも、指揮を正確に読み取る技量が求められる。
指揮の誤りや悪い部分は、悪いまま表現しなければならないが、技術が拙いオーケストラでは、どんな指揮も似たような音になってしまう。
一つのプロオーケストラをコンクールのために借り切る。前例のない取り組みでもあったが、民音の定期演奏会に出演していた読売日本交響楽団が、その任を快諾した。
数々の障壁を乗り越えて、67年6月、東京・虎ノ門ホールで民音コンクール〈指揮〉の幕が上がった。
若手指揮者の登竜門として、ここから幾多の入賞・入選者が、世界の楽壇へ羽ばたいていく。