2018年12月31日月曜日

2018.12.31 わが友に贈る

新聞休刊日

本尊供養御書 P1536
『事多しと申せども年せまり御使急ぎ候へば筆を留候い畢んぬ』

【通解】
書きたいことは多くあるけれども、年の瀬も迫り、使いの方も急いでいるので、筆を留め置くことにした。

☆御書と歩む� 第49回 全同志の大奮闘に栄光あれ!
『日蓮を供養し又日蓮が弟子檀那となり給う事、其の功徳をば仏の智慧にても・はかり尽し給うべからず』(諸法実相抄、1359ページ)

◇通解
日蓮を供養し、また日蓮の弟子檀那となられた功徳は仏の智慧でも量り尽くすことはできない。

◇同志への指針
この一年、新たな地涌の友が、あの地でも、この地でも澎湃と誕生した。
御本仏は全国・全世界の大奮闘をいかばかり御賞讃であろうか。本当にありがとう!
大聖人直結の「弟子檀那」として戦う創価家族の功徳は仏の智慧でも量り尽くせない。
新たな一年も、我らは広宣流布のため、立正安国のため、不二の大闘争で、金剛不壊の歴史を築こうではないか!

☆世界に魂を 心に 翼つばさを 第11回 精神のシルクロード(中)
◇「対立」の時代に 創つくる「共演」の舞台
中国、インド、イラクの出演者による華麗なステージが話題を呼び、大盛況となった民音「シルクロード音楽の旅」シリーズの第1回公演。
関係者の胸に焼き付いている光景がある。
1979年8月12日。全国17都市の巡演を終えて迎えた帰国の日。ホテルのロビーでは、それぞれの出発時間ごとに、他の国の共演者が見送りに。抱擁を交わし、涙を流す。
イラン・イラク戦争の前年。中には帰国後に出征する出演者もいた。無事を祈りながら別れを惜しんだ。
激動の時代である。各国の出演者は、来日公演の合間に母国のニュースを食い入るように見つめていた。翌年のモスクワ五輪は60以上の国々がボイコットするなど、文化行事にも暗い影が落ち始めていた。
◇ ◆ ◇
「シルクロード音楽の旅」の企画に携わった、世界的な民族音楽学者の小泉文夫氏。
当時、民族音楽のラジオ番組を担当していた。熱烈な聴衆もいたが、大衆受けするものではない。いかに、「シルクロードの音楽」の魅力を人々に伝えていくか——。
検討の末、海外で現地調査を行い、公演の中身を練ることになった。さらにシリーズ化し、各回にテーマを設けた。第1回は「歌」、第2回は「楽器」、第3回は「舞踊」、そして第4回を「総集編」と位置付けることになった。
第1回公演が実現した79年は、持ち運びに便利な携帯音楽プレーヤーが発売された年。音楽の多様化は、まだまだこれからという時代である。
「当時、小泉先生のいる場所が、世界の珍しい音楽を知るための"情報センター"になっていました」
そう振り返るのは、東京芸術大学で小泉氏の授業を初めて受講した小柴はるみ氏(東海大学名誉教授)。いわば"最初の弟子"の一人である。数々のフィールドワークを共にし、民音の海外での調査にも同行した。
「小泉先生は、何でも自分の目と耳で確かめる方でした。間接的な情報をうのみにせず、現地に足を運んで、本質を捉える。民音の現地調査でも、毎回必ず、仮説、考察、舞台化というプロセスを踏まれました」
何より、小泉氏の温かなまなざしが忘れられないという。
「『調査に来ました』ではなく、『皆さんから教えていただくために来ました』と言いなさい」と氏は口酸っぱく語ってもいた。当初、「調査団」だった名称も「考察団」に改められた。
◇ ◆ ◇
第1回公演以来、関係者の悲願となっていたのが、政治的に激しく対立していた中国とソ連(当時)の合同公演である。
70年代は、日中関係が大きく動いた時代だった。72年に日中共同声明が調印され、78年、日中平和友好条約が締結された。
その間、早くも75年には、中国北京芸術団が民音の招聘で日本公演を果たしている。中国側に何度も合同公演を呼び掛けたものの、中ソの共演だけは強く拒否された。
第2回公演の開催へ、民音は再び考察団を派遣。80年7・8月、小泉団長を中心に、北京、西安、蘭州、敦煌、ウルムチ、クチャ、カシュガル、さらにパキスタンの各地に足を運んだ。
一行は、行く先々で「池田先生がつくられた民音ですね」と声を掛けられた。
この前年の4月、池田先生は創価学会の会長を辞任。日本では学会への中傷が一部マスコミで繰り返された。国内とは正反対の評価に驚きを隠せない。
