2018年7月4日水曜日

2018.07.04 わが友に贈る

「いつも・たいせず
信ずるなり」
清流のごとき信心で
わが生命に 揺るがぬ
幸の宮殿を築きゆこう!

生死一大事血脈抄 P1338
『上行菩薩末法今の時此の法門を弘めんが為に御出現之れ有るべき由経文には見え候へども如何が候やらん、上行菩薩出現すとやせん出現せずとやせん、日蓮先ず粗弘め候なり』

【通解】
上行菩薩が、末法今の時にこの法門を弘めるために御出現になられることが経文に見えるが、どうであろうか。上行菩薩が出現されているにせよ、されていないにせよ、日蓮は、その先駆けとして、ほぼ弘めたのである。

〈寸鉄〉 2018年7月4日
青年の心を揺さぶるのは青年の叫び—戸田先生。若獅子よ大胆に動き語れ
幹部の責任感はスピードに表れる。報告・連絡・相談は迅速に。勝利の礎
喜とは自他共に喜ぶ事なり」御書。最高の同志と共に歓喜の拡大劇を!
食中毒に注意を。食材の適切な保管や調理、手洗い等を徹底。予防が第一
電源プラグやコンセントの埃は火災の元。今一度の総点検を。小事が大事

◎千葉、新時代へ船出を友に
松戸は市川と共に、第6千葉総県になりました!

