限りある時間を
いかに有効に使うか。
価値創造の仏法だ。
深き祈りを根本に
挑戦と前身の日々を!
異体同心事 P1464
『悪は多けれども一善にかつ事なし、譬へば多くの火あつまれども一水にはきゑぬ、此の一門も又かくのごとし』
【通解】
悪は多くても一善に勝つことはない。たとえば、多くの火が集まっても、一水によって消えてしまう。この一門もまた同様である。
〈寸鉄〉 2019年3月20日
広宣流布は喋りまくらねばならぬ大運動—恩師。確信の声こそ最強の利剣
埼玉・草加、上尾・伊奈町、大宮区、春日部が総立ち。攻めに徹し断固勝ち抜け
北九州・小倉北区、福岡の南・博多区が執念の猛攻。総力の拡大で栄光つかめ
桜前線が列島を北上。我らの語らいも全国縦断!さあ友好の桜花を万朶と
車上荒らし、窃盗に注意。短時間でも施錠を!貴重品やカバンは肌身離さず
☆ふるさとを照らす誉れの長者 勝利島部 2019年3月9日
日本の有人島の数は約400といわれる。勝利島部の友は、愛する島の繁栄と島民の幸せを祈り、奮闘を重ねている。ここでは、誠実な振る舞いと行動で地域に信頼を広げる二つの島の同志を紹介する。
◇東京・神津島/私の実証が広布の未来開く
東京の調布飛行場からプロペラ機で45分。伊豆諸島の中央に浮かぶ神津島にたどり着くと、浜川道子さん(婦人部副本部長兼支部婦人部長)と夫の功さん(副本部長)が出迎えてくれた。2005年に地区から支部に発展したこの島で、初代支部長・支部婦人部長として広布を支えてきた。
「この島には見所がたくさんあるの。さあ行きましょう!」。夫妻の車に乗り島巡り。潮の香りと澄んだ空気が心地良い。水質と透明度で日本一に輝いた海、海岸線に沿って延びる白浜、島の中央にそびえる天上山……。壮大な自然が織りなす景観は、まるで一幅の名画のように美しい。
「特に夏場は釣りやダイビングの観光客でにぎわうんです。でも最近は……」
島の観光客は年々減少。民宿の数も急激に減った。浜川さん夫妻も長年、民宿を営んでいたが、2010年、道子さんを甲状腺がんが襲ったことも重なり、やむなく民宿をたたんだ。
観光協会の女性理事だった道子さんにとって二重のショック。沈む心を支えたのは"勝利の実証が広布を開く"との池田先生の言葉だった。
"必ず勝つ"と決め、強気で治療に臨んだ。甲状腺と右の反回神経を切除。声なき声で真剣に題目を唱えるうち、医師も驚くほど回復した。
報恩の決意で再び広布に走り出した道子さん。にじみ出る優しさと朗らかさに吸い寄せられるように、自宅には何人もの友人や同志が訪ねてくる。体験を通して語る確信の言葉に、立ち上がった友は少なくない。
半世紀にわたり漁業を営む功さんも、交通安全協会会長などを務め、島の安全と発展に尽力。功さんが乗る「吉左丸」は近年、島で最高の水揚げ量を誇る。
「"実証を示す"との思いは皆、一緒」と功さん。
社会福祉協議会に勤務する村田篤泰さん(支部長)も、中学校の用務主事として働く川崎弘子さん(地区婦人部長)も、青年部時代から浜川さん夫妻の姿に学びながら、島の発展を願い、行動してきた同志だ。
防犯協会理事の梅田洋さん(地区部長)は、島で唯一のケーキ屋を営む。島外からも客が来るほどの評判だ。昨年に小学校の副校長として赴任してきた松延康男さん(地区部長)も、島に新たな風を送る。
離島は過疎化や高齢化という課題との間断なき戦いである。だからこそ、一人一人の存在は極めて大きい。自らが勝利の旗を打ち立てた分だけ、島の発展、創価の前進につながると皆が確信している。
「島の広布は、いよいよこれから!」——そう口をそろえる"神津島家族"の熱が、勝利島の未来を切り開く力となるに違いない。
◇長崎・生月島/島で"なくてはならぬ人"に
長崎県の北西部に浮かぶ生月島。九州本土から平戸島を経由し、生月大橋を渡った先にある島である。
内陸を見れば、樹木が生い茂る断崖と草原。その向かいには、紺碧の東シナ海が彼方まで広がる。
日が傾けば、辺り一面が茜に染まる。島の西側を走る道は、水平線に沈む夕日の美しさから「サンセットウェイ」と呼ばれ、自動車会社のCMロケ地としても有名。島の名は、はるばる海を越えて帰って来た遣唐使船の旅人が"ホッと息をついた"ことに由来するという。
「この大自然が私たち島民の誇りです」と語るのは山下恒史さん(副本部長兼支部長)。生月島で生まれ育ち、今は縫製会社の社長として奮闘する。
広島の大学に在学中に入会。卒業後は"故郷に尽くしたい"と帰島し、青年団の副団長などを務めた。
その後、縫製会社の工場長を任されたが、不景気で工場が閉鎖。負債を抱え、島外に出ることも考えた。
それでも"島で戦おう"と思えたのは、島広布を支えた同志の存在だった。
旧習深い島社会の中、草創の友は必死の思いで広布の開拓に汗を流してきた。大浦千代子さん(地区副婦人部長)もその一人。入会当時は、家族や親戚から勘当同然の扱い。折伏に歩けば塩をまかれ、悔し涙を流した。それでも"一人でも多くの島民を幸せに"と子を背負って島中を回り、地道に信頼を築いた。今では老人会の中心的存在。人望の厚い"生月広布の母"は「4人の子が皆、広布の人材に成長したことが誇り」と笑みをたたえる。
35年間、無冠の友として本紙を配達してきたのが森アヤ子さん(支部副婦人部長)。病弱な体を治したいと、毎朝3時間、島を歩いて配った。毎月、購読推進も。「おかげで入会以来、全くの病気知らず」と語る森さんの姿に、学会理解を深めた島民も多い。配達員を引退してからも島中に励ましの輪を広げる。
"先輩が切り開いた広布の道をさらに"と、先の山下さんは島に残り再起を誓った。懸命に負債を返済し、2005年に新たな縫製会社を設立。東京や大阪にも販路を広げ、今ではカンボジアからも青年を雇い、安定した経営を維持できるまでになった。「島民の多くは、誰が学会員か知っています。だからこそ皆、島で"なくてはならない人"にとの思いで頑張っているんです」。山下さんの声に力がこもった。
9年前に関西からUターンし、漁師として活躍する川渕英生さん(地区部長)の存在も心強い。
「団結」を合言葉に勇敢に信頼の道を開いてきた生月島の友。一人一人が"創価の全権大使"に。わが島を"幸福島"に——それが生月の同志の誓いである。