考察団は敦煌莫高窟、キジル千仏洞などの史跡の壁画を音楽的観点から調査。莫高窟では壁画に描かれた全ての楽器を写真に収め、類例を見ない実績を収めた。
中国から帰国する前日。北京にいた一行を、「敦煌の守り人」として知られる常書鴻氏が訪ねた。
「私には命の恩人が二人います」と語る常氏。さらに続けた。
「一人は文化大革命の時に守ってくださった周恩来総理。もう一人は、私の研究を理解し、励ましてくださった池田先生です」
砂漠の砂に埋もれ、崩壊の危機にあった莫高窟。常氏は、私財をなげうち、敦煌芸術の保護に身をささげた。土砂崩れを防ぐために周辺に木を植え、土塀を作った。水も電気もない。土を固めてベッドや机をこしらえた。
文化大革命では、"敦煌芸術という精神的アヘンで人民を毒する元凶"と批判され、肉体労働を課せられた。暴行などの迫害は10年に及んだ。
この筋金入りの人物が「命の恩人」と語るのが池田先生だった。
襟を正す考察団一行。シルクロードを巡る旅は、池田先生が開いた友好の道をたどる旅でもあった。
「精神のシルクロード」を主題に掲げたモスクワ大学での池田先生の講演(75年5月)。その前年、先生は、9月にソ連のコスイギン首相、12月に中国の周恩来総理、75年1月にはアメリカでキッシンジャー国務長官と会見している。
民間人の立場ながら、冷え切った米ソ、中ソ関係の打開に尽力した。「中ソは必ず和解します。否、そのためにも私は行くのです」と。
その行動は、どんな立場になろうと一貫して変わらなかった。
◇ ◆ ◇
81年7月。中国、イラク、パキスタン、ルーマニアの芸術家による、第2回「遙かなる楽人たちの道」(楽器編)の公演がスタートした。
圧巻はフィナーレの合同演奏「越天楽」。小泉氏が特に思いを込めた企画である。敦煌の壁画に描かれる楽人の合奏が、ステージ上で"再現"された。終演後、しばし喝采がやまなかった。
一方、出演者同士の"文化の違い"は想像以上に大きかった。宗教上の理由による食事制限があれば、スタッフは街を走って食べられる物を探した。公演会場の一室に絨毯を敷いて、イスラム教のお祈り用の部屋を設けたこともあった。
民音のシルクロードシリーズで、長年、出演者のツアーマネジャーを務めた遠藤建吉氏。「通常、こういった類の公演が終われば、海外からの出演者は、疲れてぐったりするのが普通です。でも民音公演は違いました。みんな、逆に元気になってバスに戻ってくるんです」
小泉氏は、出演者を迎える民音側の姿勢に深く共感していた。
かつて大阪万博に招待されて演奏した海外の音楽家たちが、受け入れ側から心ない対応を受けたことがあった。氏は自腹を切って歓待した。
一方、民音の大阪公演では、京都の史跡見学など、出演者が日本文化に触れられるようにと心が尽くされていた。
小泉氏は、うれしそうに語っている。「スピリチュアル・シルクロード(精神のシルクロード)なんでしょうね。民音にはハートがあります」
◇ ◆ ◇
「ちょっと失礼。少し休ませてください」
第3回の考察団の調査結果をもとに、打ち合わせを重ねていた83年6月。小泉氏が背中の痛みを訴えた。病院へ行くと、膵臓癌と診断された。すぐに入院し、面会謝絶となった。第3回「胡旋舞の道」公演が始まる約1カ月前のことだ。
ある日、民音スタッフに、病床の小泉氏から電話があった。
病室に駆け付けると、小泉氏は言った。「何とかしたいが、舞台には立てないかもしれない」
氏は第1回以来、毎回の公演で司会に立ち、解説役を務めてきた。弟子の小柴はるみ氏が、司会の代役に立つことになった。
7月、シリーズ第3回の公演が始まると、小泉氏は妻の代筆で手紙を寄せた。"最終の東京公演は、救急車をお願いしてでも駆け付けたい"
そうした氏の情熱にも支えられ、公演は大成功。中国、インド、トルコからの出演メンバーが帰路に就いた翌日、小泉氏は息を引き取った。
◇ ◆ ◇
84年12月、中国側から突然、民音に電話が入った。「今なら交渉が可能かもしれません」
シリーズ第2回、第3回と、中ソの共演を拒んできた中国。だが、ようやく雪解けの兆しが見え始めた。
小泉氏をはじめとする関係者の悲願が、ついに実現の瞬間を迎えることになる。池田先生のモスクワ大学での講演から10年がたとうとしていた。

◎「世界広布新時代 栄光の年」もご愛読に感謝、感謝。そして大変お世話になりました。