☆世界に魂を 心に翼を 第5回 人間に歌あり(上)
◇人々を結び 時代を動かす力
歌は、人を鼓舞する。
歌は、人々の心を結ぶ。
歌は、時代を動かす力となる。

恩師・戸田先生は「民族の興隆には、必ず歌があった」と折に触れて語り、青年の歌声を愛した。
声に思いが感じられないと、「そんな歌い方で、この歌の心が分かるか」と厳しく諭すこともあった。
「青年部に合唱団をつくったらどうかね」と提案したのも戸田先生である。その翌年(1958年)、池田先生は早速、合唱団を結成。師の構想をいち早く実現した。
戦時下の獄中にあって、民衆を勇気づける歌を作った戸田先生。
池田先生もまた、自ら詩を綴り、100曲を超える歌を生み出してきた。そして、折々の語らいやスピーチで古今東西の歌の淵源などに言及し、その精神を伝えている。
◇ ◆ ◇
東京・信濃町の民音音楽博物館で開催されている「人権と音楽」展では、米国の公民権運動に関わったジャズ奏者や、南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離)撤廃の史実等を紹介している(7月8日まで)。
こうした歴史をひもとくと、人間にとって、歌が、なくてはならないものであることが鮮明になる。
米公民権運動は、白人の乗客へバスの席を譲るよう恫喝されたローザ・パークス氏が、命令を拒否し、逮捕されたことに端を発する。
ここからM・L・キング博士が指揮するバス・ボイコット運動が始まり、63年8月には人種差別撤廃を求めるワシントン大行進が。20万人による「ウィ・シャル・オーバーカム(私たちは必ず勝利する)」の大合唱が轟き、「私には夢がある」で知られる歴史的演説が行われた。
パークス氏は後年、バスの席を譲ることを拒んだ理由として、母がいつも歌ってくれた「ああ、わが頭上の自由」があったと述懐した。
「あの歌詞を決して忘れません」「この歌詞のおかげで、私は、自由になるということがどういうことかを感じとることができました」
当時、黒人は"二流市民"として扱われ、黒人へのリンチや殺人事件が横行。そんな中、奴隷制の時代から受け継がれてきた賛美歌の歌詞を「神」から「自由」に入れ替えて歌い、生きる希望を紡いできた。
パークス氏は言う。「歌のおかげで、私たちは、真の自由への夢を保ちつづける力を得ることができました。そして、これらの歌を歌うたびに、もう引き返すことはできないのだと思いました」
◇ ◆ ◇
キング博士も、歌が「運動の魂」であったと語っている。
ある夜、弟から電話があった。博士や同志の命を狙った爆弾が仕掛けられ、弟の家が爆破されたという。
受話器を取り、驚いた。混乱が伝わる声の後ろから、同志たちの歌が聞こえてきたからだ。
「ウィ・シャル・オーバーカム」の澄んだ歌声だった。
「このような悲劇の瞬間に黒人がまだ希望と信仰で自分自身を言い表していることに、私は驚嘆した」と博士は記す。デモで投獄された時も、次々に連行される逮捕者が、そうした歌を大声で歌いながら入ってきたことに、強く励まされたという。
「これらの歌はわれわれを結束させ、われわれに勇気を与え、そしてわれわれが一緒に行進するのを助けてくれた」と語り、音楽を通し、いかなる悲観的な状況でも、柔軟な楽観主義が湧き上がったと振り返る。
64年7月には、人種差別を撤廃する公民権法が成立した。
運動の高まりの中、池田先生はアメリカを訪れている(60年10月)。
シカゴで黒人少年への差別的行為を目撃した先生は、人種や民族を超え、人間の尊厳が輝く社会を訴え続けてきた。ハーバード大学等で平和の世紀を展望する講演を重ね、アメリカ創価大学や国際対話センターを創立した。
同大学には、キング博士をそばで支えたコレッタ夫人や、パークス氏も来訪している。学生が平和への誓いを込めて「ウィ・シャル・オーバーカム」を歌うと、コレッタ夫人は「私たちが苦しみに直面した時に、いつも歌って自らを元気づけた歌です。私は今日のこの感動を、一生忘れないでしょう」と。
パークス氏は池田先生との会見を回想し、「人権への関心において、池田博士は今世紀の多くの人々よりも先を行っていました」とインタビューに答えている。
◇ ◆ ◇
米公民権運動と同時期の64年、南アフリカでは、反アパルトヘイト運動の指導者ネルソン・マンデラ氏が反逆罪で終身刑を宣告された。
独房は、歩いて3歩の狭さ。ベッドは足も伸ばせない。そこで家族や同志への迫害を聞かされた。
マンデラ氏の名は、人権活動家の間では伝説となっていた。だが収監から十数年が過ぎても、氏の闘争を知る人は限られていた。
氏の解放を願う人々の思いは、やがて幾つもの歌に託されていく。
84年、「フリー・ネルソン・マンデラ」がラジオの電波に乗ると、各地で大規模なイベントが開かれ、氏の名前が広がっていった。
同じく氏を歌った「アシンボナンガ(彼の姿を見ていない)」は、南アフリカ国内では演奏が禁じられ、コンサートも妨害されたが、各国のアーティストが次々とカバーし、解放運動の世論を喚起している。
氏は27年半もの獄中闘争を勝ち越えて釈放。そして91年、アパルトヘイト撤廃の凱歌がこだました。
◇ ◆ ◇
90年10月31日、聖教新聞本社のロビーに、南アフリカの愛唱歌「オリサッサ・マンデラ」の大合唱が響いた。池田先生が500人の青年と共に、マンデラ氏を迎えたのだ。
アフリカ各国の駐日大使とマンデラ氏が語り合った際、訪日の印象を問われ、氏はこう答えている。
「最もうれしかったのは、池田SGI会長にお会いしたことです。また、その際、若い学生の方々らが温かく迎えてくださり、歌まで歌ってくださった。私は27年間、囚われの身で戦ってきましたが、"これで、その努力が報われた"と思いました」
本社での対談で、日本と南アフリカの教育・文化交流が約された。
5年後、大統領として来日した氏と先生の再会の折には、民音による同国を代表する音楽グループの招聘が決定。国際的なフェスティバルで最優秀賞の実績を持つドラケンスバーグ少年合唱団の来日も決まった。
同団では、アパルトヘイトの撤廃前から人種差別に異を唱え、黒人と白人が一緒に活動していた。
もともとは授業料が高額で白人しか通えなかったが、当時の芸術監督が、歌声に差異はないと主張。黒人の入学を受け入れ、その後も度重なる人種偏見をはねのけてきた。
マンデラ氏が遠い日本に送り届けてくれたのは、「人間の平等」を象徴する若き芸術家たちであった。民音での来日公演は4度に及ぶ。
ある夏の公演で、同団のメンバーが語っていた。
"今日は池田博士が無実の罪による投獄から釈放された日です。私たちは、博士に深いつながりを感じます。なぜなら博士とマンデラ氏は、人権と平和のために政治的圧力を受け、投獄、釈放されるという、共通の体験をされているからです。
氏の解放から間もなく、この偉大な両者が会見したことは、ご存じのことと思います。私たちも世界の平和へ努力を続けていきたい——"
歌に託した平和への願い。それは国や時代を超えて受け継がれ、人間が進むべき未来を照らしている。

〈引用・参考文献〉『勇気と希望 ローザ・パークスのことば』高橋朋子訳(サイマル出版会)、クレイボーン・カーソン編『マーティン・ルーサー・キング自伝』梶原寿訳(日本基督教団出版局)、ダグラス・ブリンクリー著『ローザ・パークス』中村理香訳(岩波書店)、ピーター・バラカン著『ロックの英詞を読む』(集英社インターナショナル)。