あの人のもとへ行こう!
この友と語ろう!
自ら決めて動いた分だけ
わが境涯も大きくなる。
さあ心軽やかに!
顕謗法抄 P452
『後世を願はん人は一切の悪縁を恐るべし一切の悪縁よりは悪知識ををそるべしとみえたり』
【通解】
後世を願う人は、一切の悪縁を恐れるべきである。一切の悪縁よりは悪知識を恐れるべきである。
〈寸鉄〉 2019年3月9日
「師子は吼えてこそ師子」恩師。青年よ勇敢に正義叫べ!歴史開くのは私と
長野の飯田・下伊那、上田・小県が奮闘。破れぬ壁はない!総力戦で勝ち抜け
大阪の茨木・吹田、堺市西区が攻勢!常勝関西の本領発揮だ。執念で栄光を
中国方面「女性の日」。麗しき婦女一体の行進。笑顔咲く対話で歓喜の春へ
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☆世界に魂を 心に翼を 第13回 沖縄芸能の光彩(上)
◇「太陽を浴びせてくれた」
「よくぞ、あんな公演ができたものだと思う。今や、盛んに行われている琉球舞踊の原型となった。祖国で下火だったアルゼンチン・タンゴが日本で息を吹き返したように、沖縄芸能も民音公演で息を吹き返したのです。民音がなければ、今日の沖縄芸能は考えられません」(伝統・民族芸能プロデューサーの中坪功雄氏)
「これほど芸能が豊かでありながら、自力では魅力を伝えられなくて悔しかった。今は次々に沖縄の芸能が発信されて、世界中で注目を集めていますが、原点はここ。本土の人にとって、沖縄がまだよく分からない時代に民音が取り上げてくれた。私たちは誇りが持てたんです」(玉城流の二代目家元・玉城秀子氏)
「現在の沖縄芸能界を担う方々は皆、この公演の出身です。あの時、舞台に乗せたから今がある。眠っていた沖縄に太陽を浴びせてくれました」(朱日流家元の古謝弘子氏)
今からちょうど50年前。沖縄芸能の関係者が、異口同音に胸を熱くする民音の全国公演があった。
沖縄歌舞団による「太陽燃える島」。
公演名に冠された「太陽」のごとく、沖縄芸能の夜明けを開く転機となった。
◇ ◆ ◇
江戸時代、葛飾北斎が沖縄を描いた「琉球八景」。そこには、降り積もる「雪」が描写されている。
北斎は一度も琉球を訪れたことはなく、想像上の作品である。琉球といえば、本土の文化人・知識人が憧れた"遠い異国"だった。
中国を中心とした近隣諸国との貿易で栄えた琉球王国(1429年〜1879年)では、中国使節団の歓待が最重要行事に位置づけられ、専門の踊り手が誕生した。試行錯誤をへて、鍛え高められた技が「琉球舞踊」である。沖縄は古来、外交においても歌舞という文化の力を重んじてきた。
17世紀初頭に琉球が薩摩藩に侵略された後も中国との外交は続き、新たに江戸との交流も始まった。北斎が琉球を描いた時代は、琉球ブームの真っ盛り。そうした一方で、1719年、琉球では舞踊と音楽の粋が詰まった「組踊」が創作された。今年で初上演から300年となる。
組踊研究で著名な大城学氏(元琉球大学教授)は、「組踊には伝承の危機が2度あった」と指摘する。
一つは明治の「廃藩置県」。
もう一つは昭和の「戦争」である。
国内最大の地上戦を強いられた沖縄。大地は焼き尽くされ、住民の4分の1が犠牲になった。
もともと舞踊家は男性のみだったが、戦争で消息を絶った者も多く、代わりに女性の若手舞踊家が台頭していく。芸能の継承運動が盛んになる一方で、古典への一般の関心は低く、公演中に観客が一人残らず帰ってしまったこともあった。
言いようのない閉塞感の中で、舞踊家たちは将来を模索していた。
◇ ◆ ◇
琉球時代に育まれた「組踊」とは別に、沖縄には、庶民の生活に根差した「民俗芸能」があった。
そうした文化に強い関心を持ったのが、沖縄芸能研究の第一人者である三隅治雄氏だった。
本土から見ると、沖縄は抑圧と戦争の爪痕が刻まれた"悲しみの島"というイメージが根強かった。叙情的な沖縄の古典舞踊が、悲しみの表現だと捉える人も少なくなかった。
だが氏が接した民俗芸能は、そうした先入観を一変させた。自然災害や長年の圧政を歌と舞ではね返してきた沖縄の人々。その屈強な心意気が胸に響く。沖縄本島だけでなく、どの島にも息をのむ歌舞があった。
若者は島を離れ、高齢者が多いのが現実。しかし、ひとたび歌い踊れば、まるで青年のよう。一人一人が名もなき名優だった。「命そのものが噴き出すようでした。困難に屈しない生命の力の表現。それが沖縄の芸能の本質だと感じたのです」
例えば、宮古のクイチャー。三隅氏が目にしたのは、感情豊かに飛び跳ね、全てを吹き飛ばすような豪快な踊り歌だった。
人口300人の竹富島には30もの歌舞曲が。祭りの日は、島外の人々も集まって群舞を繰り広げていた。
氏は島々を訪ね歩き、歌を採録。その成果はLPレコード16枚の「沖縄音楽総攬」に結実し、これが「太陽燃える島」の礎となる。
舞台の革新を目指す古典舞踊家たち。古典だけでなく民俗芸能にも着目した三隅氏。国内外で数々の民俗芸能を世に送り出してきた中坪英雄氏。そして民音が一つになり、1969年、沖縄歌舞団が創設された。団長には宮城美能留氏が就いた。
