2018年12月10日月曜日

2018.12.10 わが友に贈る

新聞休刊日

御義口伝巻上 P725
『此の信の字元品の無明を切る利剣なり』

【通解】
信の一字は、元品の無明を断ち切る鋭利な剣である。

☆世界に魂を 心に翼を 第10回 精神のシルクロード(上)
◇「音楽」という光で地球を照らす
「実は、日本のシルクロードブームの火ぶたを切ったのは民音です。メディアや広告業界の知人たちも、あの民音公演に感動し、シルクロードの取材を始めたのです」
演出家の藤田敏雄氏。日本における創作ミュージカルの草分け的存在であり、人気番組「題名のない音楽会」などを手掛けてきた。
シルクロードにゆかりのある20カ国から一流の音楽家を招き、30年にわたって続いた民音公演「シルクロード音楽の旅」。民族音楽史上に残る、一大プロジェクトであった。
NHKの「シルクロード」が放映されたのは1980年。民音は、その3年前からシルクロードに調査団(後に考察団に改称)を派遣し、公演を準備していた。
数々のドキュメンタリーを世に送り出してきた藤田氏をして、「一つの公演を、あれほどの規模で演出したことはありません」。
シルクロード公演は、民音にとっても一つの転機となった。
——民音創立(63年)から10年余り。60年代は音楽鑑賞団体の全盛期であり、歌謡曲や演歌は興行会社・団体が一手に引き受けていた。その一方、クラシックやオペラは、チケットが高額で庶民には手が出ない。
そうした状況下で、民音は独自の発想と努力で安価な入場料を実現。音楽鑑賞の裾野を広げていく。
さらに海外の著名な音楽家を次々に招くなど、国内最大の音楽鑑賞団体として認知されだしていた。
当時、民音で企画に携わっていた荒木秀夫さん(元理事)は述懐する。
「これから民音が果たすべき使命とは何か。スローガンの一つにある"音楽による国際的な文化交流"を形にしたいと議論を重ね、演出家の藤田さんに相談したのです」
"音楽鑑賞団体"から、"世界を結ぶ音楽文化団体"へ——。
飛躍の原点となったのは、民音創立者・池田先生の講演だった。
◇ ◆ ◇
長い冬を越え、モスクワでは木々が一斉に芽吹いていた。
75年5月27日。モスクワ大学の文化宮殿には、約1000人の教職員、学生らが詰め掛けた。
「海外の友人の率直な感想として聞いていただきたい」
東西冷戦の時代。前年にソ連と中国を初訪問し、市民から首相に至るまで、忌憚なく対話を重ねてきた先生。青年時代から愛読するロシア文学への所感を述べつつ、聴衆一人一人と語らうように講演を始めた。
タイトルは「東西文化交流の新しい道」。その主題は「精神のシルクロード」である。
古来、ユーラシア大陸の東西を結んだシルクロード。物資の交易路であっただけでなく、美術、建築、音楽などの文化交流の道でもあった。
当時とは比較にならないほど、物や情報の交換は盛んになった。だが一方で、人間と人間の交流、なかんずく心と心の交流は希薄である——先生の言葉に、一段と力がこもる。
「民族、体制、イデオロギーの壁を超えて、文化の全領域にわたる民衆という底流からの交わり、つまり人間と人間との心をつなぐ『精神のシルクロード』が、今ほど要請されている時代はないと、私は訴えたいのであります」
論点は「南北問題」にも及んだ。
「持てる北」と「持たざる南」。こうした経済発展の度合いによる国の色分けは、対等な文化交流の妨げになってしまうだろう。人類を、もっと別の視点で見ていく必要がある。先生は続けた。
"世界を「経済」という光ではなく、例えば「音楽」という光で照らしてみてはどうか。また「文学」という光、「芸術」という光ではどうか——先進国や開発途上国といった区別は消え、今とは全く異なる光景が現れるに違いない"
相互性、対等性、そして全般性に富んだ文化交流が実現した暁には、「東西のみならず、南北をも包み込んだ『精神のシルクロード』が、世界を縦横に取り結ぶことになるでしょう」。
1時間半を超えるスピーチに、大拍手で応える聴衆。講演の言々句々は、先生の決意の表明でもあった。
翌日、再会したコスイギン首相と文化交流の未来を展望している。
◇ ◆ ◇
