2018年6月15日金曜日

2018.06.15 わが友に贈る

学び続ける人には
無限の成長がある。
求道の心を燃やし
自分自身を高めよう!
向上の人生を共に!

種種御振舞御書 P910
『各各我が弟子となのらん人人は一人もをくしをもはるべからず、をやををもひめこををもひ所領をかへりみることなかれ、無量劫よりこのかたをやこのため所領のために命すてたる事は大地微塵よりもをほし、法華経のゆへにはいまだ一度もすてず、法華経をばそこばく行ぜしかどもかかる事出来せしかば退転してやみにき』

【通解】
各々、日蓮の弟子と名乗る人々は、一人も、臆する心を起こしてはなりません。法華経のためには、親を思い、妻子を思い、所領を顧みるようなことがあってはなりません。無量劫の昔から現在に至るまで、親子のため・所領のために命を捨てた事は、大地微塵の数より多くても、法華経のために命を捨てた事は、未だに一度もありません。若干、法華経を行じたことがあっても、このような大難が出来してきたために退転して、信仰を止めてしまったのであります。

〈寸鉄〉 2018年6月15日
会長の対話は「聞く行為」に満ちている—博士。相手を知る事が友情の一歩
栃木婦人部の日。創価の女性の連帯は地域の太陽朗らかに!今日も前進を
「一切は現証には如かず」御書。勝利の体験は百万言にまさる。堂々語ろう
法務省騙るはがき等を使った架空請求の相談件数が倍増と。声掛けで撃退
駐車した車、夏には50度以上になる時も。短時間でも子どもの放置は厳禁

☆誓いの天地 東京・板橋区 2018年6月6日
◇愛する地域の発展のために
板橋区は、東京23区の北西部に位置し、埼玉県とも隣接する。区内には、中山道、川越街道をはじめ、環状6・7・8号線や首都高速などが通り、東京の交通・物流の要衝として発展している。
多い時には1日3万人が訪れる「ハッピーロード大山商店街」があるほか、精密・光学機器や印刷関連産業の工場なども集まり、都内有数の工業都市として栄えてきた。
土信田賢一さんが暮らすのは、準工業地域と呼ばれる一帯。近隣には町工場も多い。土信田さんは父が営む水道設備の会社で働く。
高校を中退し、18歳から働き始めた。その時、男子部の先輩から励ましを受け、創価班大学校に入校。御本尊の功力を実感することができたが、願いがかなうと学会活動から離れ、困ったら再び信心するという状態が続いた。ある時、先輩から言われた。
「そんな信心では、いつまでたっても宿命転換できないよ。この信心は師弟の信心だ。池田先生の指導を学び、実践していこう」
猛省した土信田さんは、決意新たに学会活動に励み、弘教も実らせた。
2006年(平成18年)、池田先生が出席した本部幹部会で、創価班の任務に就いた。両手を掲げ"Vサイン"で入場する先生を見た瞬間、「"この人を師匠として生き抜く"と決めました」。
以来、部長、本部長として広布拡大に奔走。日々、御書の研さんに挑み、人材育成に徹してきた。その中で見つかったてんかんも、投薬治療で乗り越えることができた。
16年(同28年)に発表された、創価班の「着任の誓い」に、「地域の発展と勝利のために尽くす」と。土信田さんは、この一節を実践しようと決め、地域の消防団に入団した。防災訓練や毎年の操法大会をはじめ、地域の祭りなどにも積極的に関わっている。
本年4月、板橋太陽区男子部長に就任。「信心しているからこそ、地域に尽くす自分に成長していきます」

庄司陽子さん(板橋戸田区、女子部本部長)は板橋生まれの板橋育ち。大手弁当チェーン店に勤務する。
3年前、現在の区内の店舗に店長として赴任。当初は経験不足から、仕事を任せてもらえず、歯がゆい思いをすることもあった。加えて不規則な勤務形態で、なかなか会合に参加できない日が続いた。
その時、女子部の先輩が温かく励まし続けてくれた。池田先生が後継の友に贈った「私は絶対に負けない! 父母のために わが友人のために そして 恩師のために」との指針を胸に、歯を食いしばった。
従業員に積極的に声を掛け、一つ一つの業務に真剣に取り組んだ。誠実な仕事ぶりで、次第に信頼が広がり、皆が生き生きと仕事に励むように。それと比例するように業績も向上した。
一昨年、庄司さんの店舗は、関東500店舗の中から上位20店舗に贈られる優秀店舗賞を受賞した。
学会活動では、訪問・激励に力を入れ、新しい人材が立ち上がっている。「一人でも多くの友と、最高の青春を歩みたい」と華陽のスクラムを拡大する。

