2016年6月23日木曜日

2016.06.23 わが友に贈る

広宣流布とは
仏と魔との戦いだ。
油断・過信を戒め
絶対無事故の前進を!
真剣な祈りから出発!

十字御書 P1492
『わざわいは口より出でて身をやぶるさいわいは心よりいでて我をかざる』

☆四季の語らい
真実の師弟の道を行く限り、どこの社会であろうと、いかなる課題があろうと、必ず勝利できる。必ず幸福になる。必ず発展する。必ず、広々と栄光への道が開ける。

☆女性に贈ることば 六月二十三日
子どもたちの成長は、大人たちの成長にかかっている。
ゆえに、教育とは、子どもたちのために何ができるかという、自らの生き方をかけた、大人たちの挑戦にほかならない。

☆今日のことば365 六月二十三日
人間の弱味は、往々にして、欠点を指摘してくれる人から、身を遠ざけようとするものである。だが、実際に、この欠点によって、わが身の蒙る----現実の結果は、それよりも何十倍も辛いものとなるのだ。そうした失敗をさせぬために教えてくれる友だちや、先輩の苦言は、どれほどありがたいか知れない。

☆新会員のための仏法入門 第26回 順縁・逆縁 2016年5月24日
◇私たちの対話は「仏の振る舞い」
仏法の人間主義の哲理や創価学会員が生き生きと実践する姿、また、見事な信仰の実証に共感する友もいれば、偏見や根拠のない風聞をもとに無理解を示す人も……。仏法の話をした際の友人の反応は十人十色です。今回の「みんなで学ぶ教学」のテーマは「順縁・逆縁」です。

◇仏性を触発する尊い実践
あらゆる人の生命に、もともと具わっている仏性(仏の性分)。しかし、ほとんどの場合、その生命は迷いの汚れに覆われてしまっています。
『仏種は縁に従って起る是の故に一乗を説くなるべし』(P1467)
「一乗を説く」すなわち、私たちが妙法を説くことによって、相手が自身の仏性を輝かせるようになるのであり、一人一人と仏縁を結んでいく私たちの実践は、衆生の仏性を触発する尊い実践にほかなりません。
友人に仏法の話をすることを「下種(仏種を下す)」と呼びますが、この時、相手が素直に聞き入れ、信じることを「順縁」といい、逆に正法の教えに反対し、非難・中傷してくることを「逆縁」といいます。
日蓮大聖人は『我が一門の者のためにしるす他人は信ぜざれば逆縁なるべし』(P222)と、大聖人門下となった者が順縁であるのに対し、信じようとしない人は逆縁であると述べられています。

◇正法に縁したことが因に
この仏法では「逆即是順(逆即ち是れ順なり)」と説きます。全ての衆生は仏性を具えているゆえに、たとえ正法を誹謗した人であったとしても、正法に縁したことが因となって、必ず成仏できるのです。
大聖人は、次のように仰せです。
『とてもかくても法華経を強いて説き聞かすべし、信ぜん人は仏になるべし謗ぜん者は毒鼓の縁となって仏になるべきなり、何にとしても仏の種は法華経より外になきなり』(P552)
「毒鼓」とは、毒薬が塗られた太鼓のことで、涅槃経には、その音を耳にした人は、たとえ聞くつもりがなくても、皆、死んでしまうと説かれています。
ここで"死ぬ"とは、「煩悩が死ぬ」ことを意味し、妙法に縁すれば、たとえ反発した者であっても、煩悩を滅して成仏に至ることを譬えています。
相手が好むと好まざるとにかかわらず、正法を耳にすればいつかは必ず信心に目覚め、成仏の境涯を得ることができる。ゆえに、大聖人は『人是を用ひず機に叶はずと云へども強いて法華経の五字の題名を聞かすべきなり、是ならでは仏になる道はなきが故なり』(同P)と、妙法蓮華経の五字を説き聞かせていく以外に「仏になる道」はないと断言されています。

◇「教主釈尊の御使なり」
『日本国は逆縁なり』(P336)
友人にこの仏法の素晴らしさを語っても、理解・共感を得られないどころか、かえって反発されることも少なくありません。しかし、人間関係の悪化を恐れる今の時代にあって、勇気を奮って、友のために対話する人ほど尊貴な人はいません。
法華経法師品第10には「能く竊かに一人の為にも、法華経の乃至一句を説かば、当に知るべし、是の人は則ち如来の使にして、如来に遣わされて、如来の事を行ず」(法華経357ページ)と説かれています。
仏法対話は、仏の使い(如来の使)として、仏の振る舞い(如来の事)を実践する尊い行為にほかなりません。
大聖人は、この法師品の一節を引かれた上で、こう仰せです。
『法華経を一字一句も唱え又人にも語り申さんものは教主釈尊の御使なり』(P1121)
他にも『一句をも人にかたらん人は如来の使と見えたり』(P1448)、『法自ら弘まらず人・法を弘むる故に人法ともに尊し』(P856)等、随所で妙法弘通の実践に励む人をたたえられています。
この仏法は、万人が何ものにも揺るがぬ幸福境涯を開いていける方途を教えています。ゆえに一人一人に仏縁を結んでいく実践は、社会一般のいかなる善行よりも、人間として尊い実践にほかなりません。
勇気を奮い起こして、目の前の一人に、ほんの少しだけ仏法の話をしたとしても、それ自体が「仏の振る舞い」であり、無量無辺の功徳があります。
『力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし』(P1361)
勇んで仏縁の拡大に取り組んでいく中に、自他共の幸福の実現があるのです。