「大学講演を何度も繰り返し読みました。特筆すべきは、東西の冷戦構造だけでなく、南北の経済問題にも言及し、文化交流を論じている点です。モスクワ在住の友人も、深い感銘を受けていました」
藤田氏は民音のシルクロード企画の演出を快諾した上で、「企画はその道のプロフェッショナルに頼みたい」と、ある人物の名を挙げた。
小泉文夫氏。「民族音楽」の第一人者である。
東京芸術大学教授を務める傍ら、世界を飛び回ってフィールドワークを続けていた。シルクロードといえば、彼以上の適任者はいない。
当時は、書店を回ってもシルクロードに関する書籍はほぼなかった。小泉氏の知識が頼りである。
氏は「予備調査ができるなら、喜んで企画をやりたいですね」。
どんな音楽があるか。
どんな音楽家がいるか。
日本まで来てくれるのか——。
現地に行ってみなければ、企画の見通しは立たない。
そもそも内陸アジアは社会主義国が多い。入国は制限され、学術調査も思うようにはかどらない。
北極圏をはじめ、五大州のさまざまな地で現地の人々と生活を共にした小泉氏でさえ、共産圏に足を踏み入れたことはなかった。
どうして、民音はここまでシルクロードに情熱を寄せるのか——。
民音のスタッフが、創立者のモスクワ大学での講演について説明すると、小泉氏は声を高めて、「スピリチュアル(精神の)・シルクロード?」と目を輝かせている。
各地で民族音楽を探究し、数々の理論を打ち立ててきた小泉氏。歴史的、文化的な「つながり」に着目し、人類の深い関連性を洞察してきた。
「ある音楽をすばらしいと思うようになると、その音楽を作りだした人々をすばらしい、と思うようになる」(岡田真紀著『世界を聴いた男』平凡社)との持論がある。
氏にとっても、シルクロード調査は音楽の地平を開く挑戦だった。
◇ ◆ ◇
77年7月。小泉氏を団長とする民音シルクロード音楽舞踊調査団が日本を発った。ソ連(ウズベク共和国)、モンゴル、アフガニスタン、パキスタン、インド、ネパールを51日間で巡る強行軍である。
断崖絶壁の山越えに川沿いの険路、炎天下の砂漠に高地……。川で口をゆすぎ、一日が始まる。「ロード(道)」といっても、道はない。砂漠と高山の連続を、車でかき分けるように進んだ。
モンゴルの遊牧民が、日本の「追分」をほうふつとさせる「オルティンドー」を歌うのを目の当たりにし、一行はシルクロードが「音楽の道」であるとの確信を強める。
パキスタンの山奥では、調査団による"歴史的発見"もあった。
7000メートル級の山々が連なるヒンズークシ山脈。その麓にカラーシュ族という民族が暮らしていた。
1年の大半を雪に覆われ、立ち入れるのは、夏の2カ月間のみ。パキスタンの音楽関係者は「カラーシュの音楽に関心を示したのは、あなたたち日本の調査団が初めてです」。
そこで驚くべき光景に出あう。彼らが手にする打楽器「ワッチ」が、日本の正倉院に保存され、法隆寺の壁画に描かれる鼓と酷似していたのだ。
カラーシュ族は、ギリシャのアレキサンダー大王がインド遠征時に残した屯田兵の末裔ともいわれる。そうであれば、西のギリシャと、シルクロードの東端に位置する日本が、"音楽で結ばれていた"ことになる。
帰国後の記者会見には多数のマスコミが詰め掛け、その成果に多くの学識者が目を見張った。
◇ ◆ ◇
「シルクロード音楽の旅」シリーズの第1回公演「遙かなる歌の道」が実現したのは、79年7月。海外からは中国、インド、イラクの最高峰の音楽家が顔をそろえている。
民族音楽の豊かな響きに、聴衆は息をのんだ。反響は大きく、音楽家たちは、関係者に請われてテレビの音楽番組にも出演している。
イラクの音楽家は、公演直前まで音信不通だった。この年の2月にイラン革命が勃発し、イラクとイランが"戦争前夜"の混乱状態にあったことが後に判明した。
公演の舞台裏では、出演者たちの麗しい交流もあった。
モンゴル族の歌手が"友情が永遠に続くように"と歌いだすと、インドの音楽家がベンガル民謡で返礼。緊張気味だったイラクの歌手も手拍子で唱和し、最後は民族舞踊で心を通わせた。
出演者の友情を目にした関係者に、ある考えが芽生えた。"国交が途絶えている国の音楽家が同じ舞台に立てないか"
中ソの国境を音楽の光で照らす。新たな挑戦が始まった。