◇栄光の共戦譜
●広布の盤石なる錦州城たれ
「真実の板橋!/それは金の橋である。/それは/心が金であるからだ」
池田先生が詠んだ長編詩「勇敢なる勝利の金の橋——板橋」の一節である。
この長編詩を先生が贈ったのは、2007年(平成19年)6月11日。1953年(昭和28年)のこの日、先生は板橋に第一歩をしるした。「板橋師弟の日」の淵源である。
先生は文京支部長代理として、区内の支部員宅を訪れ、集った青年を抱きかかえるように励ました。
今年で65周年。その佳節を荘厳しようと、友は対話拡大に先駆する。

71年(同46年)10月17日、池田先生が出席して、区内の私立城北高校の体育館で、記念撮影が行われた。後にこの日が「板橋の日」となった。
4000人の同志が、17のグループに分かれての撮影。先生は合間を縫って友に励ましの言葉を贈った。
壮年・婦人に対しては、「不動の幸福境涯を築いていく根源の法が信仰であり、皆さん方一人一人が功徳に満ちあふれ、子孫末代まで栄え、幸福であることが最大の喜びである」と。
青年部には「現在はどのような境遇であっても、10年、20年と純粋な信仰を全うしていくならば、想像を絶する栄光の人生を切り開いていけることは間違いない」と強調した。
立澤洋子さん(板橋錦州区、婦人部副本部長)は、この記念撮影の折、婦人部の一員として板橋音頭を踊ったことが原点だ。
56年(同31年)の入会。同郷の修さん(同、副区長)を折伏して結婚した。
師との出会いを胸に、広布に駆けてきた。修さんが経営する贈答品の卸店の商売に夫婦で励んだ。
全国で「広布第2章」の支部制がスタートした78年(同53年)、修さんが支部長に。洋子さんは夫を支えつつ、同志と折伏にまい進。支部で100世帯以上の拡大を達成したことは、夫婦の金の思い出だ。
洋子さんは、押し花教室やフラダンスを通して近隣に友情を拡大。修さんもPTA会長、保護司、町会役員、志村警察署協議会の会長など、地域の要職を歴任してきた。
2014年(平成26年)、修さんが厚生労働省指定の難病を発症した。その直後、先生から温かな激励が届いた。
師の真心を胸に、夫婦で必死に祈り続けた。その後、治療が功を奏し、現在では、日常生活に支障がないまでに回復した。
立澤さん夫妻は誓う。
「先生のおかげで、所願満足の人生を送ることができました。これからも何があっても、一歩も退かず、報恩の道を歩みます」

♪幼子抱きて 汗流し 尊き元初の 使いをば……

婦人部の白ゆり合唱団の美しい歌声。4月に開催された「5・3」を記念する本部幹部会で、誕生から40周年となる婦人部歌「母の曲」が披露された。
池田先生が作詞した歌詞が発表されたのは1978年(昭和53年)10月21日、板橋文化会館(当時)での本部幹部会の席上である。
幹部会に参加した小菅典子さん(板橋太陽区、婦人部副本部長)。板橋婦人部の「天舞合唱団」1期生として、師の前で「ああ感激の同志あり」などを歌い上げた。
「当時は子育てに奮闘しながら、必死に折伏に挑戦しました。先生が優しい笑顔で拍手を送ってくださったことが忘れられません」
94年(平成6年)、小菅さんを宿命の嵐が襲う。リウマチを患い、一時は車いすでの生活を余儀なくされた。しかし、家族一丸で病魔に立ち向かい、手術も無事に成功した。
夫の昭夫さん(同、副本部長)は、地元の老人会で会長を務めるなど地域貢献に率先。自宅は広布の会場だけでなく、コーラスの練習場所など、地域交流の場としても提供してきた。
両親の姿を見て育った長女の智巳さん(同、婦人部本部長)は、板橋の少年少女部の合唱団に入団。次女の有子さん(佐賀王者圏、支部副婦人部長)も、富士少年希望少女合唱団で、宝の原点を築いた。
智巳さんは80年(昭和55年)の少年部合唱祭の折、師との出会いを結んだ。
先生は、板橋の合唱団の輪の中に入り、未来っ子たちを温かく激励し、智巳さんとも握手を。中心者の要望に応え、「板橋王子王女合唱団」と命名した。
智巳さんは現在、白ゆり合唱団に所属し、先日の本部幹部会で「母の曲」を合唱した。
智巳さんの長女・美子さんは、板橋王子王女合唱団で薫陶を受け、創価中学に進学した現在は、鼓笛隊で鍛えの青春を。次女・美智子さんも同合唱団で成長の日々を送る。親子3代で幸の調べを歌い継いでいる。

先生はかつて板橋の友に呼び掛けた。
"板橋は、関東、東京の広宣流布の盤石なる錦州城たれ"
栄光の65周年から、板橋広布新時代へ——難攻不落の「錦州城」たる誇りに燃え、友は威風堂々の前進を続ける。