◇ ◆ ◇
三隅氏が作・演出を手掛けた「太陽燃える島」では、沖縄の庶民の一日を、漁、農耕、織物、武術など10の場面から活写した。
古典舞踊では、出演者が、舞台の袖から出て袖に入るのが一般的だった。曲も一曲ずつ披露する。それが冗長な印象を与えてもいた。
だが同作では、演目の間隔を空けず次々に披露した。幕が上がると、朝焼けの海を見つめる島人が。そこから約1時間、多彩な民謡と舞踊を、息もつかせぬ"早変わり"で演じる。単調な古典芸能が一変した。
歌舞団創設は、古典芸能と民俗芸能を融合させる未聞の挑戦だった。さらに異なる流派の舞踊家たちを、一堂に集める試みでもあった。
「沖縄芸能を代表する4人の先生方の弟子、つまり私たち若いメンバーでやろう、となったんです」
幼少から舞踊に習熟し、若くして道場を構えた玉城秀子氏。重要無形文化財「琉球舞踊」(総合認定)保持者である。歌舞団の創作活動は、氏の概念を根本から覆すものだった。「全てが新しく、初めて経験するものでした。今の私は、歌舞団の中で育てられたようなものです」
同じく重要無形文化財「琉球舞踊」(総合認定)保持者の古謝弘子氏は、「離島に出向き、歌や踊りを学びました。中には"自分たちの歌や舞を教えたくない""外には出したくない"という人もいました」。
ある島で12年に1度の祭りに参加した。だが以後、過疎化が進み、この祭りは行われていない。民俗芸能を受け継ぐ、深い意義をかみ締めた。
◇ ◆ ◇
民音創立者の池田先生が初めて沖縄を訪れたのは、1960年7月。当時はアメリカ施政下であり、その手にはパスポートが握られていた。厳密には"初の海外訪問"となる。
建物にも自動車にも、まだ冷房はない。周囲は涼しい季節の訪問を勧めたが、先生は言った。「暑い盛りに行かなければ、沖縄の人の心も分からない」
この折、学会の沖縄支部が結成された。喜びを込め、琉球舞踊や空手を披露する沖縄の同志。飛び入りの民謡や歌も相次いだ。
東京からの同行者が"お客さんのような顔"で眺める中、先生が扇を手に立った。友の真心に応え、「黒田節」を舞う。一緒に踊ってくれる指導者は初めてだった。
先生の沖縄訪問は本土復帰前だけで6度。第10回学生部総会(67年)では、沖縄の本土復帰を求める提言を。施政権の返還にとどまらない、沖縄の未来を見据えた主張だった。
この年の5月には、民音の海外派遣公演で沖縄に向かう知己の音楽家をねぎらっている。"一つの音色にしても、価値あるものに"と期待を語り、公演先に電報も寄せた。沖縄歌舞団創設を心から喜び、全国公演の成功を念願してきた。
沖縄に第一歩をしるした当時に触れ、池田先生は記している。
「涙も涸れるような、残酷な歴史さえも、沖縄の民衆から歌と舞を奪うことは、絶対にできなかった。生きて、生きて、生き抜いて、生命の底から、歌わずにはいられない、そして舞わずにはいられない人間の光彩! この民衆の乱舞こそ、戦争の暴風に打ち勝つ、文化の力であり、平和の力である」と。
半世紀にわたって民音の歩みを見つめてきた三隅氏は、こう結論する。
「沖縄がどう生きていくか。沖縄の幸せとは何かを、民音は常に考えている。沖縄の芸能は民衆の魂の所産です。沖縄の芸術を大切にすることが、沖縄の地熱を高めます。華やかだとか今がブームだとか、そんなことに関係なく、沖縄の未来そのものを応援しようという姿勢。民音が形にしたのは、源にある池田先生の思想そのものではないでしょうか」
◇ ◆ ◇
沖縄歌舞団の全国公演は、69年11月17日、大阪から始まった。
好演が話題を呼び、どの会場も満席の歓声に包まれた。古典舞踊や民俗芸能の公演としては異例である。
上京し、沖縄出身者の学生寮にいた大城学氏は、先輩を誘って足を運んだ。「あの組踊やお祭りの舞が、これほど心を揺さぶるのか」。驚くそばで、先輩は「沖縄に生まれてよかったよ……」と涙を拭っていた。
氏は語る。「古典といわれる組踊は七十数番ありますが、古典を保存するためには新作が不可欠です。新作と古典は、いわば車の両輪。それがうまくかみ合うところに、新しい芸能文化が生まれてきます」
当時、沖縄芸能といえば、県人会など身内での公演が中心で、県外の鑑賞者は少なかった。ところが民音は、北海道から鹿児島まで、全国100回を超えるステージ。どの会場も熱烈な喝采が飛び交う。沖縄と本土との心の距離を縮めた意義についても、識者は口々にたたえている。
その後、歌舞団は国際交流基金等の助成を得て、世界の舞台へ。30カ国以上で沖縄芸能の魅力を伝えた。
「鳥肌が立つんですよ。涙が出るんですよ」——古謝弘子氏が、つぶやくように胸の内を明かす。
「日本中、世界中、どこに行っても沖縄の人たちがいるんです。皆さん、涙して帰るの。民音は、この人たちを力づけてくれた。これが一番思い出に残るんです。世界中の沖縄の人たちに夢を与えてもらって、歌舞団には勇気をもらって。民音が熱い情熱で火を付けてくれたんです」
沖縄歌舞団創設から約3年がたった72年5月15日——。
本土復帰のこの日、組踊は国の重要無形文化財に指定され、伝承者の育成事業が本格